見出し画像

永井晋『〈精神的〉東洋哲学/顕現しないものの現象学』

☆mediopos-2451  2021.8.2

言語化できるものの次元と
言語化できないものの次元

それは
同じ言葉で表現されていても
まったく異なっている

言語化できないものを
あえて言語で表現しようとするとき
それはたとえば詩的言語や
秘教的になると
秘密言語と呼ばれたりもする

文字そのものを
一つのシンボルとして
神的なものの顕現としてとらえる場合も
その文字はすでに
日常言語の文字ではない
その文字はそれそのものに力が宿っている

顕現するもの
顕現しないもの

顕現するものは
対象化することができ
意味を記号的にも理解することができるが
顕現しないものは
対象化することができない
それはアナロジー的に示したりもされるが
経験としてみずからがそれを
体現していくことでしか
それとともにあることはできない

西洋と東洋の経験の典型的なありようを
対比させてみれば
西洋は
顕現するものを
対象化・表象化の論理でとらえ
東洋は
顕現しないものを
経験の「深さ」の次元でとらえようとする
ということができる

神的な次元のものをとらえようとする際
顕現するものを
論理化しようとすると神学や西洋哲学となり
顕現しないものを
その一者の内部が映しだす
鏡としての経験とともにあろうとすると
「〈精神的〉東洋哲学」的な方向に向かう

永井晋の著作の視点で
『〈精神的〉東洋哲学』をとらえれば
それは「世界を知覚されたものや思惟されたもの、
あるいは存在するものとしてではなく、
魂(創造像的想像力)を通して、
無限の潜在的深みを秘めた元型的象徴として
見直してゆくもの」だということができる

そしてそれは「顕現しない」からといって
「計り知れない深淵に隠れてゆくものではなく」
「むしろあらゆる桎梏を超えた
全く新たなものの無礙な創造として経験される」という

ある意味でそれは
表面的な異質さや矛盾を超えて
「異質なもの同士を異なる原理で結びつけていく」
という曼荼羅的なものである

ウィトゲンシュタインが
「語り得ないものについては沈黙しなければならない」
といったのは
顕現しないものの次元は語り得ないとしたのだろうが
「顕現しないもの」が経験し得ないということではない

それは詩的言語や秘密言語において示唆されるような
元型において多次元的な曼荼羅として現象しているものを
経験する可能性に向かって開かれていくものだ

■永井晋『〈精神的〉東洋哲学/顕現しないものの現象学』
 (知泉書館 (2018/11)
■山内志朗・永井晋「情熱の人、井筒俊彦の東方」
 (『未来哲学 第二号』ぷねうま舎 2021.5 所収)

(永井晋『〈精神的〉東洋哲学/顕現しないものの現象学』より)

「「顕現しないものの現象学」としての「〈精神的東洋哲学〉」は、あくまでも、徹底して事象そのものに従うことによって現象学の範囲を拡大し、それ以前の現象学では目立たず、隠れたままに留まっていた諸々の経験を発見し、主題化する作業を意味する。そこでは、「東洋」とはそのような「顕現しない/目立たない」、あるいは「形なきもの」の現象次元を指すのであり、それに対して「西洋」は、地平に媒介されて表象され、顕わになった形の世界を指す。」
「井筒(俊彦)はその後期の代表作『意識と本質----精神的東洋を索めて』において、自らの「精神的東洋哲学」の目的を「その多様さゆえに統一性をもたない「東洋」の諸伝統にある統一を与えること」だとしている。それは一見単なる比較哲学のように見えながら、「顕現しないものの現象学」から見るなら、東洋の経験的多様性を一者の内なる元型に還元して「一の多様性」として捉え直す、形而上学的な構想なのである。」

