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菅野昭正『詩学創造』/対談=中地義和×塚本昌則<追悼=菅野昭正 認識と創造>(週刊読書人)

☆mediopos-3120  2023.6.3

フランス文学者で
現代詩・現代文学の評論・翻訳をはじめ
多岐に渡る仕事をされてきた
菅野昭正が三月七日に九三歳で亡くなった

「週刊読書人」(五月五日)に
「追悼=菅野正明」ということで
フランス文学者の中地義和・塚本昌則による
対談が掲載されている

そのなかから五篇の詩人論
(北原白秋論/萩原朔太郎論/三好達治論/
伊東静雄論/西脇順三郎論)が収められた
菅野昭正の著書『詩学創造』について

『詩学創造』の「あとがき」にあるように
この五篇の詩人論は
それぞれの詩人の個別的なそれではなく
「あるひとつの問題系列を追いながら」
「彼らの創造した詩の世界をあらためて考え直」したもの

明治以降日本の詩人たちは
それまでの伝統的な短詩型文学から離れ
「新しい詩を創造するために、悪戦苦闘を強いられた」

「この五人の詩人たちが
それぞれどういう詩を創造したか、
新しい詩を創造するためにどういう詩学を編みだしたか」
菅野昭正の「関心は最初から最後までそこにあった」という

『詩学創造』は北原白秋論からはじまっている

「北原白秋にたいする関心の頂点に坐りつづけている歌」は
「白秋最後の絶唱」である次の歌だという

 「内隠(こも)るふかき牡丹のありやうは
         花ちり方に観(み)きとつたへよ」

ここで「詩人の眼の前に置かれている牡丹の花」は
「知覚できる表面のかたち」を
「見る視線」ではなく「観る視線」
つまり「観」の眼である

見ることと観ることとの違いについては
小林秀雄「私の人生観」における
「観見二つの見様」についての
「観は、日本の優れた芸術家たちの
行為のうちに貫通している」という記述にもあるが

詩的創造においては
「外部の世界のものの奥深い実相を見届けること、
そしてそれを透視した視線の喜びを書きとめることは、
詩が豊かになるための不可欠の要件」であり
白秋はその「極限近くまで登っていた詩人である」と
菅野昭正はその北原白秋論の最後に語っている

塚本昌則は『詩学創造』のなかでも
「伊東静雄論」に刺激を受けたというが

菅野昭正は
「ひとが詩人になるそのなりかたは」
「ひとそれぞれに違っている」としても
「ひとりだけの秘密の詩の場所を所有する
という点に関しては、詩人が誰しも
同じ過程を踏まなければならない」といい

「伊東静雄が詩人になりはじめたのは、
宇宙の強制の声を聞きとったときからである」

「宇宙の強制の声」は
「外なる宇宙のどこからかひびいてくる無言の声」であり
それを感じはじめたときから「詩人になる道が開かれ」たが
それは「存在の根源を見つめる嶮しい場所」への道であり
伊東静雄は「その極点に近いところまで登りつめた」と論じる

五人の詩人たちはそれぞれに
それぞれの方法で
「観」の眼によって
ある詩作の根源にあるものを「幻視」し
あるいは(宇宙の強制の)「声」を見出し
それを詩作するべく
困難な道を歩んだのだといえる

菅野昭正の論じた五人の詩人の模索した方法論は
現代における詩作のためのそれとしては
すでに効力をもたないだろうが
そうした詩的創造のための歴史から学ぶことは必須である

私見だが
それはおそらくノヴァーリスが
すべての学問(科学)は哲学になったあと
ポエジーにならなければらない
といったことと通底している

現在科学や哲学が陥っているかにみえる
袋小路からの出口を見出すためにも
ポエジーからそれらを逆照射することが
求められるのではないかと思われるからである

「詩学」はそのためにも
常に「創造」されていかなければならない

■菅野昭正『詩学創造』(集英社 1984/8)
■対談=中地義和×塚本昌則 
 <追悼=菅野昭正 認識と創造>
 (週刊読書人 2023年5月5日号・2023年4月28日合併)

