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四方田犬彦「零落の賦 連載第三回 不死という劫罰」(『文學界』)/高橋康也『サミュエル・ベケット』/吉田喜重『贖罪』

☆mediopos3284  2023.11.14

不老不死を求める者は
古来より後を絶たない

現代においても
生命科学者をはじめ
「不老」と「不死」の実現を求め
さまざまな研究がなされていたりもするが
人は必ず死を迎える
可能なのはある程度の
「アンチエイジング」と延命である

さて四方田犬彦「零落の賦」の
連載第三回は「不死という劫罰」である

記事にとりあげられているなかから
ベケットの三部作『モロイ』『マロウンは死ぬ』
『名づけられぬもの』
そして吉田喜重『贖罪』について引いた

ベケットの三部作における語り手は
「死に瀕しながらも永久に死に到達することができず、
ただただ無意味な饒舌を重ね、
愚かしい物語を思いついては廃棄してゆく」

吉田喜重の小説『贖罪』は
終身刑を宣告されたルドルフ・ヘスの
「刑死も自殺も許されないまま、未来永劫にわたって
牢獄に監禁されることになった者の意識の劇であり、
残酷にも不死を宣告されてしまった者」の
「生に対する悔悟」が描かれている

いうまでもなくここでは
「死にたくない」「不死でいたい」というのではなく
「不死」あるいは「延命」が
続いていかざるを得ない者の
「救済」されない意識が問題となっている

ずっと生き続けるということは
たとえそれが「不老」だとしても
その「生」は生まれてきた身体をはじめとした
諸条件にある程度規定されているがゆえに
比較的短いあいだに
その「生」に倦んでくることになるだろう

「不死」が「劫罰」であるということは
「死」こそ救済であるということになり得る

「死」は「生」に対する「死」であって
生と死を対立的にとらえなければ
「死」を頑なに恐れ拒む必要はない
「生」ゆえに「死」は恐れられる
つまり「生」こそが恐ろしい

霊的な原則として「魂」は失われない
にもかかわらず
この地上世界では
「生」がありそして「死」がある

そして現状においては
ひとは生後の記憶のなにがしか以外の記憶を
もたないままその「一回性」の「生」を送っていく

「一回性」であることに重要な意味がある
そうでなければ「生」における
「個」のペルソナが形成され難く
たとえていえばいつも同じキャラクターしか
演じられない役者になってしまうからである

「一回性」ゆえに
わたしたちの「生」は迫真のものとなる
生きることはいつも新しい経験をもたらし得る

それゆえに「不死」は「劫罰」にもなる
「いつ終わるとも知れない」
そんな「生」が「延々と続いていくばかり」となる

ベケットの訳者でもある高橋康也は
「ベケットの最も深い意味における宗教性、
彼の道化の逆説的な聖性をぼくは疑うことができない」とし
ベケットの作品の登場人物たちは
「鏡を見ると、そこにキリストを見出す」のだという
「キリストにおける愚者」である

また吉岡実は高橋康也の『サミュエル・ベケット』で
「想像力は死んだ 想像せよ」
という言葉を見つけたというが
それは「キリストは死んだ 復活せよ」
とでも言っているようだ

パウロが「内なるキリスト」をいうように
私たちは内に「キリスト」を見出すことができる

地上的に生きている私たちは
「死」に到ることも
また「不死」を生きざるを得ないことも
ただネガティブにとらえてしまうところがあるが

「鏡」を見ながら
そこに「キリストにおける愚者」を見出し
「道化」として生きてみるのもいいのではないか

いうまでもなく「劫罰」としてではなく
ペルソナゆえの「遊戯」としての「生」である
さらなる「想像力」もそのためにこそ必要となる

■四方田犬彦「零落の賦 連載第三回 不死という劫罰」
 (『文學界』2023年12月号)
■高橋康也『サミュエル・ベケット』(白水ブックス 2017/11)
■吉田喜重『贖罪/ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(文藝春秋 2020/4)

(四方田犬彦「零落の賦」より)

