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WORKSIGHT20号「記憶と認知症 Memory/Dementia」/桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』

☆mediopos3210  2023.9.1

「記憶術」についてはすでに5年近く前に
mediopos-1494(2018.12.18)で
桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』を
とりあげたことがある

ルネサンス期に記憶術が求められたのは
古代ギリシアやローマの古典的名著や
それらを受けた学術書も印刷・出版されるようになり
増大する情報の洪水を乗り切るためで

その後さらには膨大な情報を
引き出しやすくするために
「百科全書」などもつくられるようになったのだが
そんな「百科全書」においても
かつての記憶術的な文脈が含まれていた

「記憶術」の基本は
「心の中に仮想の建物を建て(=器の準備)、
そこに情報をビジュアル化して
順序よく配置したうえで(=情報のインプット)、
それらの空間を瞑想によって巡回してゆく(=取り出し)」
ということだが

「記憶術」には
「精神内での強いイメージの喚起」が必要となるため
「個人の記憶と共通の情報を上手く使った文章表現」である
「エクフラシス」と
「それによって生まれる生理的反応」である
「エナルゲイア」が密接に関係していた

現代においては「知の外部化」が進み
「情報」をとりだし整理する際には
Google検索やAIが活用されるようになっているが
そこには「一生懸命頭を使って、想像力を駆使して、
テクストに書いてあるイメージを能動的に」つくる
という側面が欠けているため
どんなに強い「エナルゲイア」が与えられたとしても
それは能動的なものであるとはいえない
「誰かがつくってくれた記憶がしやすい世界観を
ただ受け身的に享受するだけ」になりがちなのだ

それは
自動販売機のように
ボタンを押して商品を得るような「知」にすぎず
記憶術によって心の「建物」のなかに
ストックされた記憶のような
背景や奥行きは存在しない

スタンダードな知識であるとしても
そこには「個人の知的営み」は希薄で
しかも視点が固定されていることも多く
書かれていることは「外」へは広がらない

現代においては
かつてのような記憶術は必要ないだろうが
圧倒的に増えた情報に対応でき
しかもその視点が受動的に固定されないように
かつてとは異なった意味での横断的な
知的技術が必要とされるのではないかと思われる

現代においては
視点がある程度明確になれば
情報をとりだす検索やAIの技術を積極活用できる

新たな「記憶術」は
かつての「記憶術」ではなく
未知の視点をも含んだ
多視点的に開かれたコンセプトの建物をつくり
その都度つくろうとする建物に応じて
柔軟に情報がとりだせるような創発的な思考術として
再構築される必要があるのではないだろうか

■WORKSIGHT20号「記憶と認知症 Memory/Dementia」(コクヨ/学芸出版社 2023.8)
■桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』(講談社選書メチエ 2018.12)

(「記憶・知識・位置情報
  桑木野幸司「ルネサンス期の「記憶術」が教えること」より)

「ルネサンスの頃までは、普遍的・客観的な情報でさえも個人の知的営みと切り離すことは難しかった。記憶術の実践をめぐる苦労はその象徴です。一方で現代はまとめサイトや動画などによって「ファスト教養」的な環境が広がり、知へのハードルがだいぶ下がっています。それ自体は一概に悪いことではないと思いますが、問題点があるとすると、受け手側の解釈や反応が、情報発信側によってある一定の方向に固定されてしまっている、ということです。その情報をはじめて吸収する人たちが自分で試行錯誤し情報を血肉化していくというプロセスが、大幅にカットされてしまっている。

 ルネサンスの記憶術では、ある情報や記憶を頭の中に入れるためには、まず自分でイメージをつくる必要があります。当時の記憶術マニュアルでも、「まず自分で自分の心に引っかかるイメージをつくれ」と盛んに言われているんです。自分で記憶しやすいイメージをつくって、頭の中に情報を格納していくというプロセス、つまり既存の知識に対する個々人のイマジネーションが、現代において弱まっているのが実は大変な問題なのではないかと思います。」

※「個人の記憶と共通の情報を上手く使った文章表現が修辞学の世界にはあります。「エクフラシス」というもので、読者の頭の中に生き生きとしてヴィヴィッドなメンタルイメージを描く文章表現のことを指し、それによって生まれる生理的反応を「エナルゲイア」と呼びます。エネルゲイアを生み出すことを目指した文章表現がエクフラシスであり、精神内での強いイメージの喚起が必要となる記憶術とエクフラシスは密接な関係を持っていました。」

