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ミヒャエル・エンデ『エンデのメモ箱』

☆mediopos3606(2024.10.3)

ミヒャエル・エンデが亡くなって
ずいぶんと経っていることを不意に思いだした

あらためて確認してみると
亡くなったのは一九九五年八月のこと
三〇年近く前になる

当時よりもさらに
ずいぶん陰惨な時代となっている世界を
エンデはいまどんなふうに見ているのだろう
そんなことを考える

ふと気になって
いまでもときおり読み返す
『エンデのメモ箱』の出版事情を調べてみると
(最初に単行本・続いて全集・そして文庫)
いまでは古書でしか手に入らないようだ

せっかくなのでそのなかから
いまでも変わらず示唆を与えてくれる
比較的短いアフォリズム的なメモのいくつかを
掲載されている順にとりあげておくことにしたい
(理解しにくい場合はそれぞれの引用部分を参照のこと)

「クエスト」
ミノタウロスとテセウスの迷宮の話
「人はだれも自分が探すものに変身する」

「単純」
真実は単純だというのは正しいが
簡単にはわからない
「これほどむずかしいことはない。」

「創造力」
科学は人間の創造力には手が届かない
「人間が自由なのは、みずからのなかから
創造的になにかを生み出し、
そうして自分の未来を形成することにおいてである。」

「はい、もしくは、いいえ」
唯物論は世界観であって
唯物でなければならないという観念は物ではない
「物質主義とは、すべてになんらかの説明を
用意している世界観だが、
それ自体の存在は説明できない。」

「第三次世界大戦」
わたしたちは第三次世界大戦のまっただなかにいる
「この戦争は領土ではなく、時間の戦争」で
「子孫がそこで生きることはたやすくない」
できるのは「子孫はなにか思いつくにちがいない」
そう「良心をなだめる」ことだけだ

「理想的」
「いつの日か、コンピュータが小説や詩や戯曲を
代わって書けるようになる」かもしれないが
それが「理想的」なものになるとしても
「なにが〝理想的〟なのかはだれが決めるのか?」

「知的世界のブローカーたち」
だれもが読み書きできるようにと
教えこむ教育者・知識人がいる
しかしそこには「代償」がある

「変身」
大いなる秘密のなかに入るには
「その秘密により変わらねばならない」
しかし秘密をつかんだ者は
「その秘密をどうしても教えることができない。
かれらが理解できないからだ。」
「こうして秘密はみずからを守る。」

「汝の十字架を負え・・・・・・」
水平と垂直は〝今、ここ〟で交叉するが
「時間のどの瞬間をも絶対者との関連に見ることは、
苦しみを受け入れることである。」

「世界を変える?」
「この世界を変えねばならない」といわれ続けてきたことは
「〝よりよくする〟という意味」だったが
この言葉は「今日でもなお避けられている。」
「そろそろ別の世界をさがさねばならないほどだ。」

加えて岩波現代文庫版の「あとがきに代えて」で
訳者の田村都志夫がエンデの文学における「悪」について
示唆していることにもふれておきたい

「真に悪い人はいない」
「「悪」というのは、ある「善なるもの」が
間違った場所にいるに過ぎない」からだ

「悪は虚無からこの世へ出現する」

「悪を見つめるエンデの視線は、そこから悪が現れ、
そこへ悪が消えていく次元として虚無を見る」

エンデのファンタジーは子どもだましの読み物ではない
ファンタジーそのものを考察することが求められ
「その裏返しとして、虚無を見つめることをも勧めている」

虚無を見つめることは
自由を獲得することでもあるだろう
そしてそのためには創造力が必要とされる

逆にいえば創造力によって得られる自由なくしては
「虚無」に呑みこまれてしまうことになる

しかし創造力も自由も
「大いなる秘密」のように
「単純」ではあるとしても
「これほどむずかしいことはな」く
だれもそれを与えることも教えることもできない

気をつけなければならないのは
「知的世界のブローカーたち」に
「読み書き」を教えられ
そこから得られる知識を覚えむことで
それを理解したと思いこむことだ

知識と智慧は異なっている
という知識を得るのは簡単だが
知識と智慧のあいだには超えがたい懸隔があり
水平と垂直の交叉する十字架で
血を流さなければその懸隔を超えることはできない

■ミヒャエル・エンデ(田村都志夫訳)『エンデのメモ箱』
 (岩波書店 1996/9/岩波現代文庫 2013/5)

・クエスト

「迷宮はミノタウロスの身体だ。怪物をさがして、テセウスが部屋から部屋へと歩くとき、テセウスはだんだんとミノタウロスへと変身してゆく。ミノタウロスじゃテセウスを〝わがものにした〟。だからこそ、テセウスは最後にミノタウロスを殺すことができないのだ。自分自身を殺すというのなら別だが。
 人はだれも自分が探すものに変身するのだ。」

