見出し画像

野矢 茂樹『語りえぬものを語る』

☆mediopos2638  2022.2.5

「語りえぬもの」は語りえない
それにもかかわらず
語ろうとする

語ることはできないかもしれないが
語りを超えたところで
「語りえぬ」ものは
その姿を垣間見せてくれるのではないか

そんなことを思いながら
野矢茂樹氏の『語りえぬものを語る』を読み
決定論を拒否し自由を擁護したいという
その意図の表明に至るのを喜ぶ

決定論は「どんなできごとにも、
厳格な因果法則が成り立つような原因が存在する」
まだ原因がわかないとしても
「まだ見つかっていないだけで、探せばきっとあるはずだ」
そう応じるだろうという
依拠するのは自然科学である

科学信仰はそこから生まれる
結局のところ現代最大の宗教である科学信仰は
そうした「決定論」の教えを支えにしている
そこに「自由」の入る余地はない
まだわかないことも
いずれ科学が解明してくれるという信仰である

しかし科学は「決定論的世界像を現実世界にあてがい、
そこからこの現実世界を透かし見る」だけであって
現実世界そのものを明らかにしているわけではない

あくまでも仮説にもとづいた検証による証明でしかなく
「像」に照らされない現実があるように
「この現実世界は、そのような自然科学の自然像から
つねに、しかも思いもよらぬ仕方で、はみ出していく」

世界は語り尽くせない
しかしそれは科学の限界ではなく
科学が語れる世界はその範囲内にあるからだ

「世界は、私を驚かしうる」
「そこにこそ、「自由の物語」を語り出す余地も生まれる」

語りえぬという不可能性にもかかわらず
語りえないものを語ろうとする
決して「証明」できないが
驚きに満ちた〈自由〉が
そこには開かれているのではないか

■野矢 茂樹『語りえぬものを語る』
 (講談社学術文庫 講談社 2020/11)

(野矢 茂樹『語りえぬものを語る』より)

「私は決定論と自由は両立しないと考えている。そして、自由を擁護したいとも。それゆえ、私は決定論を拒否しなければならない。だが、決定論に直接反論することは不可能なのである。どうしたってそれは水掛け論になる。」
「決定論を支えるのはあくまでも厳格な因果法則である。」
「決定論は「どんなできごとにも、厳格な因果法則が成り立つような原因が存在する」と主張する。それに対して、「そのような原因は存在しない」と反論しようとしても、「まだ見つかっていないだけで、探せばきっとあるはずだ」と応じられてしまうだろう。決定論も「あるはずだ」としか言えない弱みはあるが、反決定論も「あるはずがない」とまで強いことは言えず、けっきょくどちらも決定的なパンチが出せないままとなる。
 だが、決定論者は「こっちには強い味方がある」と言うだろう。自然科学である。量子力学はともかくとしても、少なくとも巨視的(マクロ)な現象については自然科学は決定論的である。だとすれば−−−−と決定論者は反決定論者たる私に言う−−−−、君は自然科学を敵にまわす気か。
 いや、そんな度胸は私にはない。私がやりたいことは、自然科学はけっして決定論者の見方ではないと示すことである。自然科学の営みから決定論を切り離すことができるし、実際、切り離されている。私はそう論じたい。」

「決定論は、「できごとAが生じると、それが原因となってつねに必ずできごとBが生じる」という厳格な因果法則がこの世界には成り立つ、と信じている。この信念に対して自然科学は援軍となりうるのか。
 ここまでの私の議論がまちがいでなければ、答えは否定的である。厳格な法則はそもそも世界を描写したものではない。それゆえ、それは世界が決定論的なあり方をしていることを示すものではありえない。なるほど、科学は決定論的な理念世界像を描き出すかもしれない、だがそれは、けっして世界がその通りであるという主張として素朴に理解されるべきではない。現実世界は科学が描き出す決定論的な世界像からずれ、はみ出し続ける。科学はそれのずれを見積もるべく、決定論的世界像を現実世界にあてがい、そこからこの現実世界を透かし見るのである。
 現実には、人間が関与する現象は言うまでもなく、自然現象もまた、まったく同じことが繰り返されるということはない。毎日毎年同じように昇っているように見える太陽も、完全に同じ昇り方をすることなどありはしない。枝から堕ちる木の葉は言うまでもなく、手から放したリンゴでさえ、厳密には二度と同じ落ち方はしない。あらゆる現象は二度と反復されることのない一回的なものである。他方、自然科学は、厳格な法則を提示し、条件さえ揃えば完全に同じ現象が何度でも反復されるという自然像を描く。だが、この現実世界は、そのような自然科学の自然像からつねに、しかも思いもよらぬ仕方で、はみ出していく。
 科学が世界を語り尽くせないのは、科学の限界のゆえではない。そもそも世界は語り尽くせないのである。世界は、私を驚かしうる。実在は、自然科学も含め、言語によって語り出されたあらゆる理念的世界からずれていく。実在とは、語られた世界からたえずはみ出していく力にほかならない。その力を自分自身に、人間の行動に見てとるとき、そこにこそ、「自由の物語」を語り出す余地も生まれる。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?