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岡崎乾二郎「詩という認識」(『感覚のエデン』)/『藤富保男詩集』/正岡子規『歌よみに与ふる書』

☆mediopos3513  2024.6.30

岡崎乾二郎『感覚のエデン』より
「詩という認識」について

岡崎乾二郎は「詩とは認識である。
あるいは認識の方法である、
という強い思い入れが(私には)ある」という

「唯一詩においてのみ
(三段論法を超える)本当の弁証法(・・・)が確保され」る

「詩とは発見であり、新しい概念の創出」であって
「特殊かつ普遍の出来事の把握である」
「ここで、はじめて特殊は普遍へ成長する」
というのである

従って「詩の言葉は、決して私的な弁明ではな」く
「人間の個性に還元されてはならない」

面白いことに岡崎乾二郎は
「わが正岡子規(・・・)こそ、こういう認識を持っ
た詩人(と呼ぼう)だったのではないか?」といい
「「写生」とは無知の知のための方法だ」としている

「六たび歌よみに与ふる書」にはこうある

「生の写実と申すは、合理非合理事実非事実の謂にては無之候。
油画師は必ず写生に依り候へども、
それで神や妖怪やあられもなき事を面白く画き申候。
しかし神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、
ただありのままを写生すると、
一部一部の写生を集めるとの相違に有之、
生の写実も同様の事に候。」

正岡子規は「再び歌よみに与ふる書」のなかで
「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集にこれあり候」
と過激な言葉を連ねていたりするが

正岡子規にとっての古今集が
岡崎乾二郎にとっては文学(小説)にあたるようだ(笑)
「これはきっと文学音痴が抱く、
一つの理想にすぎないのだろう」といいながらも
まるで正岡子規が古今集を貶すように小説を貶す

「詩と比べると文学(小説)の核心は、
認識の曇り、よどみ、ピンボケ、
つまり(個々の身体、精神の)遅延(時間稼ぎ)である」と

「言葉の怠惰(文学という怠惰な身体)を超えるためには、
まずその(言葉として)余剰な体積(身体)を鍛え、
それを捨象(アブストラクト)しなければならない」
というのである

そして「「正確な曖昧さ」にタックルする
飄爽とした凜々しさによって、
藤富保男さんこそを日本語圏に生息する詩人として、
一番に推しておきたい」としている

藤富保男が発する言葉は
(真理の言葉ではなく)
「言葉の真理」だという

「言葉のもつ力の真理こそを、言葉の形振り、
その屹然たる立ち居振る舞いで示す」というのである

「詩とは認識の方法である」という観点からすれば
詩は「言葉の真理」によって
「可能な何ものかを思う精神の自由=心を確保する理」
を生み出す(ポイエーシス)「論理生成術」であるといえる

詩とは何か
という問いに対する答えは人それぞれだろうが
「言葉の真理」による認識の方法として位置づけることで
開けてくる視点はたしかにある

■岡崎乾二郎「詩という認識」
      「(言葉の真理あるいは)言葉の心と理
       ————藤富保男『詩の窓』に寄せて」
 (岡崎乾二郎『感覚のエデン (岡崎乾二郎批評選集 vol.1) 』亜紀書房 2021/9)
■『藤富保男詩集』(現代詩文庫57 思潮社 1973/11)
■正岡子規『歌よみに与ふる書』(ちくま日本文学全集『正岡子規』1992/8)

**(岡崎乾二郎「詩という認識」より)

*「詩とは認識である。あるいは認識の方法である、という強い思い入れが(私には)ある。

 アリストテレスの詩学にならえば、詩とは歴史を越える論理性を持ち(歴史家が語るのは、すでに起こった個別な出来事だが、詩が扱うのは必然として起こりうる可能な出来事、普遍である)、さらに詩は通常の論理学を超える認識をもたらす。すなわち唯一、詩が構成する論理においてのみ、通常の論理は超克されうる。アリストテレスは、プラトン=ソクラテスが、〝無知の知〟と呼んだ方法を(彼らが嫌った)詩(正確にはその中でも悲劇)にこそ見出した。詩が含む論理の特別は、そこで詩が語っている(と理解される)論理が、実際に進行している論理と必ずズレている、ということにある。」

「唯一詩においてのみ(三段論法を超える)本当の弁証法(プラトン=ソクラテスが対話によって、はじめて確保されると考えたディアレクティーク)が確保される。なるほど詩とは発見であり、新しい概念の創出である。つまりは特殊かつ普遍の出来事の把握である。ここで、はじめて特殊は普遍へ成長する。」

