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大谷弘『道徳的に考えるとはどういうことか』

☆mediopos3331  2023.12.31

一般的にいわれるような道徳や倫理が
どうにも好きになれないのは
それらの多くは「そういうものだ」や
「当たり前」「そうするべきだ」というように
自分たちの外部にある絶対的な規準を
個別の現実に当てはめようとするもの
つまり「価値観の押しつけ」となりがちだからだ

そうしたことが道徳や倫理であるならば
それらが定義された数式のようなものに
わたしたちの行動をインプットするような
機械的な営みとなってしまう

大谷弘『道徳的に考えるとはどういうことか』は
「道徳的観点と非道徳的観点を厳密に区別するような仕方で
「道徳的」という語の定義を述べるのは困難であるし、
そもそもそのような定義が存在するかどうかも疑わしい。」とし

道徳的思考を「価値観の押しつけや規則の適用といった
シンプルな活動ではなく、多様な要素を含む、
もっとごちゃごちゃした活動」
「理性、感情、想像力といった
自己の能力を総動員する活動」としてとらえている

「道徳的思考とは他者の苦しみや観点を理解しようと努め、
不正に憤るとともに、想像力を用いた考察により
自他の物の見方を問い直していく活動」だというのである

そのためには
「道徳的思考の本質を取り出し理論的に解説する」
ことを目指すのではなく
「道徳的思考が現れている現場をよく見ることで、
その様々な側面を提示」する必要がある

そこで重要なのが
「想像力を働かせる」ことである

ここでいう「想像力」とは
いうまでもなく空想する力ではなく
「様々な個別の事実を一つの意味ある全体へ
とまとめ上げる能力」を意味する

「道徳的思考」を働かせるためには
そのように想像力や感情を働かせる必要がある

そして「道徳的思考」を象徴しているともいえる
「いかに生きるべきか」を表現するためには
「論文調」での表現には限界があり
文学や対話などさまざまなスタイルを用いる必要がある

しかしあらためて「道徳的観点」が
わたしたちの内的な規範として
あるいはわたしたちを取り巻く社会における規範として
どのように働いているかを見渡してみると
それらが内的にも外的にも
ずいぶん激しく損なわれていることが明らかである
惨状を呈しているとさえいえる

昨今のコロナ禍に伴うワクチン接種の問題にしても
政治家や医者・科学者たちそしてメディアなどの多くには
強制的な「価値観の押しつけ」による
「道徳的観点」の決定的な欠如があらわれている
戦争をめぐっても同様である

そこで働いているだろう「想像力」について
あれこれ思いをめぐらせてもみるのだが
そこにあるのは「道徳的思考」と対極にあるのは確かだろう

その意味でも「道徳的思考」を阻害するのが
「自我」のきわめてネガティブな側面である

「自我」の陥穽というのが
私たち人類にとっての鬼門ともなっているようだ

「道徳的に考える」とは
私がそして私たちが
「いかに生きるべきか」について想像力を働かせ
「自我」の可能性の開示に挑戦するということでもある

■大谷弘『道徳的に考えるとはどういうことか』
 (筑摩書房 ちくま新書 2023/10)

(「はじめに」より)

「道徳的観点とはどのような観点だろうか。これを厳密に定義するのは難しい。道徳的観点と非道徳的観点を厳密に区別するような仕方で「道徳的」という語の定義を述べるのは困難であるし、そもそもそのような定義が存在するかどうかも疑わしい。しかし、厳密な定義を述べることができなくとも「道徳的観点」という用語を使うことはできる。」

「一つには道徳的観点とは、「善悪」「正義」「平等」、あるいは「残酷さ」や「勇敢さ」といった概念を用いる観点である。
(・・・)
 しかし、道徳的観点はこれらの典型的に道徳的、倫理的意味合いを帯びた概念のみによって構成されているわけではない。我々はより日常的な概念を使用しつつ、道徳的観点に立つこともある。
(・・・)
 私が「道徳的観点」ということで何を考えているか(・・・)。それは金銭的観点、美的観点、分別の観点などなどから区別され、人として、社会として、根本的に重要なことに関わる観点である。」

「私のアプローチはパチワーク的なものであり、道徳的思考の本質を取り出し理論的に解説することを目指すものではない。そうではなく。それは道徳的思考が現れている現場をよく見ることで、その様々な側面を提示していこうとするものである。」

