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柳澤桂子『リズムの生物学』/中村雄二郎『かたちのオディッセイ』/三木成夫『三木成夫とクラーゲス』

☆mediopos2683  2022.3.22

地球上のあらゆる生物は
太陽の光・月の満ち欠け・潮の流れに同期しながら
体内でリズムを奏でている

今回文庫化された柳澤桂子の『リズムの生物学』は
1994年に刊行された際には
『いのちとリズム』というタイトルだったように
まさに「いのち」は「リズム」だ

生命現象におけるリズムを
時間的な観点からだけではなく
空間的な観点からもとらえていくと
私たちのからだも「細胞の繰り返し、
遺伝子の繰り返し、塩基の繰り返し」というように
「何層にも積み重なった繰り返し構造によって」できている
「最終的には素粒子の繰り返しが
「私」という個体をつくっている」

「リズム」から生命現象を解いていくと
それがほとんどすべての生命現象に関わる
根元的な現象であることがわかる
そのことを解き明かそうとしたのが
『リズムの生物学(いのちとリズム)』である

こうしたリズムを「かたち」という現象において
自然学を含めた哲学的な視点から
多角的に探求した画期的な試みがある

上記の『リズムの生物学』の3年ほど前に刊行された
中村雄二郎の『かたちのオディッセイ』である
(1986年から1990年にかけて
雑誌『へるめす』において連載されたもの)

本書は哲学・芸術・宗教の領域を超えて
論じられている「汎リズム論」であり
フラクタル幾何学・散逸構造論といった
当時の最新の科学的なアプローチ等も踏まえ
形態・リズム・色の問題に根源的な考察がなされている

ふつう「かたち」というのは
空間的にとらえられているが
それを「聴覚的・時間的なリズム」
「時間性も帯びた具体的な領界としての場所」として
とらえようとする試みである

本書ではゲーテやシュタイナーについても言及されているが
日本の哲学者が哲学書のなかで
シュタイナーの霊学についてまとまったかたちで
とりあげているのは本書がはじめだろう

本書のなかでは『胎児の世界』でもよく知られている
三木成夫の「生命記憶論」についても言及されているが
三木成夫といえばゲーテ・ヘッケルそしてクラーゲスである

生の哲学者クラーゲスは
宇宙の根源現象を「リズム」としてとらえているが
『リズムの本質』という著作では
「拍子は反復し、リズムは更新する」と論じられている

少し前に三木 成夫の
『三木成夫とクラーゲス/植物・動物・波動』が
うぶすな書院から刊行されたところだが
「「分節的・総局的連続性」をもったリズムの本質は、
いってみれば〝寄せては返す〟という
波の運動相貌のなかに端的に見ることが出来る」という

「かたち」は「リズム」であり
「リズム」は「かたち」である

天体の音楽もそうであるように
生命現象を含むあらゆる現象は
その根源において音楽を奏でている

だから海辺で聞こえてくる〝寄せては返す〟の音は
「われわれに宇宙の根源現象としてのリズムのこころを
悠久の〝ひびき〟として伝えてくれる」のだ

■柳澤 桂子『リズムの生物学』
  (講談社学術文庫 講談社 2022/3)
 ※一九九四年一〇月に刊行された『いのちとリズム 無限の繰り返しの中で』(中公新書)を改題
■中村 雄二郎『かたちのオディッセイ/エイドス・モルフェー・リズム』
 (岩波書店 1991/1/)
■三木 成夫『三木成夫とクラーゲス/植物・動物・波動』
 (うぶすな書院 2021/12)

(柳澤 桂子『リズムの生物学』より)

「本書では、生命現象にみられる繰り返し現象を中心に、そこに発生するリズムについて述べ、その繰り返しの起こる機構について考えてみた。おなじ現象が一定の間隔をおいて繰り返し起こるときに、そこにリズムが生じる。心臓の鼓動のリズム、覚醒と睡眠のリズム、日の出と日没のリズムなどは私たちが日常に感じているリズムである。
 さらに、私は、時間的なリズムのみならず、空間的なリズムという観点からも生命現象を考えてみた。すると、私たちのからだだけを考えてみても、何層にも積み重なった繰り返し構造によって人間ができあがっていることがわかる。細胞の繰り返し、遺伝子の繰り返し、塩基の繰り返し−−−−そして、最終的には素粒子の繰り返しが「私」という個体をつくっている。
 リズムというたった一つの言葉をめぐって生命現象を解いていくと、それは、ほとんどすべての生命現象について言及することになる。リズムとは、生物にとってそれほど根元的な現象であるということであろう。時間的・空間的リズムは、対称性の破れという視点から統一的に説明することができる。」

「生物たちは、それぞれ自分の体内にサーカディアンリズムを刻む時計をもちながら、天体の運行の周期に同調して生きている。」

(中村 雄二郎『かたちのオディッセイ』〜「第Ⅷ章 場所とリズム運動」より)

