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今福龍太 「仮面考2/顔、面、ペルソナ−−−−和辻哲郎に導かれて」/和辻哲郎「面とペルソナ」/坂部 恵『仮面の解釈学』

☆mediopos2669  2022.3.8

「顔」とはいったいなんだろう

わたしの素顔はわたしだろうか

「顔」とは「面(おもて)」であり
また「仮面(ペルソナ)」でもあるように
「〈わたし〉とは仮面」なのだ

「わたしの素顔もまた、わたしにとって、
他者(ないしは〈他者の他者〉)以外のものではな」い

わたしはつねに
「〈人称〉personne ないしは、
〈仮面〉persona として以外には、
形どられあらわれることがないのだ」

このことを示唆しているのは
和辻哲郎の小論「面とペルソナ」をめぐり
「顔と仮面と人のあいだの重層的な関係性」について
考察した坂部恵(『仮面の解釈学』)である

人間存在の本質にかかわる奥深いはたらきとして
「仮面」「面」がもっていた象徴性・多様性が
現在では失われてしまっている

「「仮面」は深遠な含意を込めて
「面(おもて)」と呼ばれてきたが、いまや」
「「おもて」はたんなる「表面」「上っ面」
のことでしかなくなってしまった」のだ

今福龍太はそうした坂部恵の論を受け
主体(主観)と客体(客観)にわかれ
それぞれのなかに閉じ込められてしまった
固定的な現実から自由になるために

「〈わたし〉(=〈他者〉)の拡張にむけて」
「他の認識領域へと自在に」
「「超えて(メタ)」ゆく能力によって
「真のメタモルフォーシス(=変身・変態)としての
〈おもて〉をいかに奪還するか」を
もっとも重要な文化的課題の一つだとしている

現代のわたしたちの「顔」は
「わたしがわたしであること」を公式に証明する
AIによる顔認証システムが導入されているように
「データ化されてしまった皮相で平板な顔」となり
自在なメタモルフォーシスとしての〈おもて〉からは
ますます遠ざかってしまっているようだ

今回の論考の最後に今福龍太氏は
赤子の「いない・いない・ばー」をとりあげている

「いない・いない・ばー」は
赤子が「「顔」の存在/不在のはざまにおいて感得する」
「不可欠の通過儀礼」だという
それは「人間の自己意識と他者意識とが
分離しながら発生する端緒を示す」のである

それはまた「「たがへ」(=差異)の遊戯」という意味でも
言語意識の発生とも密接に関わっている
「いない・いない・ばー」は
「差異の認識のシステムの発生の現場」でもあるのだ

平板化しデータ化された「顔」における「差異」は
ただ管理と監視のための認証の道具でしかない

〈わたし〉を〈他者〉への拡張にむけて
メタモルフォーシスさせる「差異」を顕現させるべく
「顔と仮面と人のあいだの重層的な関係性」を
さまざまな観点から見直し深めていくことが求められている

■今福龍太
 「仮面考2/顔、面、ペルソナ−−−−和辻哲郎に導かれて)
 (「すばる2022年4月号」所収)
■和辻 哲郎(坂部恵 編)『和辻哲郎随筆集 』
 (岩波文庫 岩波書店 1995/9)
■坂部 恵『仮面の解釈学』
 (東京大学出版会 1976/1)

(今福龍太「仮面考2/顔、面、ペルソナ−−−−和辻哲郎に導かれて)より)

「和辻哲郎が雑誌『思想』に「面とペルソナ」と題する文章を寄稿したのは、『古寺巡礼』刊行から一六年ほどが経った、昭和一〇年、一九三五年の六月のことだった。短いながらも、喚起的なタイトルをもったこの小論は、「仮面」という特異な主題をその存在論的な地点から哲学的に考察し、「仮面」をつうじて「人間」なるものの核心に迫ろうとした、きわめて独創的かつ先駆的な仕事であると私には思われた。」

「顔と仮面と人のあいだの重層的な関係性、その不思議を「ペルソナ」という概念によりながら先駆的に考察した和辻哲郎の思想を引き継ぎながら、人間の顔と仮面をめぐる現象学と存在論とを精緻な哲学的な展望のなかにおきなおしたのが哲学者、坂部恵の傑出した著作『仮面の解釈学』(一九七六)であった。そこで坂部は、現在の私たちが「仮面」にたいする「生きた感覚」をすっかり喪失してしまったという認識から出発する。古い伎楽面や祭の仮面、あるいは世界各地の民俗的な仮面などはすべて博物館のショーケースの中で鑑賞のために陳列されているにすぎない。一方で、「仮面」という言葉は「素顔」の対立概念と成り果て、素顔が示す自己同一的な自我をなんらかの都合によって覆い隠すカモフラージュのことが比喩的に仮面と呼ばれてしまっている。さらにこうした「仮面」という言葉の比喩的用法が、特殊近代的な感覚によって制約されたものであることを誰も思いみることすらない。「仮面」は深遠な含意を込めて「面(おもて)」と呼ばれてきたが、いまや私たちにとっての「おもて」はたんなる「表面」「上っ面」のことでしかなくなってしまった。

(・・・)

 この失われた「面」の象徴性・多様性こそ、人間存在の本質にかかわる奥深いはたらきの根拠であった。そのとき、「素顔」はけっして人間の存在を自己同一性のもとに保証する根拠とはなりえなかった。本来、素顔はある意味で、「面」の孕む多様性のなかの一つのあらわれにすぎなかったのである。だからこそ人間は、表面的な素顔の奥にあるものを直観的に見とおすさまざまな日常的技芸や作法を保持していた。」