「われわれはルキアノスから始まり、ダンテ、ラブレー、スウィフトといった具合に、西洋文学における〈冥界での対話〉の変遷の歴史を辿ってきた。古代ギリシャからルネサンスまで、異常な状況下での陽気で滑稽な対話であるとみなされてきたこのジャンルは、近代に到って暗く陰鬱な様相を帯びることになる。斬首されてもただちに蘇生し、笑いながら冥界での出会いの数々を語る肉体は、もはや再生の契機を喪失し、時間の進行に応じて劣化零落する肉体となる。だが死と再生という祝祭的な二重性が困難となったとき、それと裏腹に台頭してくるのが、〈劫罰としての不死〉という主題である。スウィフトの『ガリヴァー旅行記』に登場するストラルドブルグは、近代人がもはや死を名誉ある救済と認識することができなくなった状況に対応している。
 冥界廻りと不死という主題は、その後、現代文学においても定石として認識され、数多くのラディカルな作品を生み出す契機となった。」

「アイルランドに生を享けたベケットは、ダブリンに「幽閉」されたスウィフトの正統的嫡子ともいうべき存在である。『モロイ』『マロウンは死ぬ』『名づけられぬもの』は一九五一年から五三年にかけて集中的に執筆された。そこで問題とされるのは、死に瀕しながらも永久に死に到達することができず、ただただ無意味な饒舌を重ね、愚かしい物語を思いついては廃棄してゆく語り手の意識である。

 『モロイ』ではまだ主人公はモランという固有名詞をもち、私立探偵としてモロイなる人物を探し出し、報告書を作成するという仕事に従事していた。探求の対象であるモロイもまた自分の母親を探すことを自分の義務だと考えていた。だがいつしか両方の対立は曖昧となり、モランがモロイに同化し、モロイは母親の寝台のなかで、軀も動かせぬまま何かを必死に書くことになる。

 『マロウンは死ぬ』では、老いてもはや身動きの取れないマロウンという人物が、丸天井の地下室のなかで何かを書いている。彼は臨終間近であり、それまでの暇つぶしだといいながら、三つの物語を自分に話し聞かせようとする。もっとも書いている側から、記憶はどんどん失われていく。マロウンが創造した人物が物語のなかで息を引き取るとき、書き手であるマロウンも死ぬ。

 『名づけられぬもの』ではもはや語り手に名前がない。それどころか、彼はどこにいて、どのような形態をしてるのかもわからない。ただ際限もなく物語を語る声だけが続いている。物語の主人公は片足で松葉杖を突きながら放浪し、家族のもとに帰ってはきたものの手足を失い、甕に入れられてパリのあるレストランの店先に置き去りにされているという。だがその後で語り手は、それは自分のことだともいう。彼はいったい書いているのか、喋っているのか、また生きているのか、死んでいるのか。何もわからない。ただ、いつ終わるとも知れない言葉が延々と続いていくばかりである。

 『モロイ』に始まるこの三部作は、ストラルドブルグが徐々に記憶を喪失し、自分が誰であるかも認識できなくなりつつも、それでも喋り続けるという状況にみごとに対応している。「続けなければならない、続けることはできない、続けよう。」『名づけられぬもの』はまさに死を許されることがないという劫罰を体現してる。不死であるとは語り続けることなのだ。劫罰として語ることなのだ。」

「不死という主題は最近、映画監督の吉田喜重によって、長編小説として展開されることになった。ヒトラーの腹心にしてナチス党の副総裁であったルドルフ・ヘスを主人公とする『贖罪 ナチス副総統ルドルフ・ヘスの戦争』(二〇二〇)は、未来永劫にわたって続くかもしれぬ獄中生活において彼は執筆した手記という設定の作品である。

 一九四一年五月十日、アドルフ・ヒトラーの腹心にしてナチス党の副総裁であったルドルフ・ヘスは、メッサーシュミット機をみずから操縦し、ベルリンからイギリスへ単独飛行を行う。彼はただちに逮捕され尋問を受ける。ヒトラーは怒り心頭に発し、ヘスを狂人だと罵倒する。ヘスの意図はいまだに明かではない。秘密裡にドイツとイギリスの和平工作を行うためであったのか、それとも個人的に身の危険を感じての亡命だったのか。

 ニュールンベルグ裁判でヘスは終身刑を宣告され、ベルリンの刑務所に収監される。驚くべきことに、彼は多くの有罪判決者と違って死刑に処せられず、最後にはただ一人の囚人として一九八七年まで生き続ける。享年は九十三であった。ヘスは渡英の真意を明らかにしないまま、戦後社会の変転を獄窓から眺め、ゴルバチョフの台頭を知りつつこの世を去った。