「この状況はエナルゲイアの話と繋げると、別の見方もできます。私も記憶や知の現代的な様相へと関心から、歴史の出来事を5分ぐらいで語ってくれるような動画を時々見ることがあります。すると偏執やビジュアル、情報の効果的な切り出し方も工夫にビックリするんですね。

 こうした動画は本当によく考えられていて、記憶に残るかどうかと言われたら、たしかに記憶に残ることが多い。ただ、それは私自身が自分にとって記憶しやすいようにつくり上げたものではなくて、動画制作が巧みな人がつくってくれた出来合いのイメージです。それはある意味では、エナルゲイアが過剰すぎると言えるのではないか。次から次へとそういった過剰に知を刺激するイメージを消化していくと、エナルゲイア的なものの効果が薄れていき、鈍感になってしまうような気がします。」

「エクフラシスではスタンダードなイメージを巧みに使っていくと言いましたが、書き手の誘導のままに自然と読者の頭の中にイメージができあがっていくというわけではなく、実は情報を受け取る側の積極性も重要なのです。当時の読者はエクフラシスを読む時に、一生懸命頭を使って、想像力を駆使して、テクストに書いてあるイメージを能動的につくっていたのではないかと思われます。なぜならそうした読者の側からの積極的な参加がないと、エナルゲイアというものはおそらく生まれなかったはずだからです。

 そう考えると、誰かがつくってくれた記憶がしやすい世界観をただ受け身的に享受するだけでなく、自分で記憶の器を用意するという記憶術の方法は現代的にも何かしらの意味を持ちそうです。

 現代は、知識のスタンダード化がかなり進展していると思っています。そうした社会の知のありようを打ち壊したり、そこから完全に逃げたりすることは、もうできないような気もします。ならばスタンダード化された膨大な知識の使い方を工夫するしかないでしょうし、だからこそ前提としての自分の記憶の器へ意識を向けるということは、ひとつの手がかりになるかもしれません。」

「だからといって、単純にかつての記憶術の時代に戻るのは難しいのではないかと思います。」

「「知の外部化」が簡単にできるようになって、どんどん洗練されていったからこそ、記憶術が息をひそめていったという背景はあると思います。」

「ただ記憶術は完全に廃れたわけではなく、18世紀頃から発展していく「百科全書」には記憶術的な文脈が含まれていました。百科全書では項目立てをどうするかが当時の議論の中心的な争点になっていました。ABC順に並べれば一発解決であったはずなのに、この考え方はなかなか浸透しなかったんです。その時に根強く残っていたのが、古代からルネサンスを経てもずっと継承されてきた、世界のあり方そのものを順番に並べていく方法です。具体的には、最初の項目は神様で、次に天使、惑星ときて、人類は後ろのほうに置くというような考え方ですね。

 そういう世界のストラクチャーを本に収める考え方は、「情報に場所を与える」という記憶術的な考え方に通ずるものがあります。ただ、やっぱりその方法には欠点があれ、ストラクチャーをきちんと理解していないと、どの言葉がどのページにあるのかというのが分からない。一方で、ABC順の場合は、単語の綴りさえ分かれば誰でも引ける。現代に至までの過程で、ABC順が勝利を得ていったというのは確かです。

 しかし、記憶術が持っていた「その情報がなぜその場所にあるのかという位置情報を獲得する」という知識の取り扱い方は、決して忘れてはならないものだとも考えています。それはGoogleで検索したらすぐ結果が出てしまうことや昨今おAIを巡る状況を見ると、より強く感じます。あれらの仕組みは、成果物が出てくるまでの知的葛藤が見えないという点が問題だと思いますから。

 記憶術では頭の中に建物を建てるわけですが、その建物はつくった人が動かそうと思わない限り動くことはありません。そうした頭の中の知識の宮殿を持っている人が、記憶術でストックした知識を組み合わせて何かクリエイティブなものをつくり上げた場合、できあがったものとは別に、手に取らなかった知識や記憶はなくならずに建物のどこかに残っているわけです。制作物には直接繋がりませんが、つくる過程で大いに悩んだり参考にしたりした知識や記憶、選び取らなかった可能性というものが、ある種の位置情報的なコンテクストを持ったデータベースになっている。

