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石井ゆかり「星占い的思考㊾美しい悪夢」(群像)/アーノルド&エイミー・ミンデル『うしろ向きに馬に乗る』/ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』

☆mediopos3408  2024.3.17

石井ゆかりが
「星占い的思考㊾美しい悪夢」で引用している
タナハシ・コーツ
『世界と僕のあいだに』からの言葉

「悪をなすためには、
人間はまず初めにこう信じこまねばならない。
自分のしていることは良いことだとか、
そうは言わずとも、
自然界の法則と調和する思慮深い行動だ、と。
これこそ「ドリーム」の土台だ。」

タナハシ・コーツは
この「ドリーム」を破壊したいと考えている

おそらく多かれ少なかれ善かれ悪しかれ
すべてのひとは自分の「ドリーム」のなかにいる
そしてそのことに気づいてはいない

たとえそのことが「薄々わかって」いたとしても
「尚も夢の中に居続けることを選択している。」

それはジェノサイドを企てている者であれ
医療施策によって人口削減を推し進めている者であれ
逆にそれらの被害者であれ告発者であれ
悪には悪の「ドリーム」
善き人もまたそれに応じた「ドリーム」のなかにいる

この地球という惑星上で起こっていることは
人類がみずからにあえてさまざまな「制限」を課し
そのことによって学んでいくのだ・・・
という視点があることを聞いたことがあり
そんななかをじぶんが生きていることについて
複雑な思いはあるけれど

2024年3月には
「太陽、水星、金星、火星が次々に、
2012年頃から魚座にいる海王星とランデヴー」する

「海王星は魚座の支配星で「夢」の星」であり
「魚座も、夢の星座」である

そして「魚座海王星の上を次々に通過する星々は、
夢を刺激し、拡大し、強化し、
あるいは一時的に覚醒させる。」

「この時期だけはもしかすると、
夢を吹き飛ばされる瞬間に恵まれるかもしれない」

そして「夢から覚める不快感と、
醒めて見る世界の新鮮さ、複雑さに、
身震いさせられるかもしれない」というのだが

ぼくじしんがどんな「ドリーム」のなかにいるのか
いまはまだわからないでいる

その「ドリーム」が吹き飛ばされ
そこから覚めざるをえないのであれば
それなりの「不快感」を感じることになるのだろうが
「醒めて見る世界」とはどんな世界なのか
それは通りゃんせの「後ろの正面」のようなものだろうか
そんなことを想像してみたりもする

その覚醒ということで思い出されるのは
ミンデルのいう「エッジ」である

エッジとは、知覚に対するフィルター、障壁」で
「それを越えたらもう自分ではなくなる、
それ以上は自分には不可能だと思う限界を示して」いて
それを越えることができれば
現在じぶんが同一化している状態やあり方を越えて
新たなアイデンティティへと向かう契機となる
というのだが
これも「ドリーム」から覚めるということでもあるだろう

その覚醒はおそらく一度ではなく
何度も何度もくり返し
夢から覚めその夢から覚めその夢から覚め・・・
と続いていくことになるのだろうが

ケン・ウィルバーの示唆している
「インテグラル・スピリチュアリティ」の視点は
そうした「発達」とでもいえるプロセスを
とりあえず概観しておくためには有効かもしれない

「ドリーム」は私の内と外の「ドリーム」であり
私たちの内と外の「ドリーム」であり
世界の内と外の「ドリーム」でもある

それはともかくとして
とりあえずこの3月の「覚醒」が
どんな姿をとってあらわれてくるのか
「こわいながらも通りゃんせ通りゃんせ」である

■石井ゆかり「星占い的思考㊾美しい悪夢」(群像 2024年4月号)
■アーノルド&エイミー・ミンデル(藤見幸雄+青木聡訳)
 『うしろ向きに馬に乗る/〈プロセスワーク〉の理論と実践』(春秋社 1999/8)
■ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』(春秋社 2008/2)

*(石井ゆかり「星占い的思考㊾美しい悪夢」より)

「  〝アレクサンドル・ソルジェニーツィンはこう記す。「そんな人間など存在するはずがないと、そんな人間はひとりもいないとわれわれは言いたがる。・・・・・・悪をなすためには、人間はまず初めにこう信じこまねばならない。自分のしていることは良いことだとか、そうは言わずとも、自然界の法則と調和する思慮深い行動だ、と」。これこそ「ドリーム」の土台だ。〟(タナハシ・コーツ著 池田年穂訳『世界と僕のあいだに』慶應義塾大学出版会)

