見出し画像

ジョーゼフ・キャンベル『時を超える神話』/『生きるよすがとしての神話』/月報1・2[対談]河合隼雄・中沢新一

☆mediopos2974  2023.1.8.

ジョーゼフ・キャンベルをめぐる
すでに二十五年以上前の懐かしい
河合隼雄と中沢新一の対談を読み返し

現代人が新たに作っていく必要があるだろう神話と
その際に欠かすことができないであろう
日本人ならではあるいは
いま日本人が失おうとしているものについて
メモしておくことにする

それはおそらく中沢新一の『レンマ学』(2019)や
二十年ほど前の河合隼雄との共著
『「あいまい」の知』(2003)とも
通底している視点だと思われる

ジョーゼフ・キャンベルは
キリスト教がスポイルしてしまった
地母神的なものを復活させるための
神話を新たに作り出そうとしているところがあるのだが
その神話は「科学技術と完全にセットになっている」
「今の科学と合う神話を語ってないと駄目だ」というものだ
と中沢新一は示唆している

つまりキャンベルの視点は
一神教的な論理と倫理をもって
それみずからにアンチテーゼを提出する
ということを行っているということにもなる

現代の科学技術というのは
プロテスタント的な論理と倫理によって
はじめて生まれてきたところがあるのだが
それゆえにその根底にはおそらく
「普遍的なものがあると前提する」
というところがある

河合隼雄は「人類の心というのは何国人であろうが
普遍的なある心の層を抱えている」といいつつも
「背後にいる神が異なる人間はいかにして共存が可能か」
ということを課題としているという
つまり「多神教の倫理」である

おそらくずっとはるか彼方には
「普遍的なもの」があるのだとしても
そこに行き着くはるか遠い彼方までには
「異なる神」たちの世界のプロセスがあるのではないか

それをグローバリズム的な一神教の視点で
「神さん」たちをスポイルしてしまうことは
たとえば日本語が「英語とコンパティブルがきく部分
だけが通用する言語になりつつある」ように
単純に表現・翻訳可能なもの以外のものは
文化も論理も倫理も捨て去ってしまうことになる

新たな神話が「時を超え」
「生きるよすが」となり得るのだとすれば
それは「多神教」的なものをも
語り得るものでなければならないだろう

■ジョーゼフ・キャンベル『時を超える神話』
 (キャンベル選集Ⅰ 角川書店 1996.8)
 月報1[対談]河合隼雄・中沢新一
 ◆天性のストーリーテラー◆科学技術と地母神復活◆身体のある神話
■ジョーゼフ・キャンベル『生きるよすがとしての神話』
 (キャンベル選集Ⅱ 角川書店 1996.9)
 月報2[対談]河合隼雄・中沢新一
 ◆多神教の倫理◆原罪がなくなる話◆インディアンの世界

(「月報1[対談]河合隼雄・中沢新一」〜「天性のストーリーテラー」より)

「中沢/河合さんはキャンベルさんにお会いになったことがあるそうですね。

河合/何回か会ってます。最初は一九八五年くらいですか。サンフランシスコでキャンベルさんとワークショップをやって————ちょっと怖じけを振るったんだけど、怖じけを振るっても平気で行くところがぼくの特徴で(笑)。先にキャンベルさんが話したんですが、ものすごく話が巧い。ほんとにストーリーテラーですね。内容は、すごく単純に言ってしまうと、グレイトマザーの信仰を現代人は失いすぎているということなのだけれど、話の持っていき方がすごく巧い。ヨーロッパのヴィレンドルフで出土したヴィーナスがあるでしょう。始めに、そうした写真をいっぱい見せて、どこから神話的事実をたくさん並べて、これほど地母神が大事だったところへキリスト教が入ってきて、それを完全に捨て去ってしまったのが現代の問題だという話をする。そして、母なる神との接触を回復することが現代人の課題だという話に持って行く。そこまではいいけども、そこで急に日本を誉め出すんです(笑)。

中沢/それは河合さんへの挨拶?

