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ボリス・グロイス『ケアの哲学』

☆mediopos3227  2023.9.18

著者のボリス・グロイスによれば
わたしたちは「物理的身体」だけでなく
「象徴的身体」をもっている

「象徴的身体」とは
身分証明書や写真や画像などのような
データの集合としての自己である
とくに現代のようなビッグデータの時代には
その視点は欠かすことができない

ケアとセルフケアについて考える時
その視点は重要となる

現代における「ケア」は
国家制度による生政治として
わたしたちの「象徴的身体」を支配し
管理しようとするものともなる

現代は科学と医療が
かつての宗教の代わりともなっているように
「健康は救いに代わるもの」なのである

ひとは健康を害する恐れがあるとき
医療機関に依存することを疑わない
医療機関が扱うのは
「健康診断」に象徴されるような
「象徴的身体」であるわたしたちのデータである
そして医者はデータをその人とみなしている

医療機関は国家制度に組み込まれ
国家はひとをコントロールするために
「ケア」を行おうとし
ひとは健康に関することに関しては
医療に依存して生きようとする

ケアはセルフケアと対立する
ケアは受動的な依存であり
セルフケアは能動的な自律である

グロイスは「システムとしてのケアに抗い、
それを突き崩すセルフケアの可能性を示唆」している

グロイスは第一章「「1 ケアからセルフケアへ」で
ソクラテスのありようについて述べている

「ソフィストが宣伝した教えを疑ったのみならず、
聞き手たちにソフィストの言説は説得的であると思わせた
神話、詩、悲劇というギリシアの伝統をも疑った」

つまり当時与えられていた知識をまったく外して
「知識のない状態へ」戻ろうとしたのである

そうしたソクラテスの態度は
セルフケアに比することができる

昨今のコロナ騒動や
特典付きマイナーバーカードにしても
公に与えられた知識や
指示されたことなどを外したところから
「考える」ということ

そうすることで
「生政治」による「ケア」を拒む
「セルフケア」という態度が可能となる
つまり「他者によってコントロールされ、
物になることに抗う」ということである

それは言葉を換えていえば
「洗脳」の解除ということでもある

現代は国家もマスメディアも学校も医療も
ほとんどが「洗脳」機関となっている

それらが与える「ケア」に依存させることで
個人をコントロールしようとしているのである
それは往々にして
権力による強制さえ伴うものともなる

■ボリス・グロイス(河村彩訳)『ケアの哲学』(人文書院 2023/6)

(「はじめに――ケアとセルフケア」より)

「現代社会において最も普及した労働の形態はケアワークである。人間の生命を保障することはわれわれの文明によって究極の目的とみなされている。近代国家を生政治国家として記述したときフーコは正しかった。その主要な機能は国民の肉体的な福利の面倒をみることである。この意味において医療は教会に取って代わった。魂よりもむしろ身体が、制度化されたケアの特権的な対象なのである。「健康は救いに代わるものである」。内科医は司祭役とみなされる。なぜならば、司祭がわれわれよりもわれわれの魂をよく知っていると主張したように、内科医はわれわれよりもわれわれの身体をよく知っていると考えられるからだ。しかし人間の身体のケアは、医療という語のせまい意味を大きく超えている。国家制度はわれわれの身体そのものに関心を持つのみならず、住居、食物、そしてわれわれの身体を健康に保つことに関連する他の要因にも関心を持つ。

