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四方田犬彦『愚行の賦』/碧海寿広『考える親鸞 』/吉本隆明『フランシス子へ』/シュタイナー『黙示録的な現代』

☆mediopos3515  2024.7.2

四方田犬彦が後に単行本になる『愚行の賦』を
『群像』で連載を始めたのは二〇一九年の八月号

その最初の内容は
mediopos-1698(2019.7.10)でとりあげているが
まさに現代における世界的な愚行である
「コロナ禍」がもたらされはじめたのは
それから半年程経ってからのこと

『愚行の賦』は結果的に
現代を生きる私たちへの
予言的なメッセージともなっているようだ

わたしたちにもたらされてきているのは
「コロナ禍」の演出による「ワクチン禍」だけではない
二〇二二年にはロシアのウクライナ侵攻があり
二〇一四年にはイスラエルによるガザ侵攻がある

こうした事態は私たちに
何を教えようとしているのだろうかと問わざるをえない
そんな契機を与えているといえるだろうが

表にあらわれている情報を鵜呑みにしているかぎり
わたしたちにとって必要な問いは見つからない

そこでどんな「愚行」が演じられているのかが
見えなくさせられているからだ

「愚行」を語るにあたっては
ハンナ・アーレントが指摘したように
ナチスの絶命収容所の責任者・アイヒマンが
それを象徴しているといえるだろうか

アイヒマンは「粗野で愚かな人物」ではなく
「ただ凡庸な悪を体現している」
「無思想な人物の典型であっただけ」だと
アーレントは論じている

アイヒマンはエルサレムの法廷で
「それが規則でしたから従っただけですと、
みずからの行為を平然と語ってみせる」

アイヒマンが関わった大量虐殺は
「愚行の最たるもの」なのだが
その「愚行」は規則に従ったにすぎないというのだ

私たちがとくにここ数年直面している
「愚行の最たるもの」にあたっても
事態が収拾に向かった際には
アイヒマン同様の言葉が語られるのではないか

しかしわたしたちはこうした事態を前にして
現在進行形というかたちで
「愚行の最たるもの」を目の当たりにし
そこでさまざまな問いをもつことができる

四方田犬彦によれば
「愚かさが深く結託しているものがあるとすれば、
それは無知と虚栄心」であり
しかも愚行は「知性の仮面を被り、
知性の名のもとに平然とみずからを肯定」し
「もっとも狡猾な戦略」とすることさえあり
「愚かさと聡明さ」は
「往々にして仲の良い姉妹」になりもする

ホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』において
「愚行」から解放し
「希望を回復し、本来の理性に立ち戻る」ために
「啓蒙」が必要であると説くが
四方田氏は「愚行には愚行の内的構造があり、
人はときにその愚行に深く魅了され、
頑迷なる愚行を通して自由に到達することもできる」という

「啓蒙」が有効になることはきわめて疑わしく
「愚行」の深みにおいてなにがしかを見出す可能性こそ
重要になるのだといえそうだ

その際に見ておく必要があると思われるのは
「悪人正機」を説いたという親鸞について論じつづけた
吉本隆明の辿り着いた場所である

死去の三ヵ月程前に吉本隆明が語ったことが
『フランシス子へ』として死後に刊行されているが

吉本隆明は親鸞の「宗教への懐疑の根本には、
すべての観念や事実を「本当だろうか」と問い直す、
考える人としての親鸞の性分があったはずだ」という

碧海寿広『考える親鸞』によれば
吉本隆明は「いや、本当にそうか」————。
この問いを飽くことなく繰り返し、
最期まで「考えて考えて考え続け」たのだろうと示唆している

おそらく「愚かさと聡明さ」を越えるには
「いや、本当にそうか」と問い続ける以外にないのかもしれない

そのためにはやはり「悪人正機」のように
みずからの「利己心」への自覚をその契機とする必要がある

シュタイナーは「白魔術と黒魔術」と題された講義で
「無私の精神で世界で働きたい」
というような「美しい理想」には
その「没我的な動機の背後に、
しばしば信じられないような利己主義が見出され」るという

利己主義がいらないといっているのではなくその逆で
「人間が成熟して無私になるまでには、まだ長い道程があ」り
「世界に生じるものに対して、利己心は力強い守りになる」
というのである

それはみずからの「利己心」を問い直すということだろう
利己心があることで「みずからのことを心配」することができ
その「恐れ」から「悪」に近づかないでいることができる・・・

