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松浦寿輝「遊歩有心 連載第四十七回「滅亡について」」/片山杜秀「福田恆存・この黙示録的なるもの」

☆mediopos3215  2023.9.6

福田恆存は戦時中の一九四一年
D・H・ロレンスの『黙示録論』を翻訳している
(出版は戦後/現在はちくま学芸文庫に収められている)

福田氏はその『黙示録論』のように
人類がすべて自殺してしまうような
そんな未来を幻視していたのかもしれない

ある種の狂気でもあるが
ハムレットのような佯狂ではなく
正気を装った狂気である

狂気を内奥に秘めながらも
みずからがそして人類が「延命」し得るように
「狂気の真理を生活の欺瞞で抑制した」

福田氏と同じ一九一二年生まれの
武田泰淳に「滅亡について」という評論があるが
戦争体験は人類の完全な滅亡ではないとしても
ある種の「滅亡」をどこかでヴィジョン化し
しかもそのヴィジョンに抵抗し得る何かを
示唆しようとしていたところもあるのかもしれない

そんな「滅亡」のヴィジョンが
現代では戦争体験としてではなく
まさにリアルなまでに「黙示録」的なこととして
特別なことではなくなろうとしている

第三次世界大戦の様相もそうだろうし
管理社会によってもたらされるだろう
ディストピアによる人間性の破壊された状況もそうだろう
またAI的なものが人間にとってかわる
そんな悪夢でもあるだろう

多くの人たちが
みずからが競うようにして
学校や政府やメディアからの指示に従う
洗脳状態にあるように見えるのは
「正気」でいたならば
まともには生きられない時代だからかもしれない

私たちはなにがしかの「狂気」を必要としている
しかしその「狂気」は
自覚的な意味で「正気」を装うことのできる
そんな「狂気」でなければならないのではないか

さて松浦寿輝が片山杜秀の評論
「福田恆存・この黙示録的なるもの」について
書かれたエッセイの最後には
太宰治の長編小説『右大臣実朝』にある
源実朝の台詞が引用されている

「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。
 人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」

自死を選んだ太宰治は
福田氏・武田氏より三歳ほど年長の
一九〇九年生まれだという

源実朝は建久七年(一二一九年)
二十八歳で公暁に殺害されるが
実朝の辞世の歌(偽作の疑いも)とされる歌がある

 出でて去なば主(ぬし)なき宿となりぬとも
         軒端の梅よ春を忘るな

実朝は狂気の人ではなかっただろうが
常に死を意識して生きてこざるを得なかった
将軍であり歌人であっただろう

現代を生きる私たちもまた
つねに「滅び」や「死」を幻視しながら
それでもやはり「正気」を装いながら
乱心もせず歌でも詠みながら生きていかねばならない

■松浦寿輝「遊歩有心 連載第四十七回「滅亡について」」
 (『文學界』2023年8月号)
■片山杜秀「福田恆存・この黙示録的なるもの」
 (『文學界』2023年7月号(特集 甦る福田恆存))
■D・H ロレンス(福田恆存訳)『黙示録論』(ちくま学芸文庫 2004/12)
■武田泰淳『評論集 滅亡について 他三十篇』 (岩波文庫 1992/6)
■太宰治『右大臣実朝 他一篇』 (岩波文庫 2022/8)

(松浦寿輝「遊歩有心 連載第四十七回「滅亡について」」より)

「片山杜秀「福田恆存・この黙示録的なるもの」(本誌七月号)には驚かされた。福田恆存と言えばおおよそ決まりきった言葉が出てくるものだ。いわく「自由よりは宿命、個人よりは全体」、いわく「過去と習慣の尊重」、いわく「超越と絶対が失われた時代を演劇的精神によって生きる」等々。しかし片山氏は、福田の「深奥」には狂気にまで至り着く幻視的ヴィジョンが蠢動していたと言う。

 実際、若き福田を震撼させたD・H・ロレンス『黙示録論』は、「保守主義」などとは無縁の、超高速で回転する何か激甚な、猛烈な、デスペレートな思考の記録である。それと親密に共振した福田の眼には、文化も文明もひっくるめて人間そのものが無機物に還元されてしまう終末論的光景が映っていた。ただ、そうした破滅的ヴィジョンに深入りすれば生活者としての自己が解体してしまうことを知悉していた福田は、「演戯」によって「世界のかりそめの平和の持続、延命治療に手を尽くす」。つまり彼は「狂気の真理を生活の欺瞞で抑制した」。常識と伝統の叡智を言祝ぐ「紳士然とした」保守主義者・福田といった紋切り型を磨き上げて来た連中は、佯狂とは反対に正気を装う逆ハムレットの「演戯」に誑かされてきただけではないのか。片山氏はどこまで言っていないが、わたしはこの文章の「深奥」をそう読んだ。

 しかもそれだけではない。片山氏は、いかなる延命治療も自己劇化も空しく、福田が予言したアポカリプスが、ただし彼を含めてかつて誰も想像できなかったようなかたちで、現実に到来しようとしているのがわれわれの生きる今この時代ではないかと問う地点まで論を進める。「時代はついに黙示録の向こうへと行こうとしている」。パトスとロゴスが拮抗する疾走感溢れる文体で書かれ、予見的な明察に満ちた文芸批評の一傑作と思う。
 そこでわたしが想起するのは、武田泰淳「滅亡について」である。敗戦の余塵が収まらない一千九百四十八年四月に発表されたこの小文で武田は、滅亡とは「生存するすべてのもの」に遍く起こる出来事だと言い、滅亡の真の意味は「それが全的滅亡であることに在る」と言い、「アトム弾がただ二発しだけしか落とされなかった」日本は、「ごく部分的な滅亡」を体験しただけだと言い。滅亡に対して「処女」であった日本に引き比べ中国は「数回の離縁、数回の奸淫によって、複雑な成熟した情欲を育まれた女体のように見える」などと怪しいことも言っている。」