*「詩の言葉は、決して私的な弁明ではない。アリストテレスが言ったように詩がつかまえる出来事は、決してそれに関わる人間の個性に還元されてはならない。あるいはケネス・バーグ(・・・)が言ったように、そこにあるのは一種の行為比率(場面と行為の函数)であって、個々の主体の性格とはその比率に代入されて、はじめて現れる。だから詩は、いわゆる文学よりも科学や数学の命題にこそ近い、あるいはそれ以上に圧縮された言い換えのきかない命題であずはずだ。いったい詩は「私」とか「俺」とかが出てくる散文(あるいは小説)とは、断固として異なってくれなくては困る。「私」という視点は、結局のところ線的な延長としての時間や空間に記述を、そして出来事を還元してしまう。しかし詩とは、こんな時間や空間を平然と飛び越え、伸縮自在に折り畳み、あげくはポイと破棄してしまう力を持つ者のはずだった。詩は時間や空間を批判する。対して、文学(小説)は時間の無駄、空間の無駄を推奨し、助長する。時間や空間を消費し、欲求させる装置として資本主義経済こそを支えている。

 よって詩は難解であるが、恐ろしく認識が圧縮され、そして具体的に世界に関わるための定式こそがそこに示されている。だから詩の楽しみは読者を、(小説に代表される)むしろ文学(を読むこと)から遠ざける。詩と比べると文学(小説)の核心は、認識の曇り、よどみ、ピンボケ、つまり(個々の身体、精神の)遅延(時間稼ぎ)である(と言いたくなる)。つまり時間と空間の不当な占拠。だから(私は)詩人が小説を書くのは理解できない(経済活動としては理解できる)。「私」や「僕」や「俺」が出てくる詩はもっと理解できないけれど)エコノミーのコスト計算には、主体、「私」という単位が必要なのである)。とはいえ、これはきっと文学音痴が抱く、一つの理想にすぎないのだろう。いやキボウである。

 けれど、わが正岡子規(ノボル=野球)こそ、こういう認識を持った詩人(と呼ぼう)だったのではないか? 俳句とは三段論法を超える別の論理学である。俳句のディアレクティーク(論理の運動性)は、まさに名詞(概念)への疑い(・・・)によってもたらされる。「写生」とは無知の知のための方法だ。『歌よみに与ふる書』でその奥義を(私は)学んだ。」

*「詩は認識である(個々の私には還元できないもの)と自覚しているのであれば、稲垣足穂さんだって谷川俊太郎さんだって藤井貞和さんだってそうではないかと誰かは言うかもしれない。然り。しかし、詩という正しい認識はしばしば不透明で咀嚼しにくいものである(・・・)はずだから、その「正確な曖昧さ」にタックルする飄爽とした凜々しさによって、藤富保男さんこそを日本語圏に生息する詩人として、一番に推しておきたい。

  話をしないでもいいように/雪のサッカー場で/誰もいないので叫ばないで/自分を放し/はてなと/一声絶妙に笑って/自分を話した女性が/言葉に転がった/朝のあざやかな/足のあげ方(藤富保男「ぼくの基礎」/『藤富保男詩集全集』沖積舎〔2008〕)

 言葉の怠惰(文学という怠惰な身体)を超えるためには、まずその(言葉として)余剰な体積(身体)を鍛え、それを捨象(アブストラクト)しなければならない。」

**(岡崎乾二郎「詩という認識」〜「著者インタビューより」より)

*「アリストテレスにとって詩は、出来事を可能にする原理でした・言い換えれば、事物としての言語を一義的な意味に還元してしまう論理を裏切ることが、詩の言語の可能性でしや。それが出来事を可能にする。つまり論理の予定調和を突破するためには。あえて論理が失敗すること、その機構を組み込んだ詩の言語が必要だと考えた。それができていれば、いわば詩の言語は言語としてプライムオブジェクトたりえているわけです。アリストテレスの詩学をもっとも劇的かつ、ウィットをてんこ盛りにしつつ、さらりと生産していた詩人が、僕にとっては藤富保男でした。藤富さんを通して、詩の言語について考えてきたのです。」

**(岡崎乾二郎「言葉の心と理(ことわり)」より)

*「真理の言葉というものがあるらしい。」

「藤富保男さんの書かれるものはいつでも真理であるので、それについて書くことは余分な事柄=サッカーファンが、サッカー鑑賞しながらブツブツつぶやくのと変わらない恐れもある。(・・・)

 とはいえ正確を期して付け加えるならば、藤富さんが発するのは真理の言葉ではなく、「言葉の真理」である。これは重要なる違いであって、その真理の代えがたさ、恐ろしさでは数段も上であって。

 世の中に真実があるならば、誤謬もあるだろう。つまり真実の言葉もあれば誤謬の言葉もある。が「言葉の真理」とは、なぜ真実の言葉があれば誤謬の言葉もあるのか、この区分を同じ言葉が発生させ、それを人が同じく言葉によって識別し、さらに言葉によって乗り越えるという言葉の真実、いわば言葉のもつ力の真理こそを、言葉の形振り、その屹然たる立ち居振る舞いで示す。こうして、ひとたび「言葉の真理」が示されてしまえば、われわれは誤謬の言葉を発見して、つべこべあげつらうことの空虚、非生産なることを知り、誤謬の言葉が誤謬として立ち現れるところの、その「過程」のメカニズム=「言葉の真理」こそを厳粛、深刻に受け止めなければいけないと気づかされるのである。