その「恐れ」とは
「いや、本当にそうか」と
みずからの「愚行」を問い続けることでもあるだろう

■四方田犬彦『愚行の賦』(講談社 2020/8)
■碧海寿広『考える親鸞 「私は間違っている」から始まる思想』(新潮社 2021/10)
■吉本隆明『フランシス子へ』(講談社文庫 2016/3)
■ルドルフ・シュタイナー『黙示録的な現代』(風濤社 2012/11)

**(四方田犬彦『愚行の賦』
   〜「第一回 わたしは憤慨し、そして魅惑される」より)
  *『群像 2019年8月号』所収

*「わたしはどのような愚行について語ればよいのか。」

「ただひとつ明確なのは、世界には愚行がいたるところに横たわっており、それは過去・現在・未来において、いっこうに変化する見込みが立たないという事実である。」

*「愚かしさは人を怒らせる、苛立たせる。こんな者たちが登場するに至ったとはひょっとして世界が終末を迎える、何か不吉な前兆なのではないかといった気持ちにさせたりもする。なるほど愚行がいかに残酷な結果を世界にもたらしたかを調べ上げ、それを非難することはできる。だがいかに非難を重ねたところで、愚行の犠牲者は戻ってこない。

 ハンナ・アーレントが指摘したように、ナチスの絶命収容所の責任者であったアイヒマンは、人間としてはけして粗野で愚かな人物ではなかった。彼はただ凡庸な悪を体現しているにすぎず、無思想な人物の典型であっただけなのだと彼女は論じている。だがエルサレムの法廷で、それが規則でしたから従っただけですと、みずからの行為を平然と語ってみせる元ナチス親衛隊の中佐を前に、人はどうすればよいのか。彼が深く関わった大量虐殺こそは、歴史上の愚行の最たるものだと非難の言葉を投げつけたところで、おそらくアイヒマンは顔にうすら笑いを浮かべるだけだろう。犠牲者たちが生き返ることもありえない。愚行はこうして凡庸さに裏打ちされ、みずからの業績を誇らしげに提示する。アイヒマンが絞首刑に処せられたとき、愚行は最終的な勝利を確認するのだ。

 そう、愚行はかならず勝ちを収める。理由は簡単で、愚行はいかなる場合にも懐疑に陥らないからだ。みずからを鏡に映し出して問い質すということがなく、つねに確信に満ちてみずからを実現していく愚行。それが恐ろしいのは、いつしか地下に根茎を張り廻らせ、われわれが気がついたときには、見わたすかぎり大地の涯までを支配下に置いて君臨してしまうことである。

 わたしは考える。世界の医学者がペストに、マラリアに、またエイズに対し撲滅を宣言したように、またアメリカ軍がISに対し徹底撲滅を宣言したように、人は愚行にむかって撲滅を宣言することなどできるのだろうか。人類の歴史を振り返ってみると、過去に愚行に対して果敢なる戦いを挑んだものがいなかったわけではないと、世界の文学は教えてくれる。ラ・マンチャの騎士ドン・キホーテから、トリノの街角で虐待された馬のために涙を流したニーチェまでの、長い長い勇者たちの系譜。だが彼らの一人として、その戦いに勝利したことがなかった。皮肉なことに彼らの多くはその確信を狂気だと見なされ、改めて愚行をなす者として、社会から排除されることになった。地上から愚行を一掃することが可能だと認識した瞬間に、彼らは絶望的なまでに愚行に陥ってしまった。なぜなら愚行に戦いを挑むことが、すでにして愚行の典型であるからだ。

 こうした事情を知る者たちは、だから用心深く振る舞い、愚行について語ろうとしない。哲学は賢明さと叡智について語ることはあっても、愚行という現象の前では例外なく口籠もってしまう。愚行についてはつとめて言及をしないことが愚行に陥らずにすむ唯一の方法であると信じていて、ただ聡明であることだけを求めようとする。誰もが恐れているのは、自分が認識において、また行動において、他者から愚かであると見なされることだ。愚行に陥ることを恐れているかぎり、人はまだ自分が愚行に陥っていないと信じることができる。賢明さを基礎づけているのは、ひとえに愚行への恐怖であるというわけだ。

