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高橋英夫 『神を見る/神話論集I』

☆mediopos-2388  2021.5.31

一昨年の2019年に亡くなった
文芸評論家・高橋英夫の著作集
『テオリア』全8巻が刊行されはじめている
現在は1巻目の「1 批評の精神」のみ
(これについてはいずれとりあげてみたい)

それをきっかけに手元にある著作の数々を
読み直してみたりもしているのだが
高橋英夫の翻訳にカール・ケレーニイの
『神話と古代宗教』があることや
文庫化された著作のなかに
「神話論集(1・2)」があったりもすることから
今回は「神話」について少し

神話とはなにか
世界各国の神話をひとくくりにして
とらえることはむずかしいけれど
それらはまず多く
神々の物語であるということができる

神々の物語は
どのようにして生まれたのだろう
そしてまた神々の物語は
現代の私たちにどんな関係があるだろう
そう問いかけてみることができる

そのときひとつの視点として
カール・ケレーニイの神話学的思考である
「原型」と「再現」という対比関係のなかで
神話をとらえてみることもできるが
それはユングの原型(元型)と集合無意識
そしてそこからの個性化へと向かう
心性の働きと関連している

私たちの意識の深みには
ユング的にいえば集合的な無意識の元型があり
神話的にとらえてみるならば
それらは神々の物語であるともいえる

私たちの意識の深みには
神々の物語があるということである
それは神話の語られる言語が共有されている
共同体においてその深みから働いているのだ

それを神秘学的にいうとすれば
かつて私たちは半ば霊的世界にいたが
そこには神々の世界があって
私たちはそれらの神々からの神託を
受けるかたちで生きていた
その頃の私たちはまだ個別の存在というよりは
類的な存在として集合的な心魂をもっていたのだ

私たちが個別の心魂を獲得していくにあたっては
それまで外から私たちに働いていた神々の力が
私たちの内的な心魂となっていったプロセスがある
私たちはいま「心」をもっていると思っているが
それは神々の力が私たちの内的な心魂へと
変容したことで生まれたものだ

古代中国の漢字の成立においても
「心」という漢字が生まれたのは
かなり後代になってからだというが
そのことも私たちの内的な心魂が
成立してくる過程を表してもいるのだろう

さて問題はここからである
私たちの意識の深みには
神々の物語である神話が元型的に存在していて
私たちひとり一人の意識に働きかけているが
私たちにとっての神話はすでに
かつて外から私たちに働きかけていた
神々の物語そのものではなくなっている

私たちは未来に向け個の「自由」において
魂の個性化を図っていく必要があるからだ
そのため私たちはそれぞれが
私たちの深みで働いている神々のことも踏まえながら
あらたな「神話」を創造していかなければならない

そのことについてはたとえば
(かつてその著作をmedioposで取り上げたこともあるが)
ジョーゼフ・キャンベルの神話学を
参照してみることも必要になるだろうが
それはまたあらためて別の機会に

■高橋英夫
 『神を見る/神話論集I』
 (ちくま学芸文庫 2002.8)
■カール・ケレーニイ(高橋英夫訳)
 『神話と古代宗教』
 (新潮社 昭和47年5月)

(高橋英夫『神を見る/神話論集I』〜「III ディオニュソスをめぐって」より)

「ギリシア神話の中にも、日本神話顔負けの八百万の神々が登場してくる。なかでも特に眼を惹くのは、明晰な「知」の神とされてきたアポロンと、陶酔的な「激情」の神ディオニュソスだろう。かつてニーチェが打ち立てたこの両神のコントラストは、たしかに類型として今日までひろく浸透してきた。
 III章では、ギリシア神話の神々が神の「形相(エイドス)」において、あらゆる生の気紛れ、過激さ、無軌道を示していたことを、個別的に辿り、語った文章を集めた。それら神々の中心がアポロンとディオニュソス、ことにディオニュソスは問題性に富んだ神である。
 ここでも、ケレーニイの神話学的論考から得たものが立論の出発点を形づくった。そうである結果として、ニーチェ敵に固定された観念や映像をゆさぶって、いささか異風かもしれない神の姿を語ることとなったかと感じなくもない。アポロンについては、ケレーニイが学界に登場した最初の論文「霊魂不滅とアポロン宗教」で示した新しい知見と叙述に基づいて、この神が一方では明晰な「知」の神、光の神でありながらも、他方暗い神であり、「狼」のアポロンでもあったことを、つまりアポロンの相反併存性を語った。
 ディオニュソスについても、「酒神」バッコスという既定の神像に重なりあう存在として、ディオニュソスを逮捕したディオニュソスの対立者ペンテウスや、ディオニュソス崇拝を拒んだオルペウスを挙げることができるだけではなく、キリストの受難と復活の運命もディオニュソスの運命に通ずるものとしてうかびあがってくる。受難--死--復活、そこには対立の一致があり。受難と復活の運命が見出されるということを、III章では語っている。」