「「顕現しないものの現象学」とは、いわゆる後期のハイデガーが「ツェーリンゲンのゼミナール」(一九七三年)で使用した用語である。それは、彼が「存在と時間」以来初めて、それまで封印していた「現象学」に、「転回」を経て根本的に変容した新たな意味を込めて言及したものとして極めて重要なものである。つまり、「顕現しないもの」とは、転回以前のハイデガーの現象概念につきまとっていた制限を脱して最も徹底した意味で現れる次元なのである。しかし、ハイデガーの試みが真にそのような究極の現象性にまで至っていたのかが問題となる。
 ハイデガーが主にパルメニデスを参照しつつ使用する意味での「顕現しない/目立たない」ものとは、「存在者の存在」における存在者(顕現する/目立つもの)へのあらゆる限定から解放されたギリシャ的な意味での「存在することそのこと」、端的な「存在そのもの(存在としての存在(Sein als solches)」の生起を指す。この定式は、存在そのものは、形而上学的な停止した実体でないのはもちろん、フッサール、さらには転回以前のハイデガーにおけるような、それと気づかれない仕方ではあれ地平的に現れ、それによって動きを止めるものでもなく、als(として)を通して垂直方向に自己差異化しかつ自己媒介することによって生起する徹底的に動的な「出来事」である、ということを示している。その自己媒介という特性が「同語反復(Tautologie)」によって評言されているが、そこでは、als で媒介されるのが同じ「存在」であるため、存在者として、つまり地平方向には何ら現れることはないが、垂直方向の自己差異化/自己媒介が生じており、それによって「存在する」という根本的な出来事が顕現しない、目立たない仕方で出来するのである。別の表現をすれば、この次元では、「存在することそのこと」とは(alsによる、ではなく)alsという、何ら「動くもの」なきラディカルな「動き」そのもの、あるいは「動きつつある」ことなのだと言ってもよい。さらにハイデガーは、alsを介入させることで失われかねないその出来事のラディカルな動性と顕現しない性格をより正確に示すために、alsを省いて(つまり現象学的還元をさらに吊り上げて)「現前しつつある:現前することそのこと(Anwesend:anwesen selblt)と表現する。
 この出来事は、それを経験する人間の側からするなら、『存在と時間』の時期の現存在が、己の「死への存在」から脱し、さらに深いところで存在そのものに巻き込まれて、言わばその現象化原理としてのalsに成り切る(「動くもの」なき「動くこと」そのこと)によって初めて「存在そのもの」がまさしく現象学的な意味で現前することである。あるいは、この純然たる「動きつつある」ことが「存在そのもの」なのである。
 フランスの「神学的」現象学における「顕現しないもの」の「存在」から「神/一者」への移行もしくは転換は、現象学的に見るなら----そして少なくとも彼らの理解に従うなら----還元のさらなる深化によって、この「として/:」がその身分と機能を変えることに他ならない。それによれば、「神としての神」もしくは「一者としての一者」は、単なる同語反復ではなく、コルバンにおけるその最終形態においては、無限が自ずから顕わになったもの(épiphanie,théophanie)として、「存在そのもの」とはまったく逆に、最も豊かな、潜在的現象性の出現である。そしてそれは、この新たな〈として〉が、神/一者をその内側からそのまま映す鏡であることによって可能になる。

 未だまったく現象していない一なる神が、人間を媒介として、すなわち人間の魂=創造的想像力という鏡に自らを映すことによって、実体なき映像(元型イマージュ)として、その無限の潜在性を解き放つ。ここでは、「顕現しないもの/目立たないもの」とはこのような映像(元型イマージュ)として現れた一者そのもののことである。その映像は即一者自身であり、それ以外の何ものでもないのだから。それを、その自己自身でないもの、すなわちその外部から現れさせる地平や存在に媒介されて現れることはない。その意味でそれは「顕現しない/目立たない」のである。しかしそれは全く現れないのではなく、むしろいかなる外的な制限にもその動きを妨げられることなく無礙に炸裂するという仕方で、そして地平的な隠れの一切ない微細な超現前として、徹底した意味で現れるのである。
 そしてそのような「顕現しない神/一者」の徹底して内在的な現象様態の典型が、ユダヤ神秘主義カバラーやイスラーム神秘主義における文学や神名、セフィロート、あるいは密教におけるマンダラなどに代表される「元型的象徴」である。それは「象徴という現れにおいて象徴されるものが隠れる」という、「現れ=隠れ」の論理の一形態によって構造化されるが、ここでも地平や存在を構造化する「隠れ」とは異なって、元型の次元で「現れ」と「隠れ」がラディカルに同じものであるために、本書でも多用した仏教用語を用いるなら「一即多」というべき事態である。ここでは“als”が徹底しら現象学的還元を経て「即」に変容している。“als”が、地平的に働く場合はもっぱら存在者の世界を現象させ、これに対して垂直方向では「同じもの」の反復として「存在そのもの」を顕現しない(何も現れない」仕方で顕わにするのに対し、「一即多」の「即」は一をそのまま無限の多様性へと自己展開させる。というよりもむしろ、より正確には、この無限の多様性以外にはラディカルに何もないという、否定が肯定に一挙に旋回する事態こそが即であり、空である。そしてその無限の現象は「存在者の世界」でも「存在そのもの」でもなく、この二元対立的思惟にとってはまさしく顕現せず、目立たないがゆえに見過ごされてしまうそれらの手前の、最も具体的な現前の世界なのである。それは密教においてはまさしく元型的象徴として、禅においてはあらゆる実体性から解放されて端的に、生き生きと現前している世界として経験される。
 この地点から再びハイデガーを振り返るなら、この「神/一者(もしくは空)」は、ハイデガーの「存在の現象学」が、それをラディカルな動性として思惟するにしても「存在者の存在」という或る区別(存在論的差異=無/否定)から出発するのに対し、「神/一者」として現れたるイマジナル界の「間」には初めからいかなる区別(無/否定)もないため、「神/一者」の全き肯定的内在の中で転回するものであり、その意味でハイデガーよりもむしろスピノザからベルクソンを経てドゥルーズに至る内在哲学の系譜に繋がるものである。
 このように、「顕現しないもの」の現れの論理としての「イマジナルの現象学」、あるいはその器官としての「魂(創造的想像力)の現象学」は、世界を知覚されたものや思惟されたもの、あるいは存在するものとしてではなく、魂(創造像的想像力)を通して、無限の潜在的深みを秘めた元型的象徴として見直してゆくものである。そしてその象徴の無限の深みとは、決して計り知れない深淵に隠れてゆくものではなく、むしろあらゆる桎梏を超えた全く新たなものの無礙な創造として経験される。そしてそれこそが、「〈精神的〉東洋」の哲学的内実なのである。」

