皆川博子「辺境図書館30 『無垢なる花たちのためのユートピア/川野芽生』/川野芽生『Lilith』・川野芽生『無垢なる花たちのためのユートピア』
☆mediopos2836 2022.8.23
短歌から影響を受けることが多くなっている
しかも多くは昨今の口語短歌ではなく
文語短歌定型という古典的なものからだ
あらためてそれがなぜなのか考えてみると
「概念」の奴隷になったかのような
言葉から離れようとしているからではないかと思い到る
言葉を概念の箱に入れて
積み重ねていくように思考する
いわば男性的な軛の外にあって
そこでは言葉が水のように流動し
火のように熱をもっているからだ
ほんらい言葉は
概念の奴隷ではないはずなのに
概念の檻のなかで
ブロックを積み重ねるように
言葉を使役することが
知的だと勘違いされている向きがある
「知的」とされていることの多くは
死んだ概念を賢しらに
ただ組みあわせているだけであることに気づくと
そうしたありようから
どうにか自由になれないものかと模索するようになる
その模索のひとつが
文語短歌定型的な表現を求めさせるのかもしれない
一昨日山中智恵子という歌人をとりあげたが
最近になって知った若き歌人のなかでは
この川野芽生の存在を抜きにすることはできない
しかもこの川野芽生は山尾悠子と近しい
山尾悠子は川野芽生『Lilith』についてこう記している
「叙情の品格、少女神の孤独。
端正な古語をもって紡ぎ出される清新の青。
川野芽生の若さは不思議だ、
何度も転生した記憶があるのに違いない。」
山尾悠子は短歌ムック「ねむらない樹」で
川野芽生と往復書簡を交わしているが
(以前このmedioposでとりあげたことがある)
山尾悠子の後継者的な存在がその後も
まったくみられなくなっていたのが
川野芽生という若き存在に
みずからの系譜を見出しているのかもしれない
川野芽生にとって
「言葉」は特別な存在である
「世界は言葉でできている」といい
「言葉が、人間とその文明が滅びたずっと後も
独自の生命を持って生き延びてくれることを
ずっと夢みています」と記している
言葉があまりに人間に似すぎて
「あまりに卑俗で、醜悪で、愚か」なので
「人間という軛」から解き放たれればと
言葉の飛翔することを願ってさえいる
そんな川野芽生は
先の往復書簡のなかで
〈私は性別のない存在でいたいのですが、
性別を感じさせない文体で書こうとすると
この世界ではそれは
無徴な「男」の文体になってしまうのかな、
と思うと難しいですね。〉
と語っているが
たしかに「文体」には性があり
性別をなくそうとすると「男」の文体となる
あらためてそのことに気づくと
こうしてじぶんが浸かっている「文体」から
性別をなくすということの困難さに戸惑ってしまう
とくに性別を意識して書くことはないのだが
その意識しないことそのものが
どこか言葉から自由を奪っているのかもしれない
概念の奴隷のように言葉を使ってしまいがちだ
というのもその悪癖のひとつだろう
少なくとも日常の言語から離れて
ポエジーを求めるならば
言葉に生きた自由をとりもどす必要がある
■皆川博子「辺境図書館30 『無垢なる花たちのためのユートピア/川野芽生』
(『群像 2022年 09 月号』所収)
■川野芽生『垢なる花たちのためのユートピア』
(東京創元社 2022/6)
■川野芽生『Lilith』
(書肆侃侃房 2020/9)
(皆川博子「辺境図書館30 『無垢なる花たちのためのユートピア/川野芽生』より)
「書店の詩歌の棚で、何気なく一冊の歌集を手にとりました。帯に記された二首の短歌
harassとは猟犬をけしかける声
その鹿がつかれはてて死ぬまで
詩はあなたを花にたぐへて摘みにくる
野を這ふはくらき洛陽の指
にたいそう惹かれ、入手しました。
短歌に疎い私は、この歌集『Lilith』で初めて歌人川野芽生を知ったのでした。第一歌集であるこの書によって現代歌人協会賞を受賞されたことは後に得た知識です。
現代の口語で日常を歌う作が多いなかで、雅語を駆使し、和洋を問わぬ学識に立脚して、内面に迫る川野芽生さんの短歌は新鮮な魅力、迫力があり愛蔵する一書となりました。
〈私が失語にも似た状況に陥ったのは、大学という学問の場に足を踏み入れたときで、そのときはじめてわたしは、自分が特定の性に、言葉や真実や知といったものを扱い得ないとされる性に、分類されることを知ったのでした。〉