 だがもしここに、ヘスがおのれの人生を真摯に振り返り、すべてを告白した手記が存在していたとしたら? 『贖罪』はこのありえぬ仮定に基づいて執筆された。そこで審問にかけられているのは、題名から察せられるような、ナチスの戦争犯罪に対する贖罪ではない。刑死も自殺も許されないまま、未来永劫にわたって牢獄に監禁されることになった者の意識の劇であり、残酷にも不死を宣告されてしまった者、つまりスウィフトのいうストラルドブルグが抱くことになった、生に対する悔悟である。」

「神々は凋落し世界の片隅に追いやられると、妖怪に身を窶して生き延びた。人間は死して冥界に下ると、地上での地位と名誉、栄光のいっさいを剥奪され、無名にして滑稽な存在に成り下がった。この屈辱的な状況を免れた者を待っていたのはさらに恐るべき刑罰、すなわち不死の身になることであった。死による救済をも剥奪された者たちは、記憶も言語も喪失し、世界が終末を迎えるまで存在することを強いられることになった。

 では彼ら人間たちは地上でのはかない生の間、いったい何をしていたのか。」

(高橋康也『サミュエル・ベケット』〜「道化の遺言」より)

「ベケットとキリストという問題以上に重大なものはぼくにとって存在しなかったのではなかったか。「おれは一生のあいだ自分をきりすとになぞらえてきたんだ」と言うゴゴを代表として、ベケットの主人公たちにはほとんど例外なくキリストとの自己同一視が認められる。ホルバインの画のように。彼らは鏡を見ると、そこにキリストを見出すのだ。いや、彼らは逆に不届きにもこう言うかもしれない————赤子の「無ー知」、マリアの「無ー為」を嘉した逆説の達人、さまざまな物語を語った言葉の人、まっとうな連中から愚者よ狂人よと笑われた放浪者、アウトサイダーでありながら人間社会の罪を一身に背負った贖罪羊などとしてのキリストが、もし鏡を見たら、そこにおれたちを見出すだろう、と。彼らこそはパウロの言う「キリストにおける愚者」なのかもしれない。彼らにとってキリストは彼であり我なのである。そしてベケットにとって彼ら作中人物は彼であり我である。さらに、中世人によって道化・狂人が彼であり我であったように、ぼくたち読者にとってベケットの道化・狂人は彼であり我である・・・・・・。

 『名づけえぬもの』という題名の最も深い曖昧性が浮かびあがるのはこのときである。主人公に与えられたこの名前でない名前、この無名性。しかし「名づけえぬもの」とは、ブランショの「至高者」と同じく、「神」の呼称ではないか(ヘブライ語のYHWH、いわゆる四文字語は名づけえぬ・発音すべからざる神の神の謂いであった)。ベケットの主人公は、はじめ外在的に言及していた「彼ら」や「暴君」をついに「神」として自分の内部に見出すのではないか————ちょうどモランがモロイを自分の中に見出し、ゴゴとディディの名前の内部にゴドーが隠れているように。そして「神」は「言葉」であり「言葉」は「神」であるならば、「天地は過ぎん、されどわが言葉は過ぎざるべし」(マタイ伝二四章三五節)という神の終末論的予言は、そのまま、いっさいの喪失ののちに言葉(声)だけとなって存在しつづけるベケットの主人公の口から発せられてもいいはずではないか。」

「ベケットの最も深い意味における宗教性、彼の道化の逆説的な聖性をぼくは疑うことができない。」

(高橋康也『サミュエル・ベケット』〜巻末エッセイ 吉岡実「想像力は死んだ 想像せよ」」より)

「  「想像力は死んだ 想像せよ」

 『サミュエル・ベケット』を読んでいて、この言葉を見つけた。まこと恐ろしい一言であると思う。ある時期から、詩を書きながら、私は自己の想像力の枯渇したことを感じた。今までは豊かなイメージの湧出に、愉悦とその定着への抑制に精神を集中すれば、私はそれなりに詩の生成に出会えた。しかしこの頃は他人の言葉の引用と、素材的資料、地名、人名を挿入しながら内なるリアリティの確立を試みているのである。

 「想像力は死んだ 想像せよ」とは、詩人の恣意のみの軽薄なる言葉の発想を、きびしく戒めているように思われる。しかしまた「想像力は死んだ 想像せよ」と、なおいっそう想像力を喚起せよとの助言であるかも知れない。想像力を超えるものは、真の創造をもたらす想像力意外にないだろうから、高橋康也が、「恐ろしい作家」というベケットの諸作を、私はこれから読んでいこうと思っている。」

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