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■『MONKEY/特集 イッセー=シェークスピア』&ボルヘス『創造者』

☆mediopos-2408  2021.6.20

わたしはわたしであり
あなたにもまた
あなたのわたしがある
わたしという不思議は
そこからひろがる

このわたしでありながら
すべてのわたしである
ということは可能だろうか

しかしわたしが
すべてのわたしであるならば
わたしは誰でもないということでもある

演じるということは
誰でもなくなったわたしが
ある役をもったわたしになるということだ

ボルヘスの短編“Everything and Nothing”では
シェイクスピアの訴えに対して神が答える
「お前はわたしと同様、
多くの人間でありながら何者でもないのだ」と

高校の頃
わたしというのは
わたしを超えられないのか
その問いをくり返していたことがある

そのとき得たひとつのヒントが
読書というのは
わたしという視点をいちど外して
他者の視点からの言葉で
世界を見るという経験ではないか
ということだった

とはいえ結局のところ
わたしを超えるということは
いまのわたしの認識をひろげ深めることでしか
できないということは明かだった

読むだけでは難しいならば
こんどは演じてみることも
可能性のひとつではないかと思い
大学では少し演劇に関わってみたこともあったが
そこには個人の演じる才能という大きな壁もあり
(演じる才能がないのはすぐに知れた)
その結論として卒業論文のなかでは
テキスト内的に閉じた場所だけではなく
開かれた場で日々演じるしかないと
「演劇的知」なるものへの意思表明をしてもみた

そしてそこから
仕事のなかではまさに「演劇的知」を演じ
(生活の糧という現実的な要請もそこにはあるが)
それ以外のプライベートな場では
ある種「わたし自身」を演じるようになった
(こうして日々書き連ねていることもそのひとつ)

もちろん先のボルヘスの短編のごとく
わたしはいろんなわたしでありながら
その実「何者でもない」ともいえる
そしていまここであるnow-hereは
どこにもないno-whereでもあるのだ

さて今回の『MONKEY』の特集は
「イッセー=シェークスピア」

イッセー尾形の一人芝居を初めて見たのは
『お笑いスター誕生!!』(1981年)のときで
それ以来ずいぶんその独特のスタイルに
魅了されてきた
『MONKEY』でも
「イッセー・カバーズ」という
今回最終回になった連載を楽しみにしてきた

イッセー尾形は柴田元幸との対談のなかで
「カバー」ということについて語っているが
ぼく自身をふりかえってみて
いままでどんなものを「カバー」してきたのだろう
「カバー」し得てきたのだろうと自問することになった

そして高校の頃からの自問がふたたび・・・

「わたしはわたしを超えられないのか」
超えられないならば
じぶんをひろげるために
どれほどじぶんの認識をひろげ深め得たか

そして「何者でもない」じぶんが
いったいどんな「わたし」であり得るのか・・・

■『MONKEY vol.24/SUMMER/FALL 2021』
 特集 イッセー=シェークスピア
 (スイッチパブリッシング 2021.6)
■J.L.ボルヘス(鼓直訳)『創造者』
 (岩波文庫 2009.6)

(『MONKEY』〜「猿のあいさつ」より)

「ボルヘスのごく短い短編、“Everything and Nothing”。短いからということも陶然あると思うし、授業で使ったりもしたからなのですが、とにかくいままで、あらゆる文学作品の中で一番読み返してきた一作だと思居ます。鼓直さんの明訳で読み(『創造者』所収)、いろんな英訳で読み、自分で(べつに出版の当てもなく)英訳から重役したりもして、一行一行よさを噛みしめてきました。
 スペイン語作家ボルヘスなのに、英語のタイトルになっているのが不思議ですが、読めば納得します。英文学史上最大の存在たるあの人が、あらゆる人物を描けた、というか、あらゆる人物(Everything)になれた、のは彼自身が誰でもない人間(Nothing)だったから、そしてこの世界のあらゆる存在を造った神も、実は・・・・・・という内容。初めて読んだ二十代半ばのころは、人間がウメボシであるよりははるかにラッキョウであって、外面を剝いて、剝いて、剝いたら中には種なんかなくて、空っぽなのだ!と強く思っていたので、これはしっかりヒットしました(まあこの歳になると、長年の無用な、でも捨てられない荷物みたいなのが内面にたまってくるので、そこまで自己をラッキョウ視でもないのですが・・・・・・)。
 さて、僕の頭の中で、“Everything and Nothing”の「彼」と呼ばれる誰でもない人間には、長いあいだ顔がありませんでした。作中でも言及される、あの有名な肖像画も関係なし。顔の部分は、人間が持ちうるいろんな感情が入れ替わり立ち替わり現れるための空白(ブランク)でした。で、結末で、誰でもないのはあんただけじゃないんだぜ、と説く神も、やっぱり顔はナシ。
 それが、いつごろからだろう、たぶんこの雑誌で、まさにその「彼」の作品を毎回カバーしてくれる人が現れ、そういえばこの人も、大勢の人間が見守る前で、一人で実にいろんな人間になってきたではないか・・・・・・。
 そう思うと、もう「彼」の顔は、僕の頭の中で、イッセー尾形さんの顔でしかありえなくなってしまいました。ついでに、「実は俺も・・・・・・」と打ち明ける神の顔も。
 ゆえに、今号は、イッセー=シェイクスピア。」