 宗教はこの世における魂の生だけでなく、魂が肉体を去った後の運命にも関心を持った。現代の世俗化されたケアの制度についても同様のことが言える。われわれの文化は、写真、記録、動画、手紙やEメールのコピーや、その他の人工物など、われわれの物質的な肉体の拡張を永遠に生み出している。そしてわれわれは、本や芸術作品、栄華、ウェブサイト、インスタグラムのアカウントを生み出すことで、このプロセスに参入する。これらのあらゆるものや記録は死後しばらくの間保存される。それは、われわれの魂にとっての精神的な死後の生の代わりに、ケアに関わる諸制度が、われわれの身体の物質的な死後の生を保障していることを意味する。われわれは墓地、博物館、図書館、歴史公文書館、公共の記念碑、歴史的に重要な場所のケアをする。われわれは文化的アイデンティティ、歴史的記憶、伝統的な都市空間や生活様式を保護する。どの個人もこの拡張されたケアのシステムに含まれている。われわれの拡張された身体は「象徴的身体」と呼ぶことができる。それは何らかの形で「非物質的」だからではなく、われわれの物理的身体をケアのシステムに登録することを可能にするがゆえに、象徴的なのである。同じように、教会は洗礼が施され洗礼名が授けられるまで、個人の魂のケアをすることはできなかった。

 たしかに、われわれの生きた身体の保護は象徴的身体によって媒介されている。それゆえ内科に行くときは、われわれはパスポートやその他の身分証を提示しなければならない。」

「ケアのシステムはわれわれを患者として対象化し、生きている死骸へと変え、自立した人間ではなく病んだ動物としてわれわれを扱うように思われる。しかしながら幸か不幸か、この印象は真実からは程遠い。事実、医療システムがわれわれを対象化するのではなく、むしろ主体化する。第一に、患者が不健康で病気で不具合を感じるために医療システムに訴えた時にのみ、それは個人の身体を気遣い始める。(・・・)患者は自分自身の身体の最初のケアテイカーである。ケアの医療システムは二番目のケアテイカーである。セルフケアが先立つのである。」

「われわれが「自己(セルフ)」と呼ぶのは、この物理的身体と象徴的身体の組み合わせである。「自己」のケアテイカーとして、主体は自己に対して外部の位置をとる。主体は中心的ではないが、中心から外れてもいない。ヘルムート・プレスナーが正しく述べているように、それは「脱中心的(エキセントリック)」であり、自己がセルフケアの主体であることを知っているのは、ちょうど私が自分の名前、自分の国籍、その他の個人的な詳細を学んだように、それを他者から学んだからである。しかしながら、セルフケアの主体になることはケアの実践について決定する権利を持つことを意味しない。患者として医者のあらゆる指導にしたがうこと、私が受けさせられるあらゆる苦痛を伴う処置に受動的に耐えることを私は要求される。この場合、セルフケアを実践することは、自分自身をケアの対象に変えることを意味する。」

「セルフケアの主体が、身体に関する医療、政治、行政の議論に積極的に参加することは、医療の知識を含むケアに関する知識を、無知の立場から判断する能力を前提とする。異なった科学の緒学派が、承認、影響力、名声、権力を求めて競っている。それらは全て知識の立場から個人をケアすることを要求する。個人である主体は、選択を行うのに必要な知識を持たずに、それらの中から選ばなければならない。それは主体に弱さと当惑を感じさせる。しかし同時にこの弱さは強さでもある。なぜならば、あらゆる種類の知識は、受け入れられ実践されさえすれば、強力になるからだ。哲学の伝統はこの弱さと強さのアンビバレンスを反映する伝統として理解しうる。様々な哲学の教えは、ケアとセルフケア、依存と自律のさまざまなタイプの関係性を示唆している。」

(「1 ケアからセルフケアへ――プラトン、ソクラテス」より)