『Lilith』のあとがきでこの一節を読み、驚きました。学問の場で、いまだに、女性は低い立場におかれるのか。略歴によれば、川野芽生さんは東京大学大学院に在学中とあります。」
「歌人川野芽生さんの小説家としては初の上梓である『無垢なる花たちのためのユートピア』は六篇の短 からなります。
(・・・)
本書には石井千湖さんの実に適切な解説が付されています。(・・・)
その解説に、短歌ムック「ねむらない樹」誌上に掲載された山尾悠子さんとの往復書簡の一節が引かれています。女性同士の手紙のやりとりからなる短編「白昼夢通信」(本書所載)についてです。孫引きします。
〈私は性別のない存在でいたいのですが、性別を感じさせない文体で書こうとするとこの世界ではそれは無徴な「男」の文体になってしまうのかな、と思うと難しいですね。〉
石井さんはこの〈指摘に目を瞠った。〉と記しておられます。私もはっとしました。
強いられた〈女性〉性から女性が脱しようとするとき、しばしば〈男性〉性に近づかざるを得なくなる。男性的な振る舞い。男装。
(・・・)
女性同士の手紙を〈「女性らしい」と言われるであろうような文体であえて書きました。〉と作者は記し、解説者は、その文体で作者が〈物理的な肉体に縛られない世界を創造している。〉と続けます。」
(川野芽生『Lilith』〜収録歌より)
アヴァロンへアーサー王をいくたびも送る風あり千の叙事詩に
天上に竜ゆるりると老ゆる冬われらに白き鱗(いろくづ)は降る
harassとは猟犬をけしかける声 その鹿がつかれはてて死ぬまで
ほんたうはひとりでたべて内庭をひとりで去つていつた エヴァは
詩はあなたを花にたぐへて摘みにくる 野を這ふはくらき落陽の指
(川野芽生『Lilith』〜「あとがき」より)
「世界は言葉でできていると、私は思っています。言葉は世界であると。
人は嘘を吐くことがある、とはじめて気付いたとき、深い衝撃を受けたのを覚えています。人間がつねに真実を語ると思っていたわけではなく、むしろその反対で、ただ言葉の臣たる人間がみずからの思惑に沿って言葉を捻じ曲げうるなどとは、思ってもみなかったのです。
人間は言葉に使える司祭としてのみ存在意義を持つと思っていて、それでも、言葉が人間なしで成り立たないことがときにたまらなく口惜しく、悲しくなります。ダンセイニの掌編に、工事の足場から墜ちていきながら、手にした木材に空しくおのが名を刻む大工の話があり、数秒後には死ぬ人間が、自分よりほんの数週間長く生き延びるだけの木切れに名を刻んでどうするのか————自分よりほんの数世紀長生きするだけの〈文明〉に名を刻もうとする詩人の〈わたし〉もまたしかり、と続くのですが、わたしは言葉が、人間とその文明が滅びたずっと後も独自の生命を持って生き延びてくれることをずっと夢みています。
私が失語にも似た状況に陥ったのは、大学という学問の場に足を踏み入れたときで、そのときはじめてわたしは、自分が特定の性に、言葉や真実や知といったものを扱い得ないとされる性に、分類されることを知ったのでした。しかしわたしが愛した神聖な言葉の世界に逃げ帰ろうとしてみると、そこには空虚で、美しくて、誘惑のための言葉しか発しない〈女性〉たちが詰め込まれていて、わたしは一体いままで、何を読んでいたのでそう。何を読まされていたのでしょう。
言葉はその臣たる人間に似すぎていて、あまりに卑俗で、醜悪で、愚かです。人間という軛を取り去ったとき、言葉が軽やかに高々と飛翔するのであればいいのに。
文学は権力そのものになって人間を追いつめることが容易にできます。しかし私は、言葉の内包する構造にそのまま操られることなく、言葉と差し違える覚悟を持つこと、それこそが文学の役割であると信じています。」
(川野芽生『Lilith』〜栞 水原紫苑「制度を以て制度に抗う究極の孤絶」より)
「川野芽生の短歌は、男性社会のみならず、大きくこの世界という制度そのものを告発する。しかも、古典的な文語短歌定型という究極の制度を以てそれを行うのだ。文語定型は一首ごとに孤絶した詩精神の中で相対化されなければならない。
この途方もない力業を可能にしているのは作家の比較文学研究者としての資質であろう。詩歌は口語であれ文語であれ、如何なる意味でも日常の言語によって書かれることはできない。すべての詩歌は常に翻訳なのである。作家はその秘密を知悉している。」
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