「ふつう、〈かたち〉の対応するのは場所ではなくて空間である、と考えられている。しかし、この考え方は、視覚的・無時間的な形象だけでなく、聴覚的・時間的なリズムもまたかたちであることに眼を向けるとき、変更を迫られるはずである。そして、ここにおいて、時間性を排除した空間にかわって、時間性も帯びた具体的な領界としての場所が浮かび上がってくる。」

「フィードバックの働く(つまり非線形の)系からリズム振動が発現するのは、エネルギーの流れに関し自己調整機能をそなえた系のなかに、活動を促す一定量のエネルギーがたえず外界から流れ込んでいるからである。これは、弁の開閉によって各小室の水量を調節する単純な機械モデルによっても実現することができる。そのもっとも簡単な例は、日本庭園にあるししおどしである。系が生命体の場合には、外からエネルギーをとり込む物質の代謝をコントロールするさまざまな酵素が体内に存在しており、それによって物質の化学的変化の流れが平均して一定になるようにコントロールされている。すなわち、さまざまな仕方でこのような非線形の系に実現されるエネルギーの定常的な流れが、リズム振動を生み出すのである。
 この宇宙そして自然界には、そのようなエネルギーの定常的な流れを保つかたちでコントロールするために、ほぼ二十四時間の周期で営まれる生物に共通なサーカディアン・リズム(概日周期リズム)をはじめ、さまざまな周期から成る多数のリズム振動が存在している。(・・・)
 とはいえ、単独の、また孤立したリズム振動からは、〈天球の音楽〉といわれるような共振もハーモニーも生まれはしない。そこには、どうしても、もう一つの重要な原理の働くことが必要である。すなわち、それは、非線形振動同士の引き込み(entrainment)である。すでに一七世紀に物理学者クリスティアン・ホイヘンスは、二つの振子時計を同じ木の上に固定しておくと、やがてそれらの振子がシンクロナイズして、同じように時を刻むようになることに気がついた。そのとき、振動数も位相もシンクロナイズするのである。
 このリズム振動及び引き込みによる共振という働きは、この宇宙や自然のなかの至るところに見出される驚くほど偏在的な現象である。」


(中村 雄二郎『かたちのオディッセイ』〜「第Ⅹ章 振動のひらく世界」より)

「私のリズムや振動への関心は、〈かたち〉の問題をいろいろな角度から追求していった過程で出てきたものであった。〈かたち〉を視覚的なものに限らず、聴覚的なものについても考えるべきだという立場を押しすすめていったところ、振動や響き合いや引き込み現象に出会い、すべての形態形成に、とくに生命体の形態形成にリズム振動が中心的な役割を果たしていることに気がつくようになったのである。
 その考え方の要点を述べておけば、次のようになる。自然界のなかに自然発生的に生じた簡単なリズム振動同士が引き込みによって共振しあうとき、リズム振動体は次第に複雑化し、物質代謝の機能を獲得しつつ、自立化していく。こうして、物質界から有機体、そして生物が生まれていく。非生命体と生命体とがこれまで考えられてきたように断絶していないことを示唆する重要でわかりやすい実例は、大気現象である台風が、一種の振動現象にもとづく渦巻きによって、まわりのエネルギーを吸収して成長し(つまりエントロピーを減少し)、生命体のようなライフ・サイクルをもつということである。」

(中村 雄二郎『かたちのオディッセイ』〜「補遺 形態共鳴と視覚の自明性」より)

「ユングの場合の〈元型〉や〈共時性〉は、機械論を共通の反対項とすれば、シェルドレイクの〈形態形成場〉や〈形成的因果作用〉と意外と近い。ただし、決定的な相違は、後者が科学的な生物学の理論をめざしてるのに対して、前者が最後には非因果連関的な心のリアリティを求めていることである。ユングにとって、共時性とはなによりも一群の事象の意味のある共時性であったが、意味に支えられた一群の事象の共時性を物理現象の次元で根拠づけるすべがなかたらである。
 その点で興味深いのは、ボームの〈内蔵秩序〉の理論が、少なくとも理論的にあたかも両者を架橋する可能性をもっていることである。というのも、彼は、それによって、物質と心のいずれにも有効な理論をめざしているからである。(・・・)
 すなわち、内臓秩序においては、世界の各部分が他のすべての部分をなんらかの仕方で包み込んでいる。したがって、われわれが思考のなかでどのような部分や要素や相を抽象しようとも、それらも総体を包み込んでいるため、全体との関係が保たれている。また、宇宙と意識の両者を、分離できぬ単一の運動の総体として理解することが可能になるのである。」

(三木 成夫『三木成夫とクラーゲス』〜「宇宙の根源現象/宇宙と人間」より)