「知識を持たない立場から知識を判断するという逆説的な状況は、プラトンの対話編において最初に記述されている。ソクラテスは、真実とは何か、正しい生き方とは何かという問いに対するさまざまな答えを提供するソフィストの言説に注目し、関心を持って耳を傾けた。こうしてソクラテス自身は、これらの言説の中から選択するというメタポジションにいることに気付いた。現在ならば、学び、充分な知識を身につけ、最初の知識のない状態を克服しようとすることがソクラテスに期待されるだろう。これは、知らない者に通常期待されるもの、つまり学ぶということである。しかしソクラテスはこれらの期待を裏切る。知識を蓄積する道を進む代わりに、彼がすでに持っている知識を拒絶して後ろに戻る。ソクラテスはソフィストが宣伝した教えを疑ったのみならず、聞き手たちにソフィストの言説は説得的であると思わせた神話、詩、悲劇というギリシアの伝統をも疑った。いいかえればソクラテス自身は、全体性という点においてギリシア文化のアイデンティティから距離を置き、それに対して脱中心的な立場をとったのである。哲学の運動は、前へと進む運動ではなく、教育と知識の道を進む進歩でもなく、元に戻る運動、知識のない状態への後退である。ソクラテスは学びもしなかったし、教えもしなかった。彼は知識を得ることを望まなかったし、知識を宣伝することも望まなかった。」

(「9 現存在であることとしてのケア――ハイデガー」より)

「ハイデガーの『存在と時間』において哲学の歴史の中ではじめてケアへの言及が中心を占めた。自己肯定として理解されるセルフケアと、近代の公的ケアの制度との矛盾が、ハイデガーの哲学的言説の中心であると論じることすらできる。ハイデガーは師であるエトムント・フッサールに倣い、人間を他の動物の中の動物、他の物の中の物として理解する「自然的態度」を拒否する。人間は本来、動物もしくは植物のような他の有機体と同じく、生命の必要と衝動によって突き動かされる生きた有機体ではない。ハイデガーは人間を、世界内存在である現存在として定義する。ここでは世界の存在していることは。現存在を、「客体」としての世界と対置される「主体」と考えることは不可能であることを意味している。世界は現存在と相互に関係し合い、両者を互いに分けることはできない。現存材は、自身のソンザウは死の危険にあり、その世界は消えうせることを知っている。したがって現存在は死への不安を持っている。現存在の存在とは、未来へと方向づけられた投企であり、われわれは永遠に未来に向けて何かを計画する。このように計画することは、われわれはこれからも存在し、われわれの存在を気にかけ(ケア)なければならないことを前提としている。われわれの世界との関係はケア(Sorge)という特徴、実際にはセルフケアという特徴がある。セルフケアは現存在の基本的な存在様態である。」

(河村彩「訳者解題――ケアと利他から人間を考える」より)

「本書の中で提示される極めてユニークな発想が象徴的身体という概念である。グロイスは、人間は死すべき生身の肉体とは別に、象徴的身体を持っていると考える。具体的に象徴的身体に含まれるものとは、身分証明書、医療カルテ、SNSやネット上のアカウント、本人が書いたテキスト、写真、動画などである。つまり本人についてのドキュメントと本人が作成したドキュメント全般が象徴的身体となる。そしてグロイスは、「自己」は物理的身体と嘲笑的身体の組み合わせであると見抜く。

 さらにグロイスは物理的身体と象徴的身体の関係を考察する。彼によれば、健康保険証や病歴を記したカルテに顕著に見られるように、物理的身体のケアは象徴的身体に媒介されて行われる。
(・・・)

 また象徴的身体は物理的身体の死後にも、墓碑、図書館、美術館、サーバーなどに保存され「ケア」される。つまり、象徴的身体は他者によっても書き換え可能であり、自己の一部として象徴的身体を持っている個人のアイデンティティは、他者たちが作り上げたものだとすらいうことができる。(・・・)SNSを見れば明らかなように、インターネット上ではわれわれは自分自身の容姿やライフスタイルに関してセルフプロデュースを行い、他者の目に晒される自分をコントロールする。グロイスはこのようなセルフデザインを自己防衛でるとし、一種のセルフケアとみなしている。」

「象徴的身体という概念とならんで本書の要点をなすのは、ケアとセルフケアの対立という発想である。本書におけるケアとは、生政治国家によって提供される医療や福祉のシステムのことである。一方グロイスの考えるセルフケアとは、自己に対する配慮全般のことである。」