(『MONKEY』〜対談 イッセー尾形・柴田元幸「庶民の目で見るシェークスピア」より)

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「柴田/今回の号では巻頭にボルヘスの「Everything and Nothing」という短編を掲載しています。簡単に言うと、シェークスピアが子どもの頃から自分が何者かわからない、誰でもないという気持ちがずっとあって、その空白を埋めるためにどうしたらいいかと思っているうちに役者という職業にたどり着き、劇作家になる。そしていろんな人になる。それにもくたびれて、死ぬ段階になって、神様の前に出て「私はずっといろんな人を演じてきたけど、これからは私自身でありたいと思います」と言うと、神様が「俺も誰でもないだよ」と言う。
イッセー/いい話です。
柴田/僕も大好きで何回も読み直していますけど、ずっと神様もシェークスピアも僕の頭の中では〝顔無し
〟だったんです。ですが、MONKEYで「イッセー・カバーズ」の連載をやっていただいているうちに、だんだん神様の顔が見えてきた。シェークスピアのほうも同じ顔をしていて。イッセーさんの顔なんです。
イッセー/(笑)。でも「カバーズ」というタイトルを与えていただいて、本当に感謝しています。「カバー」って自分が一番必要としていた言葉なんだなと思いました。
柴田/でも、ある意味では俳優としてずっと〝カバー〟をなさっていたんですよね。
イッセー/そうなんです。でも改めて「カバー」なんだと言われると、「これがカバーか。じゃあこれもカバーでありえる」というふうに、自分のやろうとしていることを名付けられた気持ちがあるんです。「カバー」ってある意味無責任ですけれども、無責任でやったことに全責任を負う。だから入口は気が楽なんです。」

(ボルヘス『創造者』〜「Everything and Nothing 全と無」より)

「彼のなかには何者も存在しなかった。(当時の下手な肖像画によっても、およそ他の誰にも似ているところのない)彼の顔の背後には、また饒舌で想像力と感情にあふれた夜のことばの背後には、ただ、わずかな冷気のようなもの、誰にも夢みられたことのない夢しか存在しなかった。最初、彼はすべての人間が自分と同じなのだと信じたが、この空白感をふと口にしたとき相手の顔に浮かんだ怪訝そうな表情を見て、思い違いをしていたことを悟り、個は種から逸れてはならぬという思いを深くした。あるとき、その病を癒やすすべは書物のなかに見出せるのではないかと考え、同時代の人間なら話すであろうと思われる少しばかりのラテン語と、さらにわずかなギリシア語とを学んだ。やがて彼は、人間の基本的な儀礼行為に自分の求めているものがあるのではないか、と思い、長い六月の日盛りどき、アン・ハサウェイの導きで入門を果たした。二十余歳でロンドンへ出たが、そのときすでに、何者でもないという己れの有りようを他人に気取られぬため、何者かであるかのごとく振る舞うすべを身に付けてしまっていた。そしてロンドンで、前世から約束された職業に就いた。彼を別の人間と見なす遊びを楽しむ観衆を前にして、舞台でその別の人間を演じる、俳優という職業である。役者の仕事は奇妙な喜びを、おそらく初めて知る喜びを教えてくれた。しかし、最後の台詞に喝采が送られ、最後の死者が舞台から引き下げられたとたんに、あの呪わしい非現実感がふたたび彼を襲うのだった。」

「その死の前であったか後であったか、彼は神の前に立っていることを知り、こう訴えた。「わたしくしは、これまで虚しく多くの人間を演じてきましたが、今や、ただ一人の人間、わたくし自身でありたいと思っております」。すると、つむじ巻く風のなかから神の御声が答えたという。「わたしもまた、わたしではない。シェイクスピエアよ、お前がその作品を夢みたように、わたしも世界を夢みた。わたしの夢に現れるさまざまな形象のなかに、確かにお前もある。お前はわたしと同様、多くの人間でありながら何者でもないのだ」」



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