河合/ぼくがいたということもあるけど、彼は日本をものすごく好きなんです。ほんとに。

中沢/誤解してらっしゃるんですね(笑)。

河合.いや、いわゆる先進国の中でグレイとマザーとの接触を完全にもっているのは、日本人だけだということです。

中沢/それは具体的にどういうふうな・・・・・・。

河合/西洋人は言葉に頼りすぎてる、だから男女が愛し合っても横に並んで顔を見合わせて「あなたを愛してます」と何べんも言語的に表現しないと信頼感が生まれない。(・・・)

河合/まあ、ぼくに対するお世辞もあるけど、失われたグレートマザーの凄さをすごくわかっている人という感じですね。それに、彼は何回も日本に来てるんです。踊る宗教の教祖に会いに行ったり、彼はアメリカのいわゆる近代性がいやで仕方ないわけね。その反動で日本を褒めるわけです。例えば、踊る宗教にしても、「どんな教義があるか、聖典を持ってるか、規制があるかと問われても、何も答えられない。けれど、我々にはダンスがある。こんな素晴らしいことがあるか」というわけです。それこそ近代主義者やったら、それは宗教じゃないと。そうでしょう? 教義も聖典もないんですから。ところは、キャンベルさんは逆に褒めるわけです。」

(「月報1[対談]河合隼雄・中沢新一」〜「科学技術と地母神復活」より)

「中沢/キャンベルの考え方は、ユング派もそうだと思うんですけど、潜在的にプロテスタントだと思うんですね。プロテスタントというのは、何かというと、キリスト教のガッチリした三位一体の構造が崩壊してくるところから生まれてきますよね。ドイツとフランスの間のスイスみたいなところで発達してて、しかもキリスト教の「父なる神」というのを背後に押しのけて、大地母神のようが起き上がってくるわけです。キリスト教というのは宗教の中では唯一というか仏教もそうなんですけど、無神論に通ずるところがあるyと思うんですね。

河合/どういう点がですか。

中沢/イエスが体を持って生まれちゃうでしょう。超越的なところへ物質の肉体を入れてセットしちゃってますね。イスラム教から見ると、こんなのは宗教じゃないと思うのね。

河合/なるほど。イスラムから見たらね。

中沢/だから、イスラムは宗教の鑑だと、キリスト教は不完全なイスラム教だと、ぼくは思ってるんですね(笑)。

河合/ああ、それはものすごい面白い考え方やね。

中沢/イスラムは完全に分けて、神の子なんて考え、絶対とらないですよ。

河合/そうそう。

中沢/そうすると肉体の中に神が入内するとか、そんな考えは絶対拒否していくのが宗教の本来あるべき心意気だと、ぼくは思うんだけど、キリスト教はそこを、なんかウジウジしているところがあって、両方セットしちゃったんですね。

河合/それはすっごい面白い考えで、そこから、つまりヨーロッパの近代が出てくるんやね。

中沢/そうだと思う。

河合/だから、同じ一神教いうてもイスラムから現代科学は出てこないでしょう。初めアラビアというのがすごい知識を持ってて、だいたいヨーロッパはぜんぶアラブから知識を取ったぐらいですね。ところが。そこをもう一つ近代科学にするためには、宗教がウジウジしてないと・・・・・・。

中沢/ええ、イスラムのほうが、すっきりしてるのね。でもキリスト教は常に動揺を孕んでるんです。あれは絶対、唯物論が出てきちゃうと思うんですね。

河合/ああ、なるほど。それは面白い考え方やね。

中沢/カソリックの場合はまだ、それを押さえてるものがあったんだと思うのね。押さえているのはたぶんマリアと幼な子のセットだったと思うんです。ところが、それをプロテスタントが否定していったとき何が出てきたかという、その回答の一つは科学技術ですよね。

河合/そうそう。

中沢/そしてもう一つがジョーゼフ・キャンベル的な思考方法じゃないかと思うんです。つまり、父性を否定していく、大地母神的なものを復活させなければいけない。その復活させなきゃいけないというのは、科学技術と完全にセットになっていると思うんですね。

河合/うん、うん。

中沢/だからキャンベルの著作みると、例えば、アポロ13号の月着陸と自分の神話学的な思想とが完全に一体になっているんですね。

河合/そうなんです。それは一体になるはずであるし、なるべきである。だから要するに今の科学と合う神話を語ってないと駄目だ、というのが彼の考え方でしょう。

中沢/ええ。科学技術が一つの宗教、もう一つはジョーゼフ・キャンベルが語らんとしてる何か、なんじゃないですか。

河合/なるほど、なるほど。

中沢/キャンベルはある意味で宗教改革をやろうとしていたんじゃないでしょうか。」

(「月報2[対談]河合隼雄・中沢新一」〜「多神教の倫理」より)

