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山本圭「誇示考」(『群像』2023年9月号)

☆mediopos3191  2023.8.13

山本圭による「誇示」についての論考である
その論考を読みながら(引用を参照)
なぜ人は「誇示」するのかについて考えてみたい

「誇示」は
「私」を相手よりも上に置くべく
「承認」や「評価」を求めるもので
「自我」のある種の悲しい性のひとつでもある

そこにはいうまでもなく「相手」がいる
「自我はひとりではいられない」
あるいは「自我は自足しない」のである

「天上天下唯我独尊」の釈迦にも
それが本人の意図であるか否かは別として
そこには説法の「相手」がいたが
その場合の「自我」は
「誇示」する「自我」とは異なっている
ある意味究極のパレーシアである

しかし釈迦やその言葉の権威を使い
「承認」や「評価」を求めるとき
それは「誇示」する「自我」となってしまう

あえて「誇示」とまでいかず
ただ「私を見て」とばかりに
じぶんに注目させようとするのも
自足しない自我の承認欲求からのものだろう

「他人の自慢話」は「不愉快」だが
自慢する本人は多くの場合
相手の「不愉快さ」などおかまいなしだ

とくに相手よりじぶんが上の立場にあるか
あるいはそう思い込んでいるとき
「誇示」することで
じぶんの「自我」の欲望をみたすか
あるいはそれによる相手の行動を求める
そして相手はその「自慢話」を拒めない
(ある意味「仕方ない」と諦めている)

もっとも「誇示」といっても
それが「共感」に裏付けられているとき
自我は一方通行ではなく
同じ場を持ち得るため
否定的なものとなるとはかぎらない

社会階層などが比較的固定している場合
「誇示」が許される状況は多く存在したが
現代のとくにSNSなどのように
「誇示」が「民主化」されるようになったとき
さまざまなかたちの「承認欲求」が
「自我」をあられもない悲しい姿として
顕在化させるようになる

おそらくそうした「誇示」する「自我」は
そうした「民主化」された場に
みずからを映しながら
ますます「自我」を暴走させるか
(ときには疲弊し空虚ともなり)
同様な波長をもつ「自我」とつながりながら
漂流していくばかりだろう

とはいえ「誇示」も
それが「自己意識」を伴うものであり
じぶんを笑い笑わせる道化的な手法としてならば
むしろ共感や理解を得るものともなり得るだろう

■山本圭「誇示考」
 (『群像』2023年9月号)

(「1 はじめに」より)

「一般に、他人の自慢話ほど不愉快なものはない。あなたの周りにも一人か二人はいるだろう、自分の成功や業績を吹聴してやまない人が。SNSを見渡せば、そこでは誇示競争のようなものがたえず繰り広げられている。日常的に自分をアピールする人、さりげなく贅沢を匂わせる人もいれば、写真を加工して「盛る」ことで実態以上に大きく見せる人もいる。ともあれ、現代社会には大なり小なりの誇示があふれている。

 そもそも、人はどうして何かを誇示したがるのだろうか。おそらく承認欲求であるとか自身のなさの表れであるとか、様々な説明がなされているだろう。興味深く思えるのは、そうした承認に対するあくなき欲求が、誇示や自慢によってなんら解決されているようには見えないことだ。まるで喉の渇きを癒やそうとして海水をがぶ飲みするように、誇示者はますます承認欲求に飢えているように見える。ここには何か根本的な可笑しさがある。」

「ある時期まで、不特定者にむけた誇示は特権的な人々のものであり、そのかぎりで誇示の仕方にも一定の作法や節度があった。しかし、誇示が万人に開かれるろき、そのあり方にも大きな変化が訪れる。誇示があちこちに蔓延っているとき、いわば「誇示の民主化」ともいうべき状況において、それがもっとも弱々しく映るのはなぜであるか。本稿は誇示というごくごく身近な現象を手がかりに、現代という時代を探る一箇の承認論である。」

(「2 なぜ自慢話は不愉快なのか」より)

「そもそも、どうして他人の自慢話は不愉快なのか。プルタルコスの「妬まれずに自分をほめることについて」という論考を見よう。それによると、第一に、自分で自分を褒めることは恥知らずなことであり、たとえ他人に褒められたとしても恥じらうべきである。さらに、称賛とは他人から受け取るべきもので、それを自分で自分に与えることは正しくない。自画自賛は良識に反するのであり、だからこそ私たちはそれをとても苦痛に感じるわけだ。

 そればかりではない。さらに不快に思われるのは、自慢話がともに称賛するよう私たちに強いるからでもある。

(・・・)

 だが、相手を不快にしない自慢というのもある、状況次第では誇示もやむを得ないことがあるのだ。たとえば中傷や告発に対して弁明をするときや「不運に見舞われている」とき、あるいは「不正なめにあった政治家」などがその例として挙げられるが、いずれも虚栄心からではなく、不利な立場を強いられたときの弁明のための誇示であれば、聴衆に不快感を抱かせることはあまりない。」