「ゲーテはその最晩年、植物の成長過程に見られるラセン形成の、ある根強い傾向をその鋭い直観の眼で捉え、そこに秘められた「生の根本原理」をもののみごとに洞察した。」

「宇宙の根原現象としての「渦巻」は、上古の昔からひろく〝流れ〟に譬えられて今日にいたったのであるが、現代の生の哲学者L.クラーゲスは端的にこの現象を「リズム」と表現する。それは一般に〝波動〟あるいは〝律動〟と訳されているが、その語源は(・・・)rhéeinから出る。「・・・・・・rhéein=流れる、に由来する“Rhythmisu”という詞はまず第一に、とりわけ水の波に、みごとに現れるひとつの連続性(Stetigkeit)をわれわれに開示する。その山と谷との不断の交替は、この両者の、切れ目も割れ目も避け目もない移り変わりによって行われる。ここからその第二の特色が明らかになる。それは常にただ類似するものが、常にただ類似の間隔をおいて繰り返される、ということである。どんな水の波も先行のものと形や持続のそっくり同じものはひとつもない。・・・・・・」クラーゲスはこうして、水の面にいつ果てるともなく拡がってゆく波の連なり、その山と谷とのなめらかな〝更新〟のなかに機械運動の〝反復〟とは異なった「リズムの本質」を見い出すのであるが、さらにそうした連続性のなかに「分節性」と「双極性」を識別する。はじめの「分節性」とはこの波の連なりが、山頂、谷底または両者の移行部など、同じ位相点に順につけられた〝節〟の列によって分割されることをいう。この節のつけ方には人ごとにニュアンスが見られるが、適切な「打拍」によって、かくれたリズムがにわかに高揚されることは、日常しばしば経験するところであろう。つぎの「双極性」とは、この山と谷の関係が、たとえば「+3」と「−3」のような消極的なものではなく、「上昇から下降」「下降から上昇」という二つの形に見られるような、互いに質的に向かい合った、すなわち、〝極性聯関〟を示すものであることをいう。このような「分節的・総局的連続性」をもったリズムの本質は、いってみれば〝寄せては返す〟という波の運動相貌のなかに端的に見ることが出来るであろう。浜辺に聞こえる、あの打ち寄せる波の音と、ひいてゆく波の音の不断の交替は、われわれに宇宙の根源現象としてのリズムのこころを悠久の〝ひびき〟として伝えてくれる、ひとつのみごとな例と思われる。

 ゲーテの〝蔓〟からクラーゲスの〝波〟へ、われわれは宇宙の原形を求めて視線を移してきた。前者がより空間的な〝ラセン〟の渦であるとすれば、後者はより時間的な〝リズム〟の流れということになる。そこでいま、この後者を見る眼で、あらためてこの宇宙の森羅万象を眺めると、ここでもまたわれわれは百花繚乱のリズムのシンフォニーに接することになるであろう。しかもそこには大きな〝二つの流れ〟の交錯が見られる。
 
 そのひとつは四大すなわち地・水。・火・風の奏でる壮大な自然リズムのハーモニーである。(・・・)それは宇宙の無数の天体が描き出すラセンの渦巻模様からなる。その身近なものとしては、この地球に四季の移り変わりをもたらす「年リズム」、潮の干満、大潮小潮の交替を告げる「月リズム」さらに昼と夜を目まぐるしく交替させる「日」リズムの三者がそれぞれ太陽系由来のものとして識別されるが、このほかリズムの語源となった水波を中心に、光の波・電磁波・音波・地震波から周期的な気候変動・地殻変動、さらにはあの氷河期の繰り返しにいたる数えきれない長短さまざまのリズム波が知られている。それらは、いってみれば、素粒子のスピン運動と宇宙球のラセン運動を両端にもつ〝宇宙波〟の雄大なスペクトル帯のいずれかの分画に由来するものと考えられる。

 さて宇宙のリズムのひとつが、このような四大のリズムであるとすれば、他のひとつは、いうまでもなく植物・動物。人間の奏でる生物のリズムでなければならない。われわれはそこでもまた、これらの膨大なハーモニーに接することになろう。眼をまずこの体内に向ければ、自らの生をなににもなして実感させる心臓の鼓動と呼吸の波動に出会う。そしてさらに内臓の諸器官や各種の細胞の描き出す色とりどりのリズム模様にゆきあたる。一方日常の生活に眼を向ければ、そこでは休息と活動・睡眠と覚醒の交替にはじまり、その振幅の周期的な増減と、〝調子の波〟の繰り返し・病気の時節的な到来から、はては人生の〝節〟にいたる数多くのリズム現象が、ある時ははっきりと、ある時はおぼろに交錯するさまを見るであろう。しかしここで、ひとたび眼を外に向けて、自然の動植物の姿に接したとき、ひとびとはそこに、上述のどれよりも色鮮やかな「生命の波」が、連綿と続くのを見る。それは(・・・)「食と性」のリズム波である。」

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