「ケアのシステムによる国家による個人のコントロール、つまり生政治の権力に関しては、これまでフーコーやアガンベンが盛んに論じてきたが、おそらく読者は本書を読んで、グロイスがこれらの議論をほとんど取り上げていない点を不思議に思うのではないだろうか。
(・・・)
 この理由はおそらく、グロイスは従来の生政治国家批判を引き継ぐよりも、システムとしてのケアに抗い、それを突き崩すセルフケアの可能性を示唆することに主眼を置いているからだろう。グロイスの提示するセルフケアする人間とは、自分の身体についての知識を持たないまま健康に配慮し、過剰な生命力を持て余して創造性を発揮し、他者からの承認のために命を危険にさらすこともあり、他者の眼差しから自分を守るためにセルフイメージをコントロールし、いざ永遠の命が約束されれば退屈に耐えられず自殺すらしかねないものだ。人間とは、健康と生命を何よりも気にかけるにもかかわらず、自らそれを毀損してしまうような、矛盾に満ちた存在なのである。そのようなアナーキーな存在であるからこそ、生政治国家によるケアのコントロールから逃れる可能性を秘めている。新型コロナウイルスの流行発生から二年ほど経った時期に出版された本書は、国民が政府の政策に対してすっかり従順になり、例外状態が常態となった状況から突破する、人間の内なる可能性を示唆しているようにも思われる。

 このように本書がケアに対立するセルフケアの可能性という、従来の生政治批判とは異なった観点から論じる際に重要となるのは、ハイデガーの思想である。グロイスはハイデガーの現存在をケアする存在様態として捉える。客体である世界に対立する主体としての人間ではなく、世界内存在として捉えられた人間が現存在であるが、まさに世界の中に存在し、世界と相互に関係しているがゆえに、現存在が自分自身に対して配慮することは世界を気にかけることにもなる。医療ケアに代表される近代の技術は、人間を医療の対象である「生の素材」として扱うが、現存在は他者によってコントロールされ、物になることに抗う。いわばセルフケアする現存在は、そもそも公的なケアに抗う存在なのである。それゆえグロイスはハイデガーを、自己肯定として理解されるセルフケアと近代の公的ケアの制度との矛盾を初めて問題にした哲学者とみなす。」

○目次
はじめに――ケアとセルフケア
1 ケアからセルフケアへ――プラトン、ソクラテス
2 セルフケアからケアへ――ヘーゲル
3 大いなる健康――ニーチェ
4 ケアテイカーとしての賢人――コジェーヴ
5 至高の動物――バタイユ
6 汚染する聖なるもの――カイヨワ
7 ケアテイカーとしての人民――ドゥボール
8 誰が人民なのか?―― ワーグナー
9 現存在であることとしてのケア――ハイデガー
10 掃除婦の眼差しのもとで――フョードロフ
11 仕事と労働――アレント
12 革命のケア――ボグダーノフ

訳者解題――ケアと利他から人間を考える
人名索引

○ボリス・グロイス
Boris Groys/1947年、東ドイツ生まれ。美術批評家。現在、ニューヨーク大学特別教授。レニングラード大学に学んだ後、批評活動を開始。1981年に西ドイツへ亡命。ロシア、ヨーロッパ、米国をまたぐ旺盛な活動で知られる。著書に、『全体芸術様式スターリン』(亀山郁夫、古賀義顕訳、現代思潮新社、2000年)、『アート・パワー』(石田圭子ほか訳、現代企画室、2017年)、『流れの中で』(河村彩訳、人文書院、2021年)など。

○河村 彩(かわむら・あや)
1979年、東京都生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了(博士)。現在、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。専攻は、ロシア・ソヴィエト文化、近現代美術、表象文化論。著書に、『ロトチェンコとソヴィエト文化の建設』(水声社、2014年)、『ロシア構成主義 生活と造形の組織学』(共和国、2019年)、『革命の印刷術 ロシア構成主義、生産主義のグラフィック論』(編訳、水声社、2021年)など。訳書に、グロイス『流れの中で』(人文書院、2021年)。

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