「福田と武田は同年(一九一二年)生まれである。武田は応召して華中戦線で二年間過ごし、終戦時には上海にいて中国人の日本人に対する態度が一変するのを目撃した。他方、丙種合格で兵役免除となった福田は、四一年、太平洋戦争勃発の直前あたりの時期に『黙示録論』を翻訳していた(出版は戦後)。

 なお「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ」と源実朝に言わせている太宰治の長編小説『右大臣実朝』が出たのは四三年、太宰は二人より三歳ほど年長の一九〇九年生まれである。」

(片山杜秀「福田恆存・この黙示録的なるもの」より)

「福田恆存はその深奥に於いて極めて未来的な思想家であった。彼の奥底でマグマのように揺動し、彼を魅了するヴィジョンは、やや大げさな言い方をすれば人類滅亡後に開けるかもしれない世界とつながっていた。その意味で福田は幻視者の系譜で語られるべき人であろう。ある種の狂気があるのである。だが、福田本人は内奥を無防備に剥き出しにするほど素朴でもやわでもなかった。そんなことをすれば異端者のレッテルでも貼られて生活に差し障るとよく知っていたからであろう。福田は生活者たることを人生の第一義とし、生活から暴走してその向こう側に乗り越えてしまわぬために、たくさんの重しを必要とした。それはたとえば劇団であり、劇場であり、養うべき家族や俳優であり、次の芝居の日程であろう。それから、自由な演劇活動が社会に許容され続けるためのかりそめの平和が何よりも肝要であり、その平和を維持するために日々に権謀術数を尽くそうとした。そこで追求される、かりそめの平和のためのリアリズムが福田の狂気をまた一段と抑え込んだであろう。そもそも、甚だしく単純化して言えば、東京の千石の三百人劇場を自らの率いる劇団の常打ち小屋とし、一晩に最大三百人の観客しか得られない芝居をやり続けるために、戦争や革命を抑止しようとし、世界のかりそめの平和の持続、延命治療に手を尽くすという、非対称ぶりもここに極まれりといった発想法によりかかって、人生の時間を費やせるところが、充分に常軌を逸しているのではあるまいか。しかも福田はその魔的な企図を、乱心者の素振りを少しも見せず、あくまで紳士然として遂行した。福田の愛したハムレットは佯狂であるが、福田は逆に正気を装うことを得意としていたのかもしれない。

 でも、どんなにおのれを佯っても、福田の狂気じみた幻視の向かうところは、ときおりは露出する。福田の示したい窮極の、善ではないが恐らく真であり美であるヴィジョンなのだろうから当たり前だ、それはやはりD・H・ロレンスに涵養された黙示録的な世界とでも呼ぶべきものであろうし、黙示録的というからには破滅的光景を内に含む。」

「ロレンスの予言通りに現代人みんなが自殺してしまわないように、また人類総自殺の代行請負人である大国の指導者たちが最終戦争を始めないように、自由という後戻りがきかない道に足を踏み入れた人類が孤独に耐えられなくない日を少しでも遅らせられるように、福田は新劇によって、日本人のごく限られた人数にしか結局ならずとも、絶望や空虚や空疎や無意味さをやり過ごし迂回し延命してゆく教養を付けさせようとしたし、その一方で革命や擾乱や小中戦争や大戦争を起こさせぬための政治活動にも腐心した。戦後日本の場合、「國語」の安定した表記法や「親米」という政治的態度が、生活者に確固たる規範を与え、また現実的にいちばん長生きさせられるのだとも信じつつ。

 だが、その果てのどこかで、福田の本質の部分が予言した世界がついにやってきてしまうに違いない。(・・・)「愛も憎しみも、悔いも妬みも、あらゆる情念を完全に拒絶してしまった物体のメカニズム」がこの世を支配する時期はいよいよ迫ってきただろう。かつて予測されたような人類滅亡戦争の後の廃墟の中に、といってヴィジョンとはずいぶん違ったかたちで。たとえば、人工知能がシェイクスピアやチェーホフやその他無数の応用に富んだ台詞をTPOに応じて力強く明瞭な人工音声で際限なく語り、人間個々の話すべきことを完璧に代替して、偶然暦情念の介在する余地がなく、ドラマも完璧に予測可能な予定調和でしか生起しなくなるような世の中は、大いにありうるのではないだろうか。そのとき世界は喜劇となるであろう。全部が茶番になるのだから。福田であればそれをやはりディストピアと呼ぶと思うが、でもその世界は福田の本質の部分に来るべき未来として内包され埋め込まれていたものであった。幾ら芝居で対抗しようとしても、「國語」や「親米」に幾ら依拠しても、ついにもう遅延は無理という段階に立ち至ったのが今日なのではあるまいか。ポスト・ロレンス主義者の福田には滅亡の遅延以外の戦略がもともとなかった。遅らせられなくなっては、生活者の福田は終わる。そのあとに福田が隠しておきたかった本質が浮上し、開花する。時代はついに黙示録の向こうへと行こうとしている。その新しい世とはつまり「解ってたまるか!」がついに解ってしまう無機的な世であろう。有機的に生きることが終わるのである。」

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