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若林正恭×國分功一郎「対談 真犯人を捜して生きている」

☆mediopos-2278  2021.2.10

「すべての人に暇を!」

群れのなかに暇はない
ひとりでいる暇がなければ
内から生まれてくるものに
向き合うことはできない

小人閑居して
不善をなしたとしても
群れさえしなければ
それはそれで必要なこともある
そこからしか生まれないものがあるのだから

SNSのなかでねたみや誹謗中傷
批判攻撃が跋扈するのも
暇をもてあまして
群れのなかで
自我が暴走してしまうからだ

世の中は
暇をつくらせないように
さまざまな規則や絆で
ひとを群れに縛りつけようとする

管理社会は暇を不安の材料にさせる装置だ
コロナ禍でステイホームといわれるだけで
暇をもてあます人が多量に生まれる
むしろ贅沢な時間が与えられたとすればいいのだが

しかし暇という贅沢な時間を生み出していくには
それなりのスキルと覚悟が必要になる

世の中には「私を見て!」という
承認欲求ばかりが百鬼夜行している
そこからはできるだけ距離をとり
人と比べたり
賢く見られようとしたり
評価されようなどしないことだ

承認欲求が大きければ大きいほど
人はどうしても群れざるをえなくなる
群れの力学から離れることでしか
生まれないものがあるのだ

「すべての人に暇を!」
そして
その暇を贅沢で豊かな時間に!

■若林正恭×國分功一郎「対談 真犯人を捜して生きている」
 (『文學界』二〇二一年三月号 文藝春秋 2021.3 所収)

「若林/僕がすごく気になっているのが、TwitterのようなSNS上に誹謗中傷があふれていることです。人を自殺にまで追い込んでしまうこともある。なぜ、そこまでして人を攻撃したいのか、よくわからないんです。
國分/基本にあるのはねたみという感情だと思います。ねたみって、人間が持っている一番強い感情かもしれません。たとえば、革命もねたみで起こるだけです。一部の人間だけが得をしているのはおかしいってことですから。
 スピノザが非常に構造的にねたみを分析しているんですね。ねたみの根っこには、他人と自分は同等なはずだという意識がある。だから、自分が同等だと思っていた人間が優遇されたり、活躍したりすると、「なんであいつだけ・・・・・・」とねたみの感情に襲われる。
 逆に言うと、藤井聡太みたいに、とても自分と同等だとは思えない相手に対しては、そもそも違うと納得できるからねたみは感じない。
若林/比較するのは難しいかもしれませんが、人類の歴史から考えて、現代の日本はねたみが生まれやすい状態なんですかね。
國分/昔の人はうまいことを言うと思うんですが、やっぱり「貧すれば鈍する」という言葉で説明できるところは大きいんじゃないでしょうか。経済的に苦しくなると、ねたみが生まれやすい。
若林/格差社会ってことですか。
國分/ええ。経済的条件があると思いますね。いろいろと苦しいからこそ、「他の連中も自分と同じはずだ」と強く思っている。そう強く思っているから、優遇された人間に強くねたみもする。」

「若林/日本は多様化する方向に向かっているというけれど、やっぱり村っぽいところが残っているように思うんです。「多様性」とか「ダイバーシティ」とか言われているけれど、あれは「差別しちゃいけません」ということをみんなが共有しているだけで、多様なものを認めているわけじゃないんですよね。
國分/いまのは太字にしたいくらい、すごくいい指摘ですね。そうなんですよ、「差別はダメ」というのが共有されているだけで、多様なものが受け入れられているわけじゃない。
 SNSのことですけど、やはり鬱憤ということを考えますね。徳や価値観は時代によって大きく変化するけれど、同じ人間だから鬱憤が溜まるのはあまり変わらないんじゃないか。そうすると、その鬱憤を晴らす機会が以前とは変わってきていて、かつては考えられなかったような方法で鬱憤晴らしが行われているということはありえますね。」