(「対談=中地義和×塚本昌則 <追悼=菅野昭正 認識と創造>」より)

「塚本/私が最初に菅野先生の本で感銘を受けたのは、大学院に入った年に刊行された『詩学創造』(一九八四年、集英社)でした。萩原朔太郎、北原白秋、三好達治、伊東静雄、西脇順三郎が取り上げられています。中でも「伊東静雄論」に刺激を受けました。この論で展開されている、人は自分だけの「詩の場所」を見つけることで詩人になっていく、という洞察に目を開かれました。静雄の場合それは「強いられる」ことであったと先生は論じられています。自分の内に聞こえてくる、「外なる宇宙のどこからかひびいてくる無言の声」、その強制に従って、生活の仕方、存在のあり方を選ぶことが、伊東静雄にとっての「詩の場所」だった。この視点から読むと、伊東静雄の詩が身に染みるようにわかります。

 先生は五人の詩人について、それぞれ違う手触りで「詩の場所」を見つけていきます。三好達治であれば、「遠き」という一つの形容詞を通して、全作品に響く通路を見つけ出す。それぞれの詩人の中心で響き続ける、核心をなすものを摑み取る、そうした身振りを菅野先生の批評で知ったのです。

 そのように自分の詩の世界を構築していくのか、どんなふうに「詩の場所」を見出していったのか、先生は評論を通してその探求の道程を、示してくれました。」

「中地/塚本さんが挙げられた『詩学創造』の中で、私は「北原白秋論」も好きなんです。「内隠(こも)るふかき牡丹のありやうは花ちり方に観(み)きとつたへよ」という歌が冒頭に掲げられているのですが、牡丹の美とは、しおれてちるかけたところにこそ、その本質がある。それを「見る」のではなく「観る」のだと。この歌が北原白秋の作品の頂点に位置していると評価されます。菅野先生は、ここから白秋を掘り下げていかれるのですが、白秋の作品にもさまざまある中で、この歌が冒頭にくるというのはすごいと思いましたね。

塚本/「萩原朔太郎論」も印象的でした。「竹とその哀傷」について語られるのですが、見えざる竹の幻視は、そのまま詩が生成するときの意識の現象学だと言っています。つまり朔太郎は目に見える竹を描いているのではなく、自分のに芽生えて光る竹の姿を描いているのだと。」

(菅野昭正『詩学創造』〜「見つつ観ざりき————北原白秋論」より)

「   内隠(こも)るふかき牡丹のありやうは花ちり方に観(み)きとつたへよ
    (『牡丹の木』)

 この一首をはじめて知ったのはもう三十年以上も昔のことになるが、その初心の頃いらい、これは私の北原白秋にたいする関心の頂点に坐りつづけている歌である。」

「「内隠るふかき牡丹・・・・・・」の三十一文字のなかには、なによりもまず花の内側に隠れている見えない宇宙を探り、それを掘り起こそうとする眼の動きが感じられる。詩人の眼の前に置かれている牡丹の花は、ただ知覚できる表面のかたちで眼を楽しませてくれるから珍重されるのではなく、あでやかにかがようその外形の背後に、花の生命を圧縮したもうひとつの幻視のかたちを見通させてくれるからこそ、詩人の眼をひきつけるのだ。このとき、詩人を誘っているのは牡丹の本質である。その誘いにうながされて、本質を《観る視線》が動き出すときに詩が発生する。この白秋最後の絶唱においては、詩は《観る視線》から生成しはじめる。」

(菅野昭正『詩学創造』〜「帰れない帰郷者————伊東静雄論」より)

「ひとはひとそれぞれに詩人になる。
 ひとが詩人になるそのなりかたはさまざまであり、ひとそれぞれに違っているものであるとすれば、詩人が詩人になるために通っていく道は、詩人と同じだけの数が数えられる道理である。」