 いずれにせよ(と水に薄めて書いてしまっているようなのだけど)ただ真実であるだけの言葉など一度使われたら捨てられてしまうのがオチである。が、問題は言葉とは捨てられても捨てられても、別の生まれ育ちである如く、何度でも這い上がり蘇生してくる、このことこそが「言葉の真理」だ。こんな言葉の輪廻転生能力を、アリストテレスであれば「現実ではありえないが、可能であるもの」つまりは、デュナミス(可能態)と呼ぶであろう。現実的には誤謬でありつつ、潜在的にはきっと真実たりうる。」

*「詩は(造形も建築も)、このおおいなる過程の、論理生成術として、つまり(ここにはないが、きっとありうる)可能な何ものかを思う精神の自由=心を確保する理そのものであった。(・・・)」

**(正岡子規『歌よみに与ふる書』〜
   「六たび歌よみに与ふる書」(明治三十一年二月二十四日)より)

*「全く客観的に詠みし歌なりとも感情を本としたるは言を竢(また)ず。例へば橋の袂(たもと)に柳が一本風に吹かれてゐるといふことを、そのまま歌にせんにはその歌は客観的なれども、元(もと)この歌を作るといふはこの客観的景色を美なりと思ひし結果なれば、感情に本づく事は勿論もちろんにて、ただうつくしいとか、綺麗きれいとか、うれしいとか、楽しいとかいふ語を著(つ)くると著けぬとの相違に候。また主観的と申す内にも感情と理窟との区別有之、生が排斥するは主観中の理窟の部分にして、感情の部分には無之候。感情的主観の歌は客観の歌と比して、この主客両観の相違の点より優劣をいふべきにあらず、されば生は客観に重きを置く者にても無之候。但(ただし)和歌俳句の如き短き者には主観的佳句よりも客観的佳句多しと信じをり候へば、客観に重きを置くといふも此処ここの事を意味すると見れば差支さしつかえ無之候。また主観客観の区別、感情理窟の限界は実際判然したる者に非ずとの御論は御尤(ごもっとも)に候。それ故に善悪可否巧拙と評するも固もとより画然たる区別あるに非ず、巧の極端と拙の極端とは毫ごうも紛まぎるる所あらねど、巧と拙との中間にある者は巧とも拙とも申し兼かね候。感情と理窟の中間にある者はこの場合に当り申候。」

「同じ用語同じ花月にてもそれに対する吾人(ごじん)の観念と古人のと相違する事珍しからざる事にて」云々、それは勿論の事なれど、そんな事は生の論ずることと毫も関係無之候。今は古人の心を忖度するの必要無之、ただ此処にては、古今東西に通ずる文学の標準(自らかく信じをる標準なり)を以て文学を論評する者に有之候。昔は風帆船(ふうはんせん)が早かつた時代もありしかど、蒸気船を知りてをる眼より見れば、風帆船は遅しと申すが至当の理に有之、貫之は貫之時代の歌の上手とするも、前後の歌よみを比較して貫之より上手の者外に沢山有之と思はば、貫之を下手と評することまた至当に候。歴史的に貫之を褒ほめるならば生もあながち反対にては無之候へども、只今の論は歴史的にその人物を評するにあらず、文学的にその歌を評するが目的に有之候。」

「従来の和歌を以て日本文学の基礎とし、城壁と為なさんとするは、弓矢剣槍を以て戦はんとすると同じ事にて、明治時代に行はるべき事にては無之候。今日軍艦を購あがなひ、大砲を購ひ、巨額の金を外国に出すも、畢竟ひっきょう日本国を固むるに外ならず、されば僅少の金額にて購ひ得べき外国の文学思想抔などは、続々輸入して日本文学の城壁を固めたく存候。生は和歌につきても旧思想を破壊して、新思想を注文するの考にて、随したがつて用語は雅語、俗語、漢語、洋語必要次第用うるつもりに候。委細後便。」

「追て、伊勢の神風、宇佐の神勅云々の語あれども、文学には合理非合理を論ずべき者にては無之、従つて非合理は文学に非ずと申したる事無之候。非合理の事にて文学的には面白き事不少すくなからず候。生の写実と申すは、合理非合理事実非事実の謂(いい)にては無之候。油画師は必ず写生に依り候へども、それで神や妖怪やあられもなき事を面白く画き申候。しかし神や妖怪を画くにも勿論写生に依るものにて、ただありのままを写生すると、一部一部の写生を集めるとの相違に有之、生の写実も同様の事に候。これらは大誤解に候。」

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