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長尾天 『ジョルジョ・デ・キリコ/神の死、形而上絵画、シュルレアリスム』

☆mediopos-2315  2021.3.19

「神の死」とは
何を意味するのだろうか

それは「世界の背後に仮構された」
絶対的な「真の世界」を破棄することである

シュルレアリスムは「神の死」というニヒリズムによって
真の世界・絶対的なものから離れ
「世界の無限の解釈可能性」を開示しようとした

キリコの形而上絵画と呼ばれる作品群は
そうしたシュルレアリスムに深く影響を与えたのだが
一九一九年のキリコの「技術への回帰」の宣言以降
ブルトンをはじめとするシュルレアリストたちは
その作品を厳しく批判しその関係が断絶することになった

キリコの「技術への回帰」は
古典絵画や「技術」を固定された「真実」とし
過去の巨匠たちという「父たち」と同化し
「無際限な自己投影の場」で自我肥大することで
死んだはずの神を絵画の「真実」という姿で
生き残らせてしまうものだったのだ
(それはキリコ自身の「父」との和解と同一化だったようだ)

日本人の多くはそうだろうが
「神の死」といわれても
どこかピンとこないところがある
一神教的世界の根底にある世界観とは
異なった世界観のもとに生きているからだ

しかしながら山本七平いわく
日本には「日本教」があるとしたように
日本人の世界観の根底にも
別のかたちで「神」は存在している

いってみれば
一神教的世界には主語的な神が存在し
日本教の世界には述語的な神が存在する
ということもできるだろうか
どちらにも絶対的なものに依拠するがゆえの
陥穽が生まれてしまうことに違いはない

絶対的なものに依拠し
それを「真の世界」とすることで
「世界の解釈可能性」はその世界で閉じてしまう
シュルレアリスムは「神の死」によって
「世界の無限の解釈可能性」を開示しようとしたわけである

世界を一義的に解釈するということは
視点を固定してそこから世界を観るということだ
相対論のアインシュタインにしても
「神はサイコロを振らない」と言って
量子力学を批判したように視点は一義的である

「世界の無限の解釈可能性」とはある意味で
量子力学の「観察者効果」のように
観察するという行為が観察される現象に変化を与える
そんなありかたにも似ている

「真の世界」を絶対化することで
「世界の無限の解釈可能性」は失われてしまう
しかし「世界の無限の解釈可能性」に向かって自らを開くということは
「神の死」のあとをどう生きるかから目を逸らさないでいることだ

そのことに耐えられない者は絶対者への信仰に回帰するか
「無際限な自己投影の場」で自我肥大することにもなる
シュルレアリスムとキリコの接近と断絶から学ぶことは
みずからの世界への根源的な姿勢を見直すことでもある

■長尾天
 『ジョルジョ・デ・キリコ/神の死、形而上絵画、シュルレアリスム』
 (水声社 2020.12)

「二〇世紀の芸術、特に大戦間の美術について考える場合、シュルレアリスムを欠かすことはできない。そして、シュルレアリスムの美術史上の位置づけを明確にしようと試みる場合、一つの大きな問題となるのがジョルジョ・デ・キリコとの関係である。主に一九〇九年(あるいは一九一〇年)から一九一九年にかけてデ・キリコが描いた形而上絵画[pittura metafisica]と呼ばれる特異な作品群が、シュルレアリスムに大きな影響を与えたことはよく知られている。だが一方でアンドレ・ブルトンをはじめとするシュルレアリストたちは、一九一九年に「技術への回帰」を宣言して以降のデ・キリコの作品を厳しく批判し、このために両者の関係が断絶したという経緯がある。」

「デ・キリコの形而上絵画は、「神の死」のニヒリズムの極限形としての永遠回帰する世界を表現している。とすれば、形而上絵画を「予言装置」とみなすことはそれほど不自然なことではない。永遠に回帰する時間において、未来は既にあった過去であるからである。また「神の死」のニヒリズムは、世界の背後に仮構された「真の世界」を廃棄することで、世界の無限の解釈可能性を開示する。だからこそ形而上絵画は、「現代的神話」あるいは「新しい神話」という、世界に対する新しい解釈への期待を喚起する。さらにデ・キリコは夢の形而上的現実性を信じ(ここで夢と現実が超現実に解消されるという『シュルレアリスム宣言』の一文を思い出すこともできる)、それを子どもの精神に近づける。そして(・・・)《子どもの脳》が示すのは「神の死」だが、それは同時にフロイト的な意味における「父の死」ともなりうるのである。このように考えれば、シュルレアリスムはデ・キリコの形而上絵画の根本をなすものにある意味で触れていたと言えるだろう。
 では両者が断絶したのは何故か。(・・・)それはデ・キリコの作品がもはや「予言装置」たりえなくなったからと言えるかもしれない。」
「デ・キリコは、過去の巨匠たちが実際には油彩を用いていなかったのだと熱心に語る。確かに永遠回帰において過去と未来は等価であり、そこに古典回帰への理論的根拠を見出すことも不可能ではないように思われる。だがニーチェによれば、「神の死」のニヒリズムの極限形こそが永遠回帰なのであり、そこには固定された「真実」は存在しない。ところがデ・キリコは古典絵画や「技術」を固定された「真実」とし、過去の巨匠たちという「父たち」と同化することで、円環する時間を止めてしまったのではないか。(・・・)《子どもの脳》は、デ・キリコ自身の願望の予言としても機能していることになる。エディプス的葛藤を抱えたデ・キリコにとって、死んだ父とは自身が殺そうとした父でもあり、その罪悪感は同時に父との和解と同一化へとデ・キリコを向かわせる。だが失われた父と同一化した息子デ・キリコと、もう一方の息子たち、シュルレアリストたちは程なくして断絶することになる。」