 とはいうものの、誰も自分がはたして愚かであるのか、それともそうでないのかを、自分で確かめる術をもちあわせていない。認識できるのはただ他者の愚行だけだ。およそ自分の愚かさに関するかぎり、人はただ他者の眼差しを媒介として、それを知る可能性を与えられているにすぎない。とはいえ自分が愚かではないと保証してくれる、慈悲に満ちた他者など、実のところ、どこにも存在していない。ただ恐怖だけが現前している。ひょっとして自分が際限のない愚行の歯車の運動に組み込まれ、そこから脱出できる手立てを見失っているのではないかという恐怖が、われわれを捉えて離さない。」

*「愚かさが深く結託しているものがあるとすれば、それは無知と虚栄心である。ひとたび民族の、国家の、宗教の共同体意識に囚われ、その威信と伝統を狂信するに到ったとき、人はたやすく愚行の支配下に置かれてしまう。」

*「知識と知性は人間を自由にする。旧来の迷妄から解き放ち、より広大な、光に満ちた場所へと人を導いてゆく。だが、はたしてその通りだったろうか。人間の本性に宿っているはずの知性は、これまで人間に対し、いかなる場合にも愚行を回避する道筋を差し出してきただろうか。

 この問いに正面切って、簡単な言葉で回答をすることは難しい。なぜならば、愚行はたやすく知性を誘惑し、知性を味方につけて、より堅固にして頑強なる論理を手に入れることがあるからだ。知性の仮面を被り、知性の名のもとに平然とみずからを肯定すること。それこそが愚行のもっとも狡猾な戦略に他ならない。愚かさと聡明さとは、多くの者が漠然と信じているように純粋な対立の構図を形成しているわけではない。彼らは往々にして仲の良い姉妹であるのだ。」

********

*「愚かさと賢さは実のところ相互依存的であって、聡明さがそれ自体として自立して存在することはできない。賢さは愚かさを絶望的なまでに必要としており、両者は地下の見えないところで密接に絡み合っている。それを厳密に弁別し、愚かさの排除をもって知性の勝利だと信じ込むこと自体が愚かさへの敗北宣言であることを、われわれはまず心しておかなければならない。誰もが賢明に振舞うことができず、それを十分に認識していながらも、愚かに振舞うことしかできない状況。そういったものが確実に存在している。誰もが等しく愚かであり、愚行に身を委ねることが可能にして不可避であるという事態を想像するためには、恋愛と賭博を心に思い描くだけで充分ではないだろうか。」

*「それでは愚行は人を束縛し、彼をしてただちに不幸な方向へと導いていくだけのものだろうか。愚行の属性である頑迷さは、人を狭い認識の内側に閉じ込め、ひたすら彼を破滅へと向かわせるにすぎないのだろうか。愚かさと賢明さの間に厳密な境界線を引くことが困難であり、その境界線が虚構のものにすぎないことが露呈する瞬間が存在するように、愚行と解放、愚行と救済の間に横たわっている問題も、実のところそれほど単純ではない。というのも人はしばしば愚かであることを演じることで、過酷な環境のなかで生き延びる道を見出すものである。」

*****

*「そもそも哲学は何をしてきたというのか。多くの哲学者は、愚行とは誤謬から派生する認識であるという思い込みから自由になることができなかった。それは純粋な思考の内側からは排除され、さまざまな誤謬の形に還元されてきた。」

*「愚行を論じるためには、愚行を思考の内側にある本質的な問題であると覚悟し、本気になって係らないかぎり、かならず挫折してしまうのだ。(・・・)もっとも重要なことは、思考の根底にあった根の底が抜けてしまうという事態であり、その場合、人間は「もう考えることができない」という状況に陥ってしまう。人間にできることは、いまだ考えられていないものを考えることであり、われわれがまだ考え始めてもいないという事実を謙虚に受け入れることなのだ。」

*****

*「「愚鈍さとDummheitはある傷痕なんだ。」ホルクハイマーとアドルノは『啓蒙の弁証法』のもっとも最後の部分に書きつけている。」

「故国ドイツで現下になされている蛮行に身の危険を感じ、いち早く新大陸に亡命した二人のユダヤ系知識人にとって、ナチズムの蛮行とそれを熱烈に支持してやまないドイツ人の愚鈍さがまさに絶え難いものであったことは、容易に想像がつく。彼らはそれを先天的なものではなく、どこまでも幼少時よりこの方、皮膚や筋肉に加えられてきた傷、圧迫から生じる歪形という隠喩を用いて理解しようとした。(・・・)だからこそ人類の歴史のなかで啓蒙という行為がこれまでなしてきたことを検討する作業が必要なのだ。傷痕をもってしまった子供がひとたび陥ってしまった野蛮状態から立ち上がり、もう一度、生に対して希望を回復できるように、かつての文明が野蛮に低落していった過程をキチンと見定めなければならないのだとと、ホルクハイマーとアドルノは説く。