 ここで言う「ドリーム」とは何か。それは「きれいな芝生のある完璧な家だ。それは、戦没将兵記念日にバーベキューパーティーをすること、町内の集い、それに車寄せまでの道だ」。ツリーハウスやカブスカウト、「ドリーム」はペパーミントの匂いで、イチゴのショートケーキの味がする。その「ドリーム」は「僕たち」、つまりアメリカという国で「黒人」とされた人々の背中に載っている。しかし「ドリーム」の中にレイシストはいない。だれもが「私は差別主義者ではない」と自称する。「僕たち」が学校でヘマをすれば停学処分となり、ストリートに追いやられる。学校にいる教育者達の「善良な意図」は「ドリーム」を必ず見られるようにする睡眠薬だ。ストリートで「肉体を破壊」された黒人の若者に対し、「社会は「彼は学校に残っていればよかったのにね」と言ってそいつと手を切る」。それが「善良な意図」で、「ドリーム」だ。本書を読みながらずっと、頭の裏の方にChildish Gambino「This is America」のMVが流れていた。」

「「ピルグリムや革命家たちは抑圧を逃れ、自由になれる世界を夢みた。彼らは空想から夢を取り出し、理論を現実へと変えるため、僕らをこき使い、彼らが逃げ出してきたはずの抑圧という名の棍棒を手に取った」(タナハシ・コーツ著 池田年穂訳『僕の大統領は黒人だった(下)』慶應義塾大学出版会)。これはアメリカの物語であるが、今はパレスチナで、似たような光景を私たちは目にしている。冒頭引用部の通り、誰もが自分を道徳的であるか、あるいは自然の法則に調和している(つまり、自分がこのように行動するのはやむを得ないし、自分と同じ立場に立たされれば、誰だってこうするしかない)と信じたい。だから最初に描いた純粋な自由の「夢」はいつの間にか、不都合な現実を覆い隠すための「夢」に変わる。文学にはその美しくも醜悪な「夢」に、覚醒の光を当てる力がある。「僕は長く長く続く夢の破壊者の伝統に名を連ねたかったのだ」。「黒人」の側にも夢は存在する。たとえば、かつてアフリカで偉大な文明を築いた「黒人という人種」というドリーム。コーツはこの夢も破壊の対象とした。「自分を善だと、自然だと、偉大だと信じたい」という情熱の土壌に繁茂する巨大なジャングルが、彼の破壊したい「ドリーム」なのだろう。」

「2024年3月、多くの星が魚座に集う。太陽、水星、金星、火星が次々に、2012年頃から魚座にいる海王星とランデヴーする。海王星は魚座の支配星で「夢」の星である。魚座も、夢の星座である。魚座海王星の上を次々に通過する星々は、夢を刺激し、拡大し、強化し、あるいは一時的に覚醒させる。タナハシ・コーツの描いた「ドリーム」を見ている人々は、自分が夢を生きているとわかっていない。あるいは、薄々わかっていながら、尚も夢の中に居続けることを選択している。私も多分、夢から覚めていない。海王星の霧の中にいるとき、私たちは自分が何をしているのかわからない。しかしこの時期だけはもしかすると、夢を吹き飛ばされる瞬間に恵まれるかもしれない。夢から覚める不快感と、醒めて見る世界の新鮮さ、複雑さに、身震いさせられるかもしれない。」

*(アーノルド&エイミー・ミンデル『うしろ向きに馬に乗る』〜「第2章 夢と身体プロセス」より)

「基本的な考え方は、イメージ————これは誰にとっても主要なチャンネルですが————だけにとらわれないようにすることです。なぜなら、いのちのエネルギーは、イメージだけでなく動作をも創り出しているからです。イメージだけに焦点を合わせるなら、いのちのエネルギーの全体性を無視し、イメージだけで自分を理解するといったまずい状態に自分を追い込んでしまうことになりかねません。
 同様に私は、タイプ論というものは、人間の一側面を表すに過ぎないと考えています。人は自分自身のことを女性、男性、アフリカ人、アジア人、ヨーロッパ人などのタイプに限定するのが好きなようです。そうした限定は、ある意味では大切なことだと想いますが、しかしプロセス・ワーカーは、クライアントがある瞬間に言っていることだけにその人を同一化したりはしません。
 これは政治的な信条のようなものかもしれません。私がみなさんに注意を向けるとき、単にアメリカ人、アフリカ人、黒人、東洋人、あるいは男性や女性などといったタイプでとらえることはありません。みなさんが体験を通じて変化していく様子、そしてそのことをどう自覚していくのかという点に注目しています。つまり、アイデンティティの背後にあるみなさんの体験の流れや、それに対する自覚に焦点を当てていくのです。これが民主主義に対するプロセス指向的な態度です。私はこれを深層民主主義(ディープ・デモクラシー)と呼んでいます。私は、私たちの間のアイデンティティの違いと同様に、私たちの間のプロセスにも焦点を当てるようにしているのです。」

「エッジについてお話したいと思います。エッジとは、知覚に対するフィルター、障壁です。それを越えたらもう自分ではなくなる、それ以上は自分には不可能だと思う限界を示しています。また、それは、ある瞬間における特定のチャンネル内での能力を示しています。」

