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穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #28 マトリョーシカ感覚」(『群像 』)/酒井智宏『トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論』

☆mediopos2981  2023.1.15

穂村弘の「連載 現代短歌ノート二冊目」で
「人形の中から人形の中から人形の中から・・・・・・」
そんなマトリョーシカ的な感覚のある短歌が紹介されている

実際のマトリョーシカでは
いちばん最後にいちばん小さな人形でてくるが
「言葉のマトリョーシカには終わりがない」

「砂時計のなかを流れているものはすべてこまかい砂時計である」
というとき
流れているこまかい砂時計のなかにもまたこまかい砂時計が流れ
さらにその砂時計のなかにももっと細かい砂時計が流れている
その砂時計には終わりがない

さらにじぶんじしんがマトリョーシカになることも想像できる

「頭の操縦席に座ってる私動かす小さな私」

私の頭には「私動かす小さな私」がいて
その私の頭にも「私動かす小さな私」がいる
その「私」にも終わりがない

そんな永遠のマトリョーシカの「私」を想像しているうち
少し前にトートロジーについての論考
『トートロジーの意味を構築する』を読んだことを思い出した

久しぶりにヒットを放ったイチローをみて友人が
「やっぱりイチローはイチローだなあ」という

イチローをXとすると「XはXだ」というトートロジーである
「私は私だ」というのも同じ形のトートロジー

マトリョーシカとトートロジーは異なっているものの
どこかでなにかが通じ合っている
そんなことをふと感じた

マトリョーシカ的な言語表現としていえば

私は私である
私は私であるである
私は私であるであるである

というようなトートロジーの入れ子構造で
それが終わりがない入れ子構造となると
どこかで永遠にマトリョーシカ構造になっている
「頭の操縦席に座ってる私動かす小さな私」と似てくる

そしてそれは永遠の極大から永遠の極小までの
マクロコスモスとミクロコスモスの照応のようでもあるが
「XはXだ」の前のXと後のXでは意味が変化している
そこに新たな意味が生みだされているのである

私は私であるというトートロジーのマトリョーシカも
前の私と後の私とでは意味が変化しているだろう
そしてその変化にこそ意味があるのではないか

地上で肉体をもっている「私」もまた
こうして生きていることによって
「私」に新たな意味を生みだしているのかもしれない

地上を離れたところにイデアがあって
それが本来だというとらえ方もあるが
こうして生きている私に意味があるとしたら
そのイデアに新たな意味を付加することなのだろう

私は私である

そのトートロジーをあえて生きている「私」

■穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #28 マトリョーシカ感覚」
 (『群像 2023年02月号』講談社 所収)
■酒井智宏『トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論』
 (くろしお出版 2012/12)

(穂村弘「連載 現代短歌ノート二冊目 #28 マトリョーシカ感覚」より)

「ロシアのマトリョーシカという人形を始めて見た時の衝撃を覚えている。人形の中から人形の中から人形の中から・・・・・・。最後の一個が出てきた時、はっとしながらも、どこか残念に感じていた。
 そんなマトリョーシカ的な感覚を含んだ短歌に出会うことがある。そのたびに、あ、これだ。と思う。例えば、こんな歌。

新宿駅西口地下街に君と来て見下ろす高層ビル街模型
         ————俵万智(『かぜのてのひら』)

 「高層ビル街」の地下で「高層ビル街」を見下ろすという入れ子めいた構造の面白さ。その模型の中には小さな「君」と〈私〉がいて、さらに小さな「高層ビル街」を見下ろしているんじゃないか。
 マトリョーシカ人形には、最後の一個があった。だが、言葉のマトリョーシカには終わりがない。笹井宏之の短歌には、この感覚がしばしば現れる。

白鳥の背中はめくれワンサイズ小さめの白鳥が出てくる
          ————笹井宏之(『てんとろり』)
        
砂時計のなかを流れているものはすべてこまかい砂時計である
          ————笹井宏之(『てんとろり』)
        