「私が提示したいイメージは、道徳的思考を価値観の押しつけや規則の適用といったシンプルな活動ではなく、多様な要素を含む、もっとごちゃごちゃした活動として捉えるものである。すなわち、私のイメージでは、道徳的思考とは他者の苦しみや観点を理解しようと努め、不正に憤るとともに、想像力を用いた考察により自他の物の見方を問い直していく活動である。それは理性、感情、想像力といった自己の能力を総動員する活動なのだ。」

(「第1章 当たり前を問い直す――なぜ法律に従うべきなのか」より)

「ここで取りあげるのは、キング牧師による公民権運動である。(・・・)
 一九五〇年代のアメリカ、特に南部においては黒人(アフリカ系アメリカ人)への激しい差別が行われていた。州の法律などにより隔離政策が実施され、学校、レストラン、公園、あるいは「ランチ・カウンター」と呼ばれる百貨店などにある飲食店といった様々な場所で黒人は立ち入りを制限されていたのである。
 そんな中、一九五五年一二月アメリカ南部のアラバマ州モンゴメリーで黒人による抗議活動が発生する。直接のきっかけは、ローザ・パークス(一九一三−二〇〇五)という黒人女性がバスの中で白人に席を譲るようにという運転手の指示を拒否したために逮捕されたという事件である。
 この事件に抗議してモンゴメリーでは黒人たちによるバスのボイコット運動が発生する・バス利用者の多くを占める黒人がバスをボイコットすることでバス会社の経営に打撃を与え、差別的な隔離政策の見直しを迫ることを目指した運動であった。
 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア(一九二九−一九六八)、すなわちキング牧師は当時二六歳であったが、この運動のリーダーとなる。」

「キングによると、黒人たちの運動は法律違反だとしても、それは不正な法律を破ることで地域社会に正義をもたらそうとしている点で、法律への尊敬を示すものなのである。」

「我々は様々なことを「当たり前」としている。視覚の信頼性や道徳的善悪の区別などをいちいち意識せずに、我々はほとんど自動的に行動している。そしてそのことは必ずしも問題なわけではない。我々はあらゆる「当たり前」を放棄して生きていくことなどできない。
(・・・)
 しかし、それではうまくいかないこともある。当たり前に無批判に従ってては問題に対処できず、つまづいてしまうような状況に我々は出会うことがある。
 キングのケースはまさにそのような状況を提示するものである。

「道徳的想像力とは、大雑把に言うと、道徳的観点が働く脈絡を思い描く力である。例えば、キングの法律への尊敬に関するコメントを思い出してほしい。もしも何の脈絡もないところで「法律違反が法律への尊敬を表す行為だ」と言われたとしても、その発言は意味不明であろう。「法律を尊敬するとは、法律を守ることであり、その発言は端的に矛盾している」と思われるはずである。
 しかし、我々はキングの活動について知ることで、法律違反が法律への尊敬の念を示す行為でありうるような脈絡を思い描くことができるようになる。」

(「第2章 想像力を働かす――プラトンの『クリトン』を読む」より)

「死刑判決ののち、ソクラテスは獄中で刑の執行を待つ身となる。そのソクラテスに対し。古くからの友人であるクリトンという人物が脱獄の手配を整えたから逃げるようにと促すが、ソクラテスはこのクリトンの誘いを断り、自身が不当だと考える判決に従い、死刑となる七〇歳であった。」

「我々はソクラテスが断固としてアテナイを選び取っているということを理解する。そしてそれにより、そのような生の中では非常に厳格な同意————不当な死刑判決によってもキャンセルされない同意————が意味をなすということが理解されてくるのである。」

「国法が語るソクラテスについての個人的物語は、読者にソクラテスとアテナイとの間に特別な絆があるということを気づかせる。そして、その絆は究極的にはソクラテスが神によりアテナイに結びつけられた哲学者だという点に帰着する。すなわち、ソクラテスはアテナイで哲学することを自身の使命として受け止め、断固としてアテナイを選び取っており、そのことがソクラテスとアテナイの特別な絆となっているのである。
 この点に思い至ったとき、アテナイの国法や国家が、ソクラテスにとって親以上の尊敬に値するということも理解可能となってくる。(・・・)
 そして、ここでも想像力が決定的な役割を果たして居る。最初、我々は国法や国家が厳格な尊敬の対象————いちばん害悪を加えてはならない者たち————であることにまったく思い至らない。しかし、ソクラテスの個人的な物語を通して、そこに厳格な尊敬が意味をなす生が存在するのだということが理解されてくるのである。」