「ニーチェとショーペンハウアーを理論的根拠とする形而上絵画は「生の無意味」、つまり形而上学的「真実」の不在を描く。そして形而上学的「真実」の不在を暴かれた世界は、無限の解釈可能性を開示する。だからこそシュルレアリスムは形而上絵画を予感や「期待への誘い」の場、一つの予言装置とみなしたのである。
 だが形而上的「真実」を欠いた世界は、同時に無際限な自己投影の場ともなりうる。ニーチェはその狂気において歴史上の様々な人物と同一化することにより、世界の無限の解釈可能性をその身をもって生きたが、それは同時に自我肥大の結果でもあった。デ・キリコもまた自我肥大の結果(と筆者には思われる)、自身を古典絵画の巨匠たちに連なる天才とみなすことになる。
 それは「生の意味」の空虚あるいは「神の死」の空虚に、再び「絵画」や「マティエール」という「真実」を挿し入れることである。そのとき形而上絵画が開示した世界の無限の解釈可能性は、「絵画」や「マティエール」という「真実」に整序され、失われる。
 さらに「神の死」の空虚に「真実」を挿し入れるというデ・キリコの身振りは、死んだ神=父との和解を意味する。「技術への回帰」とはまさに古典絵画の「父たち」と自らを同一化することであり、その背景には早逝した父と同一化したいというデ・キリコの欲望が垣間見える。
 こうしてデ・キリコは自らを天才という特権的主体に変える。それは形而上絵画とシュルレアリスムに通底する客体の問題を放棄することであり、形而上学的外部を持たない内在的世界に向けられた反形而上学的遠近法を捨て去ることだった。」
「西洋美術史において絵画が常に「真実」を志向してきたとすれば、デ・キリコは形而上絵画によって「真実」なき真実を描いた、ある意味で最後の画家である。だからこそシュルレアリスムにおいて絵画はもはや固有の問題とはなりえないのであり、そこで問題となるのは「神の死」を描くことではなく、「神の死」の後を生きることとなる。」
「「神の死」を描くことから、「神の死」の後を生きることへの移行、これがデ・キリコとシュルレアリスムの接続と断絶を規定する内的論理である。勿論、死んだ神が再び目を覚ます可能性は常にある。しかし、だからこそ超越性に抗して生きることはどのようなことか、その身振りを示すサンプルとして、シュルレアリスムの実践はその意味を持続させると言えないだろうか。」

「「神の死」を記号の問題として捉えた場合、世界を構成するシニフィアンとシニフィエの連鎖の究極的な収束点が「神」であり、この収束点が失われた状態が「神の死」ということになる。そして、西洋近代美術における「神の死」の問題は、一九一〇年代にキュビズム、形而上絵画、レディメイドという三つの形で露わになる。キュビズムにおける「神の死」とは記号システムとしての遠近法の死である。デュシャンのレディメイドにおける「神の死」とは、世界の真実としての美術の死である。そしておおまかに言ってキュビズムから抽象芸術が、形而上絵画からシュルレアリスムが、レディメイドからコンテンポラリー・アートの系譜が生じることになる。
 抽象芸術では、死んだはずの神が絵画の「真実」に位相変化して生き残る。コンテンポラリー・アートは、ニーチェの命題をパロディ化し、あらゆるものを美術に変える。偶像崇拝的でも偶像破壊的でもあるこれらの美術は、多かれ少なかれ、結果として「神の死」を隠蔽する。
 一方、シュルレアリスムは、形而上絵画から「世界の無限の解釈可能性」という側面を受け継ぐことで、「神の死」以後の美術の特異な例となる。「神の死」以後の世界を無限にサンプリングしていくことがシュルレアリスムの実践であり、だからこそそこには単一の様式や意味は必要とはならない。個々人が自らの「現実」を発見し、世界が無限の解釈を孕んでいるということを、互いに隔たったサンプル=実例によって示していくこと、そうすることによって「世界に対して開かれた窓」であり続けることが、シュルレアリスムの条件の一つなのである。」

キリコ1

キリコ2


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