(「3 度量の広さ」より)

「時宜を得ない誇示はみっともない。ただし、それが立場に相応しく節度を保ったものであればそのかぎりではない。(・・・)
 そのほか、他人への分け前をともなう誇示も人々に受け入れられやすい。」

(「4 奢侈について」より)

「奢侈や贅沢もまた、他人にみせびらかすことと切り離せない。」

「贅沢を徹底的に敵視したのは、いうまでもなくキリスト教であった、贅沢とは「悪魔の誘惑」にほかならず、重大な罪であると考えられ、またときに肉欲や物質的な所有の欲望であるとされた。」

「奢侈や贅沢が新しい表象を獲得したのは18世紀のことである。この時期、イギリスやフランスにおいて贅沢の是非をめぐる、いわゆる奢侈論争が起きている。(・・・)

 私たちの関心からとりわけ重要なのは、やはりオランダ出身のバーナード・マンデヴィルである。マンデヴィルは道徳家のシャフツベリーを批判しつつ奢侈擁護論を展開し、奢侈論争の中心的人物になった。この論争において贅沢はもっぱら経済的、道徳的観点から評価されていたが、マンデヴィルが母国オランダの経済的成功から(ヴェブレンより200年ほど先に)「誇示的消費」(あるいは「顕示的消費」)という考え方に到達していたことは注目に値する。」

「ヴェブレンによれば、私有財産制において蓄財の目的は身体的な欲求を満たすためというよりも、自分と同じ階級に属する人々をだしぬき、世間の評判を保つためのものであった。つまり、蓄財の主たる動機となるのは比較と差別化にほかならない。」

(「5 誇示の民主化と誇示者の孤独」より)

「19世紀後半から20世紀にかけて、中産階級や労働者階級の購買力も高まり、彼らもまた贅沢品を消費することができるようになった。それにともない、誇示も有閑階級に特有のものではなくなっていく。つまり消費社会のもとで、誰もが多かれ少なかれ誇示する資格を得るようになり、いわば「誇示の民主化」とも言うべき現象が起こるのだ。」

「現代社会もまた、概ねこうした大衆化の延長上にある。ただしいうまでもなく、誇示の主要な舞台はインターネットに移っている。とりわけSNSの爆発的な普及誇示をめぐる風景を大きく一変させている。」

「以前であれば。私たちのアイデンティティは社会階層に大きく規定されており、あえて問われることはなかった。しかし平等な尊厳の時代には、承認は自明のものではなくなり、自分の独自性がいっそう深刻な問題となるというわけだ。こうした状況の変化が「承認をめぐる政治」の背景となっている。」

「同じことが現代の誇示の氾濫についても言えるだろう。誇示者もまた、人々が等しく誇示するなかで、他人とは異なる真正さや独自性を求めてもがいている。しかし問題は、その欲望には決して新の満足が訪れないことである。「誇示の民主化」は万人が多かれ少なかれ誇示的に振る舞うことを可能にしたが、まさにそのことによって誇示そのものの条件が壊れてしまった。自慢が称賛や嫉妬を必要とするとすれば、誇示の民主化のもとでその効用は著しく下がるだろう。まるで漂流する宇宙船から独りむなしくシグナルを送り続けるように、いまや時宜をまるで得ない、宛先不明の誇示だけが繰り返されてる。これがわれらの誇示者の成れの果てなのである。」

(「6 おわりに」より)

「誇示や自慢はみっともないものだ。だからこそ、歴史上の事例が示すように、誇示には様々な作法が付き物であった。しかし現代では、そうしたなにやら深遠な技法はすっかり顧みられなくなっている。」

「誇示が問題になるのは、それが資本主義の論理と強い親和性を持っているからである。奢侈から資本主義の発展を説いたヴェルナー・ゾンバルトを持ち出すまでもなく、誇示が絶え間ない差異化のゲームであるかぎり、その欲望をかりそめにも満たしてくれるのは資本主義をおいおてほかにない。そして資本のほうも間違いなく人々の誇示する欲望を利用している。したがって現代左派のコンセンサスになっているポスト資本主義の展望は、いずれ何らかの仕方で誇示者とその欲望を相手取ることになるように思う。

 こうした誇示のゲームを抜け出す方途があるだろうか。もしかするとそれは、「ぼくはチビでデブだけと、それが自慢なんだ」(くまのプーさん)といった、常識を顛覆する「誇示のパレーシア」のようなものではないだろうか。他人との比較の彼方で、自らの特異性をありのままに肯定する、そうした純粋な誇示だけが資本の押し付けるゲームから束の間の離脱を可能にしてくれるかもしれない————たとえそれもまた新しい差別化の論理に巻き取られてしまうにしても。」

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