「  わたしの素顔もまた、わたしにとって、他者(ないしは〈他者の他者〉)以外のものではなく、他者性につきまとわれることのない純粋な自己、自己(わたし)への絶対的な近さ、現前、親密さなどというものは、本来、どこにも存在しない。〈わたし〉は(おそらく、それが、絶対的な〈汝〉の面前における代替不可能な〈わたし〉というようなものである場合ですら)、つねに、〈人称〉personne ないしは、〈仮面〉persona として以外には、形どられあらわれることがないのだ。(坂部 恵『仮面の解釈学』、八二−八三頁)

 きわめて啓示的な主張である。〈わたし〉とは仮面である。それも、もっとも豊穣で変身可能性に充ちた・・・・・・。この指摘は、私たちの現在において忘却され、否定されてしまったものを鋭く照射する。「他者」を機械的に組織・構築しようとした近代の社会原理自体が、「自己」のなかにあらかじめ孕まれた「他者」の影、「他者」の現前を消去する抑圧的なシステムであったこと・・・・・・。

 「仮面が素顔の隠喩であると同等な資格において、素顔は(何らかの〈原型〉などではなく)仮面の隠喩である」(同前、八三頁)。このような喚起的な評言において相対化された「素顔」は、けっしてその立場を貶められたわけではない。むしろ、そうした仮面と素顔との自在な交換可能性のなかで、人間はもっとも深みのあるコミュニケーションと日常の演技領域とを創造してきたのだった。だとすれば、私たちの現在がすがろうとする「素顔」の真正性・根源性こそを、揺るがし、乗り越えていかねばならないことになる。」

「坂部の議論に拠りながらこのように考えを進めたとき、私はいまの世界が取り組まねばならないもっとも重要な文化的課題の一つが、真のメタモルフォーシス(=変身・変態)としての〈おもて〉をいかに奪還するか、という点にあることを確信する。それは仮面という高度にメタフォラ(=隠喩・暗喩)的な媒体の復権のヴィジョンである、と言い換えてもいい。このときの「メタ」とは、主観と客観、主体と客体に両極分解し、それぞれのなかに封鎖されてしまった私たちの固定的現実を破り、他の認識領域へと自在に「超えて」meta(=メタ)ゆく能力のことであり、人間がその深部において保存しているはずの〈わたし〉(=〈他者〉)の拡張にむけての日常の技法を意味している。メタモルフォーシスとメタフォラ、すなわち「超えて(メタ)」ゆく力の真の可能性は、ディジタルな未来の楽天的な幻想の中にではなく、人間が失いかけている過去の豊穣な地層のなか、あるいはいまもかすかに保持されている心的道理の最深部にこそ再発見されねばならない。」

「Face ExpressとかSafe EntranceとかFace IDとかさまざまに呼ばれる、広範に使われている「顔認証」をめぐるテクノロジー=イデオロギーは、AIによる顔の収奪にほかならない。入獄審査から銀行の口座開設、スマートフォンのロック解除からオフィスビルの入構に至るまで、現代生活のさまざまな場面において、このAIによる認証システムから「合格」をもらわなければ、もはや「わたしがわたしであること」を公式に証明することが私たちにはできなくなりつつある。その一方で、公共空間における人々の顔と行動は、逐一監視カメラ(「防犯カメラ」という呼称は一種の欺瞞である)によって拾いあげられてビッグデータの蓄積に「貢献」し、社会のいわゆる「セキュリティー」security(=「安全であること」と「監禁されていること」の両義があることに注意!)の確立に知らない間に「加担」している。この飼いならされ、濫用され、自らを管理社会の中に封鎖しているディジタルな顔を、まず私たちは自分の顔から引き剥がさねばならないのではないか?

(・・・)

データ化されてしまった皮相で平板な顔に、「仮面(マスク)」ならぬ防御的な不織布マスクをつけて日々を鬱々と生きざるをえない私たち。物理的にも、象徴的にも、私たちのペルソナを重厚に映す「顔」(=「面」)はもう半分も残っていない。だからこそ、もう一度「仮面」の深い歴史的・文化的消息を問い直すことが、現代を生きる人間が活力と陰影をもった自己意識を取り戻すために急務となるのである。」

「赤子は、おそらく人間にとってもっとも早い、自他の認識をめぐる原初的な儀礼として、無邪気ともおもえる一つの「遊戯」をくりかえし体験する。それが「いない・いない・ばー」であった。(・・・)赤子をあやすこのもっとも原初的な行為が、世界のほとんどあらゆる文化において例外なく存在していることからもわかるように、「いない・いない・ばー」は、人間の自己意識と他者意識とが分離しながら発生する端緒を示す、誰にとっても不可欠の通過儀礼である。そして、子をあやす親の顔の消失と不意の再出現をめぐるこの遊戯は、赤子が人の「存在」をめぐる認知を、まずなによりも「顔」の存在/不在のはざまにおいて感得するという事実をみごとに示している。

(・・・)

 言語意識の発生が、親の「顔」の消失と出現をめぐる「たがへ」(=差異)の遊戯によって促されてゆくこの現象は、とても示唆的である。そして、言語意識と自他意識の発生の現場において、「顔」をめぐる所作と言葉の遊戯が世界に普遍的に存在していることも、おなじように示唆的である。「いない・いない・ばー」は、「顔」によってまず存在そのものが対象として認知されていくことを示しつつ、そこに「ことば」なるもの、すなわち差異の認識のシステムの発生の現場が、同時に埋め込まれていることを見事に語っているからである。その意味では、「顔」や「面」は、それ自体の深みや揺らぎも含めて、人間の言語の深み、その彩、その陰影をも規定する、決定的に重要な根拠ともなっているのである。」

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