 わたしは現下の愚行に際し、それを単に同朋の厄難と見なすのではなく、人類史の再検討へと向かったこの二人の知的作業に敬意を抱くことに吝かではない。だが人間の愚かしさを後天的に与えられた傷と歪形という隠喩のもとに了解しようとする姿勢には、どうしても違和感を覚えないわけにはいかない。人間における愚かしさがもし外部から到来する抑圧的な歪みによって生じるのであれば、それは何らかの手段によって矯正が可能であることになる。外科手術に類する処置によって人は愚行から解放され、ひとたびは見失った希望を回復し、本来の理性に立ち戻ることができるだろう。だがもし愚かしさが人間の内面深くに自生するものであり、人間が人間である根拠に根差している何物かであるならば、それを皮膚に刻まれた瘢痕、筋肉と骨に加えられた歪みとして論じること自体が無意味なこととなってしまうのではないだろうか。愚行には愚行の内的構造があり、人はときにその愚行に深く魅了され、頑迷なる愚行を通して自由に到達することもできるのだ。」

**********

**(碧海寿広『考える親鸞』〜「第六章 宗教の終焉 2 終わりなき思想」より)

*「吉本は死ぬ三ヵ月ほど前、先に逝った愛猫について、ゆっくりと話をした。その話の内容をまとめた本が、彼の死後に出版されている(『フランシス子へ』)。老齢による惚けが進行し、彼の長女によれば「頭の中で自分だけの記憶が再構成されている」状態にあったというが、同書は、吉本隆明という思想家がどういう人間であったのかを簡素に示唆しれくれる、良書であると思う。
 
 前半はむろん猫の話だが、後半では親鸞についても淡々と語られる。たとえば次のように・

  親鸞の考えかた自体がもう、最初っから異端で、普通のお坊さんだったら疑いもしないこよを、最初から疑っています。/修行なんて意味がないし、お経も、仏像もどうだっていい。/普通のお坊さんが信仰で持っているような考えかたは、はじめから無視して、それじゃあ、実証的にわかるところを信じたかっていうと、それも信じることができない。/それで親鸞はそれまで誰も行ったことがない道を行くほかなかった。(中略)みんなが当たり前に信じていることを「それは本当だろうか」って疑って、最後までそれを追求し続けた。

 まわりの人々が素直に信じていることを、ひたすら疑い、考える人。これが吉本隆明という思想家のなかに組み込まれた、親鸞の原像である。中世の僧侶である親鸞にとって、その疑いの対象は、まずもって仏教にかかわる事物であった。だが、そうした宗教への懐疑の根本には、すべての観念や事実を「本当だろうか」と問い直す、考える人としての親鸞の性分があったはずだ。

 この親鸞に見える「本当だろうか」の思想は、吉本が生きる上でよって立つ原理でもあった。同じ本のなかで、吉本は自分の性分についても語っている。

  「いや、本当にそうか」ってことを追求していったら、なかなか断定なんてできるもんじゃない。もっと言うなら、生きるっていうのは、どっちとも言えない中間を断定できないまんま、ずっと抱えていくことじゃないか。/僕は確かにそういうものをいくつも、いくつも飽きもせずに抱えながら歩いてきた。/これはたいへんな荷物持ちだねって言われたら、本当にそうだと思います。/考えて考えて考え続けてはいるんだけど、断定できないんだからそうするよりしょうがないんですね。

 「いや、本当にそうか」————。この問いを飽くことなく繰り返し、最期まで「考えて考えて考え続け」たのが、吉本の思想家としての生涯であったと言える。その人生の過程で、彼は親鸞に出会い、親鸞について考え続けた。親鸞を考える人の一つの模範としながら、ありとあらゆる対象について、考え続けた。

 その疑い、問い、考える人の心は、人間がやがて終わりを迎えるその日まで、終わることはないだろう。」

**********

**(シュタイナー『黙示録的な現代』
   〜「白魔術と黒魔術」(一九〇七年一〇月二一日、ベルリン)より)

・利己主義

*「「私は完全に無私の精神で、世界のなかで働きたい」と言う人もいるでしょう。そのような人々は、自分の力のなかに、深秘な力がたくさんあることを知りません。だれからも深秘な力が発しています。「無私の精神で世界で働きたい」というのは、とても美しい理想です。しかし、「なぜ、無私でありたいのか。なぜ、無私であろうという掟を自分に課すのか」と問うと、「無私であることをとおして、私は次第に高次段階の完成にいたる。私は無価値な人間であることに耐えられない。私は価値ある人間でありたい」という、おかしな答えが返ってきます。