(高橋英夫『神を見る/神話論集I』〜「IV ロゴス、そして言葉」より)

「ケレーニイの神話学的思考のもう一つの特徴は、「原型」と「再現」という対比関係のなかに見出すことができる。「原型」というC・G・ユングが連想されるし、現にケレーニイも第二次大戦中スイスに移って、ユングと学問的に出会っている。しかしケレーニイの学問的方向性は「原型」にはなかった。「原型」とはそれをくりかえし、「再現」し「継承」する後裔、つまり「われわれ人間」をもつことによって、はじめて「原型」たりうるのだ。これをケレーニイ自身は「人間主義(フマニスムス)」とも言っていた。
 「人間」へのまなざしは「生(ビオス)」の重視と言い換えてゆけよう。かつて「原初の生」を奔放に生きたのが神々であったとすると、それを模倣・再現・展開して、個々の歴史時間の中での「生」たらしめたのが人間である。この意味で、ビオス的な神と人との結びつきというものを認めなければならない。
 さらにもう一つの視点を導入してゆこう。「生」とはただの日常ではないのだ。たんなるリアリズムだけのものでもない。「生」は人間にとって「ロゴス」として、言葉としてあらわれる、こういう問題が最後に明らかになってくるだろう。すでに「神話(ミュトロギア)」というその言い方自体の中に、ロゴスが含まれていることに注意すべきである。神話とは、神とは、つまり人間にとっては言葉であり、ロゴスとして語られる以外のものではなかった。最終的に人間を人間たらしめたのはロゴスである。」

(高橋英夫『神を見る/神話論集I』〜「神話としての現代」より)

「神話は人間的であるというのは、神話が人間の言葉によって語られ、伝承されてきたという問題の一つの側面にすぎない。神話くらい言葉を意識させるものはない。言葉。すなわちロゴスの中から神々や英雄の映像をわれわれは読みとってきた。読みとられたのだから、それは人間の言葉でもある。しかしギリシア語で神話がミュトロギアといわれるのは、何を意味しているだろうか。ミュトスとロゴスの結合系である言葉はミュトス(物語)を語ることをさしている。」

「神話は生命を表現している。沈黙ではなく言葉を、不変動ではなく生成変化を、無ではなく有を、秩序ではなく動揺や転換を本領としている。そこから神々ならぬ人間も神話に繰り込まれた神話的登場者なのではないか、という思いは一層促されてゆく。それだけに止らず、神話的始原は終末をも包含すべきであり、神話的巨人は小なるものと結合すべきであり、神話的原理は各種各様の再現を生み出すべきであるというなら、神話はわれわれ現代人のあいだに一層浸透し、われわれの細胞の一つ一つが神話の成分を吸収して膨らんでゆくような感じさえしてくる。」

「普通、神話と思われているものが単純にそのまま神話なのではない、私はそう言ってきた。それは神々や英雄が登場すれば神話なのではない、というところから始まった。現代の作家がディオニュソスや大国主神を作中人物として描けばいいのではない。今日、現代の人物群をさまざまに描き分けて、よく透視してみると、その中に神々、英雄、ないし伝説的人物の貌が重なりあってみえてくるという具合に、暗示的手法が流行しているが、それさえ余計であり、といってもよい。現代の人間が神の貌を隠しもっているか否かには関係なく、現代人が現代人のものでしかありえない表情をうかべていたら、その表情を可能な限り微分化してゆく。それがそのまま神話だとはいわないが、神話が成立するのはそんな微細なものげの感性がはたらくときだけである。言うまでもなく、巨大なものや超越的なものがただちに神話を意味しないというもう一つの指摘も、それと関係している。
 ここでもう一つ別の規定を与えるなら、神話は共同体にだけかかわっているのでもない。私は、神話といえば反射的に連想されてきた共同体、原始心性などの普遍的概念にたいして、保留をつけたい。原型という概念についても同様である。個別性ではなく普遍性、日常性ではなく超越性の中にだけ神話が探られて来たのを無条件で受け容れてよいだろうか。現代人の神話は、日常的・個別的行為の奥に、人類共通の宿命であり原型性が浮かび出ていると還元することで終わってしまうのか。私は、それは、現代人が神話に還元されうる条件を暗示しているだけで、現代人もまた神話の中に生きていることを確認したことにはならないと考える。
 共同体神話が神話のすべてではなく、それと対・構造をなすものとして個人神話が存在することを認めなければならない。現代の神話的状況はより多く個人神話の中に見出されるだろう。個人神話とはつまり、一見神話と何のつながりもなさそうな現代の人間が、日常のさなかでいつしか描き出している唯一無二のかたちや表情をさしていう。原型に還元するのは必要な手続きの一部であるにすぎず、個人神話が神話であるゆえんは、そこにはない。個人神話は、それが人間にとって避けられない、逃れるすべのない生であるというところに求めるしかないのである。個人性の中で、すでに指摘したとおり、巨人性に対応する小ささ、原型に対する再現が生命を吹き込まれるのだ。」


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