 記憶術的なシステムを活用しながらつくられた作品には、その作者にとって作品の背後に使われなかったコンテクストが張り巡らされている。つくられたものがすべてではない。そこからまたさらに、別の創作をどんどん繋げ、広げ、発展させることができる。ルネサンスの記憶術には、そんな現代的な可能性や問いが秘められていると感じます。」

(桑木野幸司『記憶術全史/ムネモシュネの饗宴』より)

「記憶術(略)の核心をここでごく単純化して述べれば、心の中に仮想の建物を建て(=器の準備)、 そこに情報をビジュアル化して順序よく配置したうえで(=情報のインプット)、それらの空間を瞑想 によって巡回してゆく(=取り出し)−−−−たったこれだけである。けれども、(略)この仕組みは建築のもつ秩序的空間連鎖に、イメージの持つ情報圧縮力を巧みに組み合わせた、実に効率的なデータ処理システムとして機能することが実証されている。」

「西欧における記憶術の歴史を大まかにまとめると、次のように整理できる。
紙の調達が不自由だった古代世界において、主に長大な弁論を暗唱するために開発された素朴な記憶術は、中世にはやや下火になりつつもキリスト教の影響を受けて独自の変容を遂げる。やがてルネサンスあるいは初期近代(一五〜一七世紀初頭)と呼ばれる時代に華麗な復活を遂げたが、そのあと忽然と姿を消す。(略) では、なぜこの時期に、古代の、いってみれば黴臭いテクニックがよみがえったのだろうか。(略) 時あたかもルネサンス人文主義のまっただなかである。古代ギリシアやローマの古典的名著が次々と印刷・出版され、教養人がそなえるべき知的スタンダードが形成された。その一方で、自然科学や 航海術が発達して様々な新発見がなされ、それらの知見を通じて学術書も怒濤の勢いで増大してゆく。
(略)そこで登場するのが記憶術だ。古代以来の伝統を擁する盤石のデータベース・ツール。この術を当世風に改良することで、情報の洪水を乗り切ることができるのではないか−−−−そう人々が考えたのも 無理はない。
あらためて指摘するまでもないが、これとそっくりな危機的状況を、現代の我々は生きている。し かも、その深刻度は数倍どころか数百倍、数万倍だ。
(略) あえて極端なことをいうと、実はそういった現代の情報革命の萌芽は、すでにルネサンス時代の記 憶術の消長史にすべて内包されていたのだ。」

「記憶の力は両刃の剣である。精神内面に蓄えた膨大な情報を独創的な仕方で組み合わせ、新たな知識 を生み出す力がそなわっている一方で、その力を誤ると、内面イメージの暴走はもとより、記憶の書 き換えや恣意的な操作といったネガティヴな面まで現前かしかねない。(略)記憶とは過去のデータを独創的に再構成することに他ならないということは、そのプロセスに人為 的に介入することによって、人々が想起する内容を操作できてしまうということでもある。」

「ある歴史的記憶を後世に伝えたいと思う人と、それを望まない人がいたとする。後者が記憶の書き換えや歪曲といった手段に訴えたとき、前者にはそれに抗する術があるだろうか。繰り返すが、記憶とは我々が思っている以上に脆いものであり、架空の情報の示唆や誘導、プロパガンダによって、容易に変形させられてしまう。最新の認知科学の研究によれば、場合によっては、一度も起こったことがない事柄を「自らの体験」として人に思い出させることさえ可能だという。こうなると、実際の出来事の記憶と、創作された記憶との区別をつけることは非常に困難だといわざるをえない。
だからこそ、記憶と想起のしくみを知り、記憶を構成する(賦活)イメージの力を正しく認識して、 記憶と文化の創造的な交錯のプロセスに通暁することが、自己防衛の手段になりうるのだ。その意味で、初期近代における記憶術の発展と衰退の歴史を丹念にたどることは、過去の人々がいかにして記憶女神を味方につけ、その権能に与ろうとしてきたのかを知ることができる点で、有益な示唆を含んでいる。記憶を恣意的に操作しようとする者が我々の前に現れたとき、それらの知見は強力な武器となり、鎧となってくれるだろう。
記憶女神ムネモシュネの叡智の饗宴は、まだまだ終わらないし、終わらせてはならないのだ。」

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