「若林/一九八〇年代と今とじゃ、年の取り方が違いますよね。
國分/全然違いますよね。いま六〇代と言ってたってピンピンしているし。僕はいま四六歳ですけど、自分が小さい頃は四六歳というと、もう人生終盤に差し掛かっているというイメージがあったのにね。」
「國分/ずっと若いままでいないといけない。それはひどくしんどい。僕自身は動じないじいさんにすごく憧れがあって、何というか、植物のようなイメージですね。みっしりと根を張っていて、天候の変化なんかものともせずに立っているみたいな。今はまだまだ小動物みたいな感じで。ちょっと音が立つとキョロキョロしちゃう。
若林/それは体験の確実性が増しているってことですよね。お笑いでいえば、どんどんスべるのが平気になっていくようなものですね。
國分/スベるのが平気になるって、ある意味ですごくクリエイティブじゃないですか。
若林/じつは僕、最近そういう感覚を持ち始めたんです。自分でもすごく驚きで。やっぱりいままでは、センスがあると思われたい、それこそ使う単語であったりとか、切り取り方であったりとか、そういう能力が高いやつに見られたいと、承認欲求に縛られてたと思うんですよ。でも不思議なもので、最近は植物のような人のほうが強いんじゃないかという思いの方が強いですね。蛭子さんってずっと面白いじゃないですか。あと、五代目の古今亭志ん生の落語もそうなんです。「やる気が出ないんでね」なんて言って、ボッケボケにボケるところがかっこよくて。まだ変容している途中ですけど、そっちに憧れるようになってきた感じがあります。」

「若林/最近は絆というのがあちこちで求められる風潮があるじゃないですか。『鬼滅の刃』とか『ワンピース』でもそうだし、アイドルグループを見ていてもそう思うんです。でもその一方で、グローバリゼーションのもとで、個人と個人の間で格差や分断を生み出すような勝負をさせられているわけですよね。そこがつながらないというか、正反対に引っ張られているようなところがありますね。
國分/やたら自己責任が求められている一方で、社会では、絆、絆と言うからどこか嘘っぽく聞こえますよね。」
「國分/学校教育でも地域やコミュニティを大切にしていて、小学校でも親と学校と地域で見守るということがよく言われます。それはとても大切なことなんだけど、子どもたちがのびのび育っていくためにはそれだけでは不十分だろうと思いますね。
若林/やっぱり暇な時間が必要ですよね。(・・・)暇ってすごく贅沢なものなんですね。
國分/最高の贅沢ですよね。
若林/新橋で飲んでいるおやじたちは、けっこう贅沢なんですかね。
國分/そうなんじゃないですか。僕の友人で、現代社会に対して鋭い批評を行っている白井聡君という研究者が面白いことを言ってたんです。マルクスは共産主義社会を一回だけきちんと定義したことがあって、「朝は狩りをして、午後は魚釣りをして、あとは、牧畜をして、夜はルームチェアに座って文芸批評をする、これが、共産主義社会なんだ」と書いている。白井君はそれを引いて、新橋の飲み屋で飲みながらサラリーマンたちは、まさしく共産主義社会を実現していたのだと言っているんですよ。つまり、昼はサラリーマンをやっているけど、夜になると野球評論家になる。家に帰ればお父さんをやっているかもしれない。会社員であるだけでなく、阪神の批評家でもある時間をもつことは。人間が生きていく上ですごく大事なことじゃないか。」
「國分/それらを楽しむためにも、自分と向き合って自分と話をする孤独な時間があることは、絶対条件だと思うんです。昭和のお父さんたちは、野球中継を見て野球評論をしながら、自分と対話していた。「バースの今日のこのプレイは、十分に評価できない」とかね。それは暇という贅沢があるからこそできることです。『暇と退屈の倫理学』にサインする時、いつも「すべての人に暇を!」って書いているんですけど、それを今の世の中に対して強く言いたいですね。」

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