「詩人になるために通る道筋こそ違っていても、ひとりだけの秘密の詩の場所を所有するという点に関しては、詩人が誰しも同じ過程を踏まなければならないようである。」

「伊東静雄が詩人になりはじめたのは、宇宙の強制の声を聞きとったときからである。どこから聞こえてくるのか分からないが、外なる宇宙のどこからかひびいてくる無言の声。それが或る特別な姿勢で宇宙に対することを強いたり、或る独特な視線で宇宙を観ることを命じたりする。その無言の声を感じはじめた瞬間から、伊東静雄のなかでなにかが変わり、詩人になる道が開かれはじめる。」

「イデアとしての故郷、純粋な要素に還元された宇宙と私は書いてきたが、いいかえればそれは詩人の存在の根が見出されるはずの場所ことでもある。存在の根源、存在の根拠という言葉こそ伊東静雄は筆にしなかったが、『わがひとに与ふる哀歌』以降、この詩人がほとんどただひとつの主題として選んだのは、そう名づけられるのにふさわしい領域の問題である。ものを見つめる地点から出発したこの詩人は、存在の根源を見つめる嶮しい場所へたどりつき、その極点に近いところまで登りつめたのである。すくなくとも『わがひとに与ふる哀歌』から『夏花』の頃まで、彼はなによりもまず思考と認識の詩人であった。」

(菅野昭正『詩学創造』〜「あとがき」より)

「この五篇の詩人論(北原白秋論/萩原朔太郎論/三好達治論/伊東静雄論/西脇順三郎論)を構想した最初のときから、五人の詩人をそれぞれ異なる視覚から眺め、個別的な詩人論を並べるつもりは私にはなかった。あるひとつの問題系列を追いながら、この五人の詩人たちの作品をあらためて読みかえし、彼らの創造した詩の世界をあらためて考え直してみたいと思ったのである。

 明治以降、日本の詩人たちが出会わなければならなかった難しい条件については、多くのことが言われてきたが、しかしそれは難しいという以上に難しいものであったことを、もう一度ここで強調しておきたい。その困難さは、世界のどこの文学の歴史もおいそれと類例の見当たらないような、空前絶後のものであった。伝統的な短詩型文学を詩的表現の容器として活用できる可能性がしだいに乏しくなり、百花繚乱といえば百花繚乱、種々雑多といえば種々雑多に、西欧の詩が視野に入り込んでくる混乱した状況のなかで、詩人たちは新しい詩を創造するために、悪戦苦闘を強いられた。

 萩原朔太郎を中心として、北原白秋、三好達治、伊東静雄、西脇順三郎は、さまざまな悪戦苦闘の過程を経て、新しい詩を創造した代表的な詩人である。この五人の詩人たちがそれぞれどういう詩を創造したか、新しい詩を創造するためにどういう詩学を編みだしたか。私の関心は最初から最後までそこにあった。五篇の詩人篇は、したがって同じ主題を意識しながら書かれたものであり、その一点で緊密に結ばれていると、私としては思いたいところである。

 もうひとつ、近代詩の山脈を築きあげてきた詩人たちの仕事をふりかえりながら、私はいつも現在の詩のことを考えていたことを附けくわえておきたい。この詩人たちが創造した詩が、現在そのままのかたちで効力をもつなどと考えるひとは、もちろん誰ひとりいるはずもない。文語定型が、詩的言語として生命を失った事実ひとつ思い出すだけでも、そこにはもう宰相の疑いすらいれる余地はない。しかし、この五人の詩人たちが詩と詩学を創造しようと試みた態度を現在の詩の状況のなかによみがえらせ、それを鏡として現在の詩の状況を照らしだせば、なにか見えてくるものがあるはずだと私は考える。いいかえれば、この五人の詩人たちの詩は、詩の現在にとって大事な遺産である。遺産を贈与してくれたのは、もちろんこの詩人たちだけではないし、私としてもいずれ機会を得て他の贈与者のことも考えてみたいと思うが、いまはとりあえず、歴史を無視する者は歴史に復讐されるとだけ言い添えるにとどめておこう。」

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