「私たちはかごの下に隠れる状態を表すために、「一次プロセス」という用語を必要としています。一次プロセスとは、あなたが同一化している状態やあり方のことを指します。そして「二次プロセス」とは、新しいアイデンティティと関連する、向こう側の行動を指します。
 あなたの身体症状はすべて、アイデンティティ間(訳注:一次プロセスと二次プロセスの間)の拮抗状態の場で生じます。それはエッジにまつわる現象の一部なのです。ところで、もしあなたが身体症状を創り出したいと思うならば、エッジに近づき、それを越えないようにすることです。
(・・・)
 エッジを越える方法はたくさんあります。もしエッジを橋のようなものとして考えるなら、その橋を渡ることを想像したり、夢見たりすることです。しかし夢見るだけでは必ずしもうまくいくとはかぎりません。というのも、夢というのは一種の変性意識状態での現象だからです。(・・・)
 エッジを越える別のやり方は、新しいアイデンティティとあなたとの関係を阻む人物を想像し、エッジに潜むその人物と向き合うことです。この人物は、私たちが時分自身を抑圧してきたやり方や、私たちがこれまで生きてきた哲学を象徴しています。この人物は「人にいい顔をしなだい」「冷たくしてはいけません」「感情的になりすぎてはいけません」「自分のかわりに隣人を愛しなさい」「大人らしく振る舞いなさい。子供は幼稚です」、それからあなたも知っているように、「かごの下に隠れるのが良いことで、目立つのは悪いことだ」などと言うわけです。」

*(ケン・ウィルバー『インテグラル・スピリチュアリティ』〜「序章 統合的アプローチ」より)

「意識のステートに関して興味深いことは、それが起こっては消えてゆくことである。至高体験や変成〔意識〕状態でも、いかにそれが深い体験であれ、起こり、しばしとどまり、そして消えてゆく。どのような素晴らしい意識状態でも、一時的なものである。
 意識の状態が位置的なものであるのに対して。意識の段階(ステージ)は永続的なものである。段階は、成長と発達の実際の一里塚を表している。いったん。ある段階に到達すると、それは永続的な獲得となる。たとえば、ある子供がいったん言語の発達段階に至れば、以後、彼は言語へずっとアクセス可能になる。言語は、一分間だけ現れて、そして消えていくものではない。同じことが、他の成長の形態にも言える。より広い意識、より包括的な愛、より高い倫理的な要求、より大なる知性や気づきなどは、いったん、しっかりとその成長と発達の段階に到達すれば、ほとんどいつでも、望むときにアクセスできるのである。」

「あなたはいかなる事象も「私」という視点(すなわち、その事象について、個人的にどう感じ、どう見るか)から見ることができ、あるいは「私たち」という視点(その事象を、私だけでなく他の人たちがどう見るか)から見ることもできる。あるいは「それ」(その事象の客観的事実)として見ることもできる。
 この3つの次元、すなわち「私」「私たち」「それ」あるいは「自己」「文化」「自然」というすべてを考慮に入れることが、統合的な道である。そして、それによってより包括的で効果的なアプローチをとることができるのである。」

「4つの象限はすべて、成長、発達、進化を示している。すなわち4象限は。いずれも何らかの発達の段階やレベルを示している。それは、直線的な硬いはしご段ではなく、発達の展開の流れるような波である。これは自然界では、どこでも見られることであるが、ちょうどどんぐりが樫の木になるように、またシベリア虎が受精卵から大きくなるように、きちんとした成長と発達の段階を踏んでいるのである。人間についても同様で、私たちは、いくつかの段階が人間に適用されるのを見てきた。たとえば左上の「私」の象限では、自己中心的、自民族・集団中心的、世界中心的という発達段階、あるいは体、心、霊という発達段階を踏む。右上の象限では、感覚されるエネルギーは、現象学的には、粗大(グロス)、微細(サトリ)、元因(コーザル)という段階を踏む。左下の象限では、「私たち」は、自己中心的(私)、自民族・集団中心的(私たち)、世界中心的(私たちすべて)に拡大する。この集団的意識の拡大によって、右下の象限である社会システムは、単純な集団から、国家や、ついにはグローバル・システムのようなより複雑なシステムへと拡大する。」

◎Childish Gambino - This Is America (Official Video)

*以下、Wikipediaより引用
「ディス・イズ・アメリカ」(This Is America) は、アメリカ合衆国のラッパーのチャイルディッシュ・ガンビーノの楽曲。ガンビーノとルドウィグ・ゴランソンのプロデュースにより2018年5月5日にリリースされ、同日ガンビーノは『サタデー・ナイト・ライブ』のホストも務めた。バックグラウンド・ヴォーカルにアメリカのラッパーのヤング・サグ、スリム・ジミー、ブロックボーイJB、21サヴェージ、クエイヴォを迎えている。楽曲の内容はアメリカでの銃暴力の問題、アメリカでの銃乱射事件の頻発、さらにはアフリカ系アメリカ人に対する人種差別を扱っている。
本作のミュージックビデオは、ガンビーノの作品を過去にも手掛けたことのある日系アメリカ人のヒロ・ムライが監督した。」

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