 ワンサイズ小さめの白鳥からは、さらにワンサイズ小さめの白鳥が出てくるだろう。こまかい砂時計のなかを流れているものは、さらにこまかい砂時計に違いない。言葉のマトリョーシカは永遠。
 そういえば作者には、こんな歌があった。

えーえんとくちからえーえんとくちから永遠解く力を下さい
          ————笹井宏之(『ひとさらい』)

 口から飛び出した泣き声のように見えていた「えーえんとくちから」の正体は「永遠解く力」だった。彼は脱出困難は「永遠」に囚われていたのかもしれない。」

「自分自身がマトリョーシカになることもある。

頭の操縦席に座ってる私動かす小さな私
          ————山田知明

 大きな私の脳の内に座って操縦する「小さな私」とは、奇妙でありつつ、どこか実感的だ。そういえば、イラストレーターのフジモトマサルは、画文集『終電車ならとっくに行ってしまった』の中で、まさにこの状態を漫画にしていた。人間が乗り込んで操縦する巨大ロボットについてのエッセイが添えられていたのも興味深い。
 そういえば、と思い出す。『鉄腕アトム』や『エイトマン』は意識を持ったロボットであり、『鉄人28号』や『ジャイアントロボ』はリモコンで操縦されるロボットだった。だが、それらに対して、或る時、生身の人間が乗り込んで操縦するタイプの巨大ロボットが出現した。その嚆矢は、たぶん『マジンガーZ』だと思う。ここを起点として、『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』など無数の作品が生まれ、一つのジャンルが形成されたのだが、これは「私」のマトリョーシカ感覚に或る種の普遍性があることの証かもしれない。」

(酒井智宏『トートロジーの意味を構築する』より)

「イチローが久しぶりにヒットを放つ。一緒に観戦していた友人が言う。

 (1)やっぱりイチローはイチローだなあ。

私は思わずうなずきながら「ほんとだね」と答える。ここで最初の問いが生じる。私は「ほんとだね」と答えながらいったい何に同意したのだろうか。(1)が文字どおりに表しているのは、「イチロー=イチロー」という命題であるように思われる。私は断じて「イチロー=イチロー」という分かりきったことに同意したかったのではない。同じことを友人の側から述べてみる。この友人は(1)の文を発しながら私にいったい何を伝えようとしたのだろうか。断じて「イチロー=イチロー」という分かりきったことを伝えようとしたのではないだろう。」

「本書では「XはXだ」が何を語っているかではなく、何を行っているかを描きだした。「XはXだ」は発話される以前も、Xという語は用いられていた。すなわち、Xという語は確かに意味をもっていた。そのXの意味は、「XはXだ」という発話によってさらに仕上げられていく。すなわち、Xという語は新たな意味を獲得する。このとき、トートロジーが発話される以前のXと、トートロジーが発話された後のXとでは、意味が変化しており、この変化の前後を貫く単一の日本語なる言語は存在しない。そこでは、小規模ながらも、言語変化が生じているのである。トートロジーをめぐる数々のパラドックスは、トートロジーによって成し遂げられる言語変化を、旧来の言語のもとで語ろうとすることによって生じる。トートロジーの意味とは、旧来の言語から新しい言語への変化という運動のもとにのみ見てとられるものである。それゆえ、「日本語のトートロジー『XはXだ』はXの等質化を表す」などというのは、それがいかなる言語で表現されようとも、無意味な言明もどきでしかない。
 こうしてわれわれは、野矢の隠喩(メタファー」論と合流することになる。

(・・・)

 これまでの言語学では、メタファーは新たな意味を生みだす表現方法であり、トートロジーは既存の意味ないし事実を再確認する表現方法であると考えられてきた。しかし、実際には、メタファーも、トートロジーも、新たな意味、さらには新たな言語を生みだす表現方法であるという特徴を共有しているのである。それゆえ、いずれの表現方法においても、そこに見られる新たな言語の誕生という運動を、特定の言語で語り出すことはできない。かくして、これまで対極の修辞法とされてきたメタファーとトートロジーが、本書の終わりにおいて新たな邂逅をはじめることになる。」

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