(「第3章 意味の秩序を現出させる―想像力と言語ゲーム」より)

「そもそも「想像力を働かせる」とは何をすることなのだろうか。」

「大雑把には、想像力とは様々な個別の事実を一つの意味ある全体へとまとめ上げる能力だ、と言うことができる。すなわち、目下の脈絡においては、想像力とは単なる空想する力、無秩序にイメージを連想する力ではなく、一つの意味の秩序を現出させる力なのである。」

「道徳的思考にあられる概念————例えば、「同意」や「尊敬」————は、なじみの概念だとしても、「当たり前」を問い直すことが求められるような熟慮の場面では、その意味内容を前提としてよいとは限らない。むしろ、そのような場面ではそれらの概念はしばしば不明瞭なものとして現れてくる。
 そこで必要となるのが、想像力を用いてそれらの概念が位置づく生活の形を思い描き、その意味内容を明確化することである。現実のものであれ、虚構上のものであれ、「同意」や「尊敬」といった概念が用いられる言語ゲーム、そしてその背景にある生活の形、人生の形を想像し、それらの概念が位置づけられる意味のネットワークを現出させることが、道徳的思考において求められるのである。」

(「第5章 感情を信頼する――道徳的思考と感情」より)

「道徳的思考に感情はどのように関わってくるのだろうか。」

「理性と感情は簡単に切り離せるものではなく、両者を完全に対立するものとする捉え方あは素朴すぎる。もちろん、ある種の感情は合理的探求の妨げとなる。(・・・)しかし、そのことはすべての感情が道徳的思考において排除されねばならないということをただちに意味するわけではないだろう。」

「感情は道徳的思考の重要な要素である。道徳的思考はときに理性、想像力、そして感情という我々の能力を総動員することを要求するのである。
(・・・)
 もしも道徳的思考が狭い意味での理性の使用、すなわち論証の整合性の吟味に帰着するのであれば、学術的な論文調のスタイルがその理想だということになりそうである。
(・・・)
 狭い意味での理性だけでなく。想像力や感情も道徳的思考に関わると考えるのであれば、学術的スタイルが理想だと前提にするわけにはいかない。というのも、想像力や感情を働かせるのによいスタイルは他にもありそうだからである。」

(「第6章 多様なスタイルで思考する――槇原敬之の倫理学」より)

「コーラ・ダイアモンドやマーサ・ヌスバウムといった哲学者たち(・・・)は、道徳的思考において学術的なスタイルを理想とすることに批判を向け、道徳的思考がより多様なスタイルで行われるべきだと考える。
 ここで過去の哲学者たちがどのようぶ道徳的思考を表現してきたかを考えてみると、そこには非常に多様なスタイルが見いだされる。ソポクレスやアリストパネスといった古代ギリシアの詩人たちは、悲劇や喜劇を通して「いかに生きるべきか」を追求した。ソクラテスは著作を書かず、もっぱら対話を行うことで「いかに生きるべきか」を考え続け、プラとはそのソクラテスが登場する「対話篇」という形式の著作を書いた。また、マルクス・アウレリウスやニーチェのようにアフォリズムという形式を用いた哲学者も存在する。
 もちろん、特に近代以降、多くの哲学者たちは論文調のスタイルを採用している。(・・・)
 ダイアモンドやヌスバウムはこのような「主流の」傾向に意を唱える。これらの哲学者たちによると、学術的なスタイルは、道徳的思考における感情や個別事例の重要性を正統に扱うことができず、倫理学は文学などのジャンルと共同で探求されることで初めてその目的を達成することができるとされる。すなわち、文学なdの多様なスタイルを道徳的思考、そして倫理学の重要な部分として認めることが必要だというのである。」

【目次】  
はじめに
第1章 当たり前を問い直す――なぜ法律に従うべきなのか
第2章 想像力を働かす――プラトンの『クリトン』を読む
第3章 意味の秩序を現出させる―想像力と言語ゲーム
第4章 動物たちの叫びに応答する―応用倫理学における想像力
第5章 感情を信頼する――道徳的思考と感情
第6章 多様なスタイルで思考する――槇原敬之の倫理学
おわりに/読書案内/あとがき/参考文献  

□大谷弘
1979年、京都府生まれ。東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究専攻博士課程満期退学。博士(文学)。武蔵野大学人間科学部准教授などを経て、東京女子大学現代教養学部准教授。専門は西洋哲学。

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