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唐木順三『無用者の系譜』/『荘子』〜内篇 人間世 第四「第九章 有用の用ではなく、無用の用を知らなければならない」/宮沢賢治「雨ニモマケズ」

☆mediopos3213  2023.9.4

「有用」である
ということから
いかに自由になるか

おそらくそれは
人間がもてあましている
「自我」にとって
欠かすことのできない
課題ではないかと思われる

荘子は「無用の用」を示唆するが
「無用」を通らない「有用」
「有用であるための有用」は
ともすればそこに
自我の影を強く刻印してしまう

「有用」でありたい
端的にいえば
「有用であると認められたい」
「自分を有用であると思いたい」
という自他への承認欲求が
そこに深く刻まれてしまうからである

有用でないほうがいいというのではない
有用であることはそれはそれで意味がある
結果的に有用であるというのは
まさに有用ゆえの役割があるからだ

ところで東洋とくに日本においては
かつては隠者への指向があり
それによって俗世間から離れたところで
みずからを位置づけようとした者が多くあった
それを唐木順三「無用者」と呼び
その「系譜」を辿ろうとした

その極北には禅者がいたが
「無用者」といっても
そのありようはさまざまであり
必ずしも自由な自我がそこで
発揮されていたとはかぎらないものの
ともあれそうした「無用者」が
日本の文化のある種の奥行きを
つくりだしてきたのは確かだろう

宮沢賢治といえば
現代では知らないひとは少ないだろうが
もちろん生前にはそうではなく
死に際しみずからの手帳には
「ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ」
そう記されていた

宮沢賢治は農業においても
人の役には立とうとしていたが
「偉い人」だと思われようとはせず
「デクノボートヨバレ」ようとしていた
これも「無用の用」の系譜のひとつだろう

現代においては
「有用」であることを望み
みずからのそれを声高に主張する
「承認欲求」を事とする者は多いだろうが
いまでも「無用者の系譜」を
辿ることはできるだろうか

「無用」の自覚なきまま
「有用」であろうとするとき
そこにはなにかしらの「陥穽」が待っている

「有用」は「消費」されやすく
「消費」された後で
社会的な価値観のベクトルから外れたとき
「自我」はみずからのその「有用」だったことに
執着しながら生きていかざるを得なくなる

■唐木順三『無用者の系譜』(筑摩叢書23 昭和29年4月)
■『荘子 全現代語訳(上)』(講談社学術文庫 2017/5)
■『宮沢賢治全集〈10〉』(筑摩書房 1995/5)

(唐木順三『無用者の系譜』〜「一 無用者の系譜/一 在原業平————身を用なき者に思ひなして」より)

(唐木順三『無用者の系譜』〜「あとがき」より)

「日本には昔から今にいたるまでなぜかくも無用者が多いのか。質において高い者が、なぜ意識して無用者となったのか。日本の高級な思想や文学が、なぜ世の無用者によってかたちづくられてきたのか。そしていまそれを私が問題にするのはなぜか。
 現実社会で勢力のあるものと、思想や文化に携わる者とは、不幸にして分かれてゐたといふこともある。俗世間と異なるところに文雅な世界を築かざるをえない事情が、日本の歴史の中にあったことも事実である。専制主義や強圧政治のもとでは高い思想や文学は、それと次元を異にするところでなければ育ちえなかつたといふこともある。総じていへば、日本の歴史や社会の条件が、殊に中世以降、多くの無用者を生んだことは否まれない。」

「人間の知識は日々に進歩し、科学や技術は無限に進歩してゐる、それによつて我々は現実のさまざまな困難や不幸を克服しうる、人間は自分の力で、現実の歴史や社会の中で、自由で幸福な生活を送りうるではないか、さいいふ論もあり、事実もある。然しそれだけではをさまらない。我々の生活空間が、月にまで伸びても、なほそれを狭しとして、無辺際に遊ばうとする本性が人間の内にある。

 雅と俗、虚と実、想と実、空と色、さういふ二元がでてきたのは、一方では歴史や社会の条件からであらう。歴史や社会の条件から生みだされたといふ発生時間を無視して、ひとたび、雅や虚や空にいたりついた者は、それを本質的に先なるものとして自覚する。世間無常、諸行無常において反つて常を自覚し、遁世、韜晦において反つて現実を自得し、旅こそ栖家といふ逆説を実行することが起こる。実が虚によつて、色が空に貫かれて、反つて本来の面目を発揮するといふことは単に議論の遊戯ではない。すぐれた詩人が事実によつて示してゐるところである。みづからの詩業を夏爐冬扇といつた無用詩人の業績を思ひだせばよい。虚や空や詩を、歴史の条件た科学の進歩でぬりつぶすことはできないのである。そして虚や空を反つて現実の根底とする伝統が、日本において実践的にうけつがれてきたのである。」

(『荘子 全現代語訳(上)』〜内篇 人間世 第四「第九章 有用の用ではなく、無用の用を知らなければならない」より)

「山の木は、役に立つために我と我が身に寇(あだ)を加え、灯火は、明るさの故に我と我が身を焼き焦がす。肉桂は食用になるので切り取られ、漆は塗料になるので切り裂かれる。人々はみな、世間的な有用がそのまま役に立つことだと考えるばかりで、世間的な無用こそが真に役立つことだと分かる者はいない。」

(『宮沢賢治全集〈10〉』〜「手帳より 十一月三日」より)

「ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ」

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