(山内志朗・永井晋「情熱の人、井筒俊彦の東方」より)

「山内/言語の限界と言いますか、言語というものをどのようなコンテキストに位置づけるか。言語の捉え方が、セム的な考え方と、西洋的なもの、また東洋的なもの、それぞれにまったく違うということですね。
 文字そのものが一つのシンボル、あるいは文字を神様の顕現と考える、その辺りは仏教、唯識の「種子(しゅうじ)」という発想とも近いものがありますね。文字そのものが仏様を表す。文字そのものに力が宿っているという考え方ですね。ある種、魔術的でまさに六角形の方陣を描くと、そこに力が現れてくるといった発想に近いかもしれません。
永井/まったくその通りだと思います。(・・・)
 今、非西洋的なものに視野を拡大してみると、ドゥルーズであれ、ジャック・デリダであれ、まったく別の目で見ることができますね。かつては先端の現代フランス思想を、よく訳がわからないまま追いかけていたわけですけど、なぜ訳がわからないのかが、よくわかってきますね、今の話でも。ただ流行を追いかけ、おかしなことを言っていただけではなくて、西洋の論理の限界をみんなそれなりに見ていた。デリダはユダヤですね、確実にカバラー的発想です。パリにいた時、ゼミの後でこのことをデリダに訊いたことがあるのですが、否定も肯定もしませんでした。それも当然ですが、ドゥルーズはイスラーム的な思考の型。それも彼らがユダヤやイスラームの文献を読んでいたとか、そういうことではなく、西洋的ではない思考の型、それはやはり生きている。われわれが西洋哲学を勉強しただけでは、それはわからない。そのことが最近ようやくわかるようになってきたという気がします。」

「永井/西洋的論理を相対化してしまえば、まさに井筒俊彦さんがよく「ミュト・ポイエーシス」とか、イマジナルの言語化と言われていたことは、西洋的哲学の論理では不可能ですね。つまり言葉は、すでにして記号ではありませんから。詩的言語であったり、それこそ喚起するものなのですね、単純に意味するのではなく。言い換えれば、さきほどのセム系言語とは、新しい発想を喚起する言語であり、何かを理解したり伝えたりする言語ではないということです。アナロジー思考というのも、そういうことではないかと思うのです。それは連想的思考なのですが、「連想的」とは何かといえば、井筒さん的にはそれは「分節化Ⅱ」であって、それに対して「分節化Ⅰ」は理解したり、安定させる、固めるための思考です。「分節化Ⅱ」は、解き放つための思考ですから、詩的言語や文学に近いのです。」

「山内/ウィトゲンシュタインは、一見すると厳密に論理化した人に思えますけれど、私は案外、手探り思考だったのではないかと思っています。哲学的思考と言っても、一律な類型化は難しいですね。例えば、チャールズ・サンダース・パースでしたら「アブダクション」となりますし、いろいろな人がさまざまな発想をするわけですが、やはりそこは職人芸と言いますか、名人芸ですから、受け継がれにくいところがありますね。気づかれないまま。それぞれ単発で、それらの同一性も差異性も認識されないまま埋もれている感じがあります。
 例えば、南方熊楠のように、異質なもの同士の関係を見抜いて、粘菌と曼荼羅を結びつける、それが特異な人もいますね。安藤礼二さんの熊楠論の書評を書いたのですが、安藤さんは南方熊楠と鈴木大拙と土宜法龍とがつなったくる、さらには西田幾多郎も、とされています。発想それぞれの関係には、たしかに曼荼羅的な構図を描けるところがあって、さまざまな対象と場所において多次元的に同じ現象が見出されるということが、明治の日本人にもあったような気がするのです。イブン・アラビーなども完全にそういう人だったように思います。井筒さんもそういう人ですし・・・・・・。
永井/そうですね。異質なもの同士を異なる原理で結びつけていくということなのでしょうね。近代的な思考ではそれがまったくわからなくなってしまっていて、何かおかしなことをやっているとしか思われないのだけれど、おそらく内的なある種のつながり、論理で結びつけて・・・・・・。
山内/今日だと、すぐ検索してネットワークを調べてわかった気になりますけれど、それは結局、合理的に構成された網の中で検索するだけなので、ブリコラージュ的と言いますか、東洋的な思想の持っている飛躍の論理はなかなか難しくなっていまうす。
永井/そうですね。飛躍ですね、ほんとうに大切なのは。」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?