「中沢/日本や中国は、モナドを自分の中に内包したまま、長いこと歴史の中で発展してきた。それがいま窓を開け始めている。窓を開けると当然、モナドが持っていた独自性は解体を起こすわけです。地球全体がグローバル・ヴィレッジに向かっている。その時、人類にとっての神話形態はどうなのかというのを作り出さなければいけないというのがキャンベルの主張だと思うのね。科学技術と神話が背中合わせの関係にある現在、ある種の神話形態は科学技術で作られているわけです。たとえばインターネット。

河合/そうそう。

中沢/この世界は第一言語みたいなものを生んでいる。ぼくらはいま日本語で考えているけれども、十数年前からものすごく変わってると思うんですね。以前の日本語の表現だと、もっとまどろっこしい、複雑な感情伝達をしていたと思うんです。それがみんな消えているんですね。チョベリバ、なんて言われちゃったら、あれ? みたいあね(笑)。以前はそてに相当することは、かなりぐちゃぐちゃ言わないと言えなかったから、あの女の子たちはまどろっこしいと思って、チョベリバ、にしちゃってるんだと思うのね、それを聞いて日本語の崩壊とか解体という危機感を持つよりも、むしろ日本語はそういう欠点を持っていたんだと思ったほうがいいと、ぼくは思います。異本語は、ある部分が消えはじめてて、英語とコンパティブルがきく部分だけが通用する言語になりつつある。だから文学も変わりはじめているわけですね。今までみたいなニュアンスの部分や日本語のモナドの中にしか意味を持たない部分の表現は、読者がそれを何か自分の人生にとって意義あるものとは認めなくなっちゃってるわけですね。それはさっき言ったグローバル化ということと関わっている。だけど、キャンベルが言わんとしているグローバル化というのは人間の心の内面の普遍性ということです。ここがものすごく難しいところで、人類の普遍性を神話の形で表現しようとしたとき、果たして人間の心の普遍性を掴み出すことができるのかどうか。確かにキャンベルの思想はいま地球上で実際に起こっていることと対応しているんですが、それには裏の面が必ずついてまわる。それが最初に起こったのは、十六世紀でしょう。イエズス会師たちが南米へ出たとき、全人類が同じ言語で同じ論理で語るような世界をつくり出すというのが啓蒙の理想だったわけだから。それが、まあ、挫折しましたね。河合さんは人類の心というのは何国人であろうが普遍的なある心の層を抱えているとおっしゃってますよね。

河合/ええ。ただ、普遍的なものがあると前提するというのは、そもそもキリスト教から来てるという気はしますね。結局、ぼくらは多神教のなかにいて、神さんがたくさんいるわけだから、極端に言うと、ぼくの神さんと中沢さんの神さんはちがうわけです。ぼくがずっと課題にしているののは、背後にいる神が異なる人間はいかにして共存が可能かということなんです。つまり多神教の倫理ということなんですが、これはものすごう難しい。アメリカから一ぺん倫理について書いてくれと言われたときに、多神教の倫理を書くと言ったら、それはものすごく面白いというか、絶対に書くと言うた。けれどの、一神教の倫理では書くといったら書くけども、多神教の倫理でいくと、書くといったって書かないときもある(笑)。

中沢/人格は変わりませんしね(笑)。

河合/そのまま、書かなかった(笑)。書けなかったんですけどね。今でも「多神教の倫理」というのが念頭にあります。ぼくはアメリカ人によく言うんだけど、アメリカは自由主義で、個人主義の国だけれども、結果的にみんな同じことをしておられると(笑)。あの自由主義、個人主義というのは、個人が自由に唯一の正しいことをしようと思うんですね。だから皆同じになるんです。あれはもう超えないかんですね。

中沢/その分裂というか、アジア人にはそれを受けいれない何かがあると思いますね。仏教なんかは、そういう意味では多神教の倫理を考えるのに一番いいものなんですね。

河合/考えたら、キャンベルさんも書いてますよ。キリスト教の問題は、宗教のくせに倫理を一番はじめに押し立ててくるというところなんです。そうでしょう。アダムとイブのところで善悪というのがあるのだろうけど、日本の神話なんてどれみたって善悪は書いてないですね。

中沢/神様たちはいいかげんですから、河合先生と同じでね(笑)。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?