 このような感情を分析すると、没我的な動機の背後に、しばしば信じられないような利己主義が見出されます。それはときに、無私であろうとせずに利己的な本能に没頭している人々よりも、むしろずっと大きな利己主義です。このように考えると、無私への衝動のなかにいかに多くの利己心があるかがわかります。

 神々が人間の性質のなかに利己心を植え付けたのは、簡単に利己心を退けたり消し去ったりするためではありません。人間は本質的に利己心をとおして活動するのである。利己心の根拠を調べ、「なぜ善良な神々が人間に利己心を植え付けたのか。多くの人が利己心を厭わしいものと考えている」と問うなら、真正の神秘学は「世界に生じるものに対して。利己心は力強い守りになる」と答えます。

 何が人間を邪悪な力から守るか、みなさんはご存じですか。今日では、黒魔術師がだれかを弟子にして、その弟子に黒魔術を教えるのは容易でしょう。彼は恐ろしい方法で活動できるでしょう。

 しかし、ほとんどの人はそう易々と行なうことはできません。なぜできないのか。みなさんはご存じですか。人々は、恐れという単純な理由から、そうできないのです。人々はみずからのことを心配するあまり、そうできないのです。人々は黒魔術の結果を予感し、それを利己的に恐れるのです。こうして、人々が恐れて手を出さないのは、とてもよいことでしょう。

 人間が地球進化の始まりに、アストラル体・エーテル体・物質的身体に働きかける力すべてをただちに得ていたら、人間は世の中で邪悪なことを行なっていたことでしょう。しかし、人間には利己主義が与えられ、その結果、人間はまず自分のことを気遣い、そのことで手一杯でした。神々は人間に、安全ベルトのように利己主義を持たせたのです。利己主義によって、人間が現象界の背後にある事物を洞察しなくなりました。

 これらのことは非常に重要です。神々が備えつけたのは賢明な制御装置であり、そのために人間はあまりにも早く霊的領域に侵入できないようになっています。利己主義はよい防御手段なのです。

 ですから、黒魔術という言葉を投げ散らかすべきではありません。人間が成熟して無私になるまでには、まだ長い道程があるからです。利己主義が最高度に増大した現在、無私について説教するのは滑稽です。」

・秘教学院の原則

*「「自分を人類の一部のみに結び付けるものを乗り越えよ」というのが第一に必要なことです。今日の白魔術にとっては、これが第一の原則です。人間は無私になろうと努めることはできませんが、全人類への愛に向けて努めることはできます。自分の愛の領域を拡張できるのです。これは大事なことです。」

・黒魔術の訓練

*「恐ろしく小心者で、自分に起こりうることすべてに身の毛がよだつような恐れを抱いている者は、黒魔術師になって黒魔術を実行する素質を持っていることになります。人間の内面にあるそのような恐れが、黒魔術の出発点です。その恐れは複雑な利己主義にすぎないからです。

 だれかが黒魔術を行なうことを目論んでいるとしましょう。その人はまず、可能なかぎり小心者を探すでしょう。恐怖という素質を改造・変形すると、小心者が知識・洞察なしに、人並み以上の力を得るようになります。

(・・・)

 これを行なうと、以前は内面の恐怖であったものが、自分の周囲に影響を及ぼす力に変化していきます。そのような手段を用いる者は、信じられないような醜いことを世界で実行できます。」

・真理の伝達

*「知識の道をとおって精神力の支配にいたるか、べつの道をとおっていたるかが問題なのです。霊力の最高段階にいたるのは簡単ではありません。私たちは一方では人類進化、他方では魔術の微妙な領域にいたります。魔術的発展の道をさらに進むまえに洞察しなければならないものを、すべての人間が洞察できるまで待つのは容易なことでしょう。そうするのは、場合によっては、まったく容易です。しかし、そうすると、人類進化の歩みを遅らせることになります。

 なんらかの方法で、深秘の真理を人々に広め、その真理が正しく世界で作用するようにしなくてはなりません。それは、ある意味で、深秘な力を広めることでもあります。」

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