・単純

「真実は単純だと、よく耳にする。それは正しい。しかし、なにか誤ったことを言いたいのではないかと、それだけが気にかかる。単純なことは簡単にわかるはずだと言いたいのではないか。しかしこれほどむずかしいことはない。」

・創造力

「世界の隠れた側から来るものがすべてそうであるように、人間の創造力も、測ったり、数えたり、重さをはかることができる、そのために科学の手がまったくとどかない。しかし、同時に創造力は重要な科学研究すべての前提条件でもある。ということは、科学は科学自身が説明できないものを基盤とし、そのうえに成り立っているのである。いうまでもなく、創造力の問題は人間の自由の問題と切っても切りはなせない。その存在の前提条件において、人間はけっして自由ではないのだから。なぜなら、過去がかたちとなったのが存在の前提条件なのだ。人間が自由なのは、みずからのなかから創造的になにかを生み出し、そうして自分の未来を形成することにおいてである。」

・はい、もしくは、いいえ

「裁判官が法廷で被告人に対し、質問には、はい、もしくは、いいえと、はっきり答えるよう、求めた。
 「そんなことはできません」と被告人が答えた。
 「馬鹿な」と裁判官は言った。「どんな問いにでも、〝はい〟か〝いいえ〟で答えられるはずだ」
 「ひとつ質問してよろしいですか?」
 「どうぞ」と裁判官。
 「判事殿は毎晩奥様をぶん殴ることをおやめになりましたか?」

  *  *  *

 物質主義とは、すべてになんらかの説明を用意している世界観だが、それ自体の存在は説明できない。物質主義は、それ自体を最後までよく考えないあいだだけ存在できるのだ。」

・第三次世界大戦

「一九四五年来、第三次世界大戦は起こりうるか、という問いが幾度も出た。わたしが思うに、わたしたちはもうそのまっただなかにいる。ただ、だれも気づかないだけど、なぜなら、この戦争は領土ではなく、時間の戦争だからだ。わたしたちは、わが子や孫に向かい、来る世代に対して、ようしゃない戦争を引き起こしてしまった。わたしたちは砂漠と化した世界を子孫に残ることになるだろう。子孫がそこで生きることはたやすくない。だが、子孫は応戦できないからた、わたしたちはこのままさらに進めてゆく。もはや、これ以外のことはできない。そして、(黙らせることができないなら)こう言い聞かせて良心をなだめるのだ。わたしたちがおこなったひどいことを償うために、子孫はなにか思いつくにちがいない、と。」

・理想的

「いつの日か、コンピュータが小説や詩や戯曲を代わって書けるようになる。それも、どの生身の作家よりもうまく(そしてとりわけ速く)書くようになる、と専門書で読んだ。なぜなら、とその専門家は理由をこう説明する。よい詩とは、積み木の理想的な結合にすぎないし、その積み木は全部すでに存在するもの、つまり語彙や言葉のメロディーや考えなのだからだ。たしかに現在はまだそこにまで至っていないが、それほど遠くない未来には、研究開発はこの地点に達するだろう。そうすれば、必要な構成要素はみんな集められるし、インプットして記憶させることができる。これはむろん音楽や、そのほかの芸術でも同じことだ、と。
 よろしい、と、わたしは反論したい。しかしこの論にはひとつ難点がある。すなわち、なにが〝理想的〟なのかはだれが決めるのか? コンピュータかね?」

・知的世界のブローカーたち

「進歩は、その代償だけのことはある!
 まぬけたちも生きたいと思っている。
 だから、かれらに読み書きが教えられた。
 そこで、かれらは読み、書くというわけさ。」

・変身

「大いなる秘密とは、あるきまった答えがある謎ではない。そのなかに入るには、その秘密により変わらねばならない。そうさせぬ者やできぬ者はただ空(くう)をつかむだけだ。しかし、それができた者は、させぬ者やできぬ者に、その秘密をどうしても教えることができない。かれらが理解できないからだ。
 こうして秘密はみずからを守る。」

・「汝の十字架を負え・・・・・・」

「水平は、時間や前後や道や、また因果性の次元を意味する。垂直は、永遠なるものや常にあるものや創造的なものの次元を意味する。その両方が交叉する箇所が、〝今、ここ〟なのだ。時間のどの瞬間をも絶対者との関連に見ることは、苦しみを受け入れることである。」

・世界を変える?

「この世界を変えねばならないとは、ここ百五十年来、よく言われ、書かれつづけてきたことだ。むろん、それは〝よりよくする〟という意味だったが、しかしこの言葉は避けられ————今日でもなお避けられている。「世界をもっとよくしよう」と言うと、実際的な響きが乏しいからだ。さて、われわれが世界を変えたことはうたがいがない————それは、そろそろ別の世界をさがさねばならないほどだ。」

*******

**(田村都志夫「エンデ文学における「悪」について————岩波現代文庫版あとがきに代えて」より)

「エンデ文学に現れた「悪」について、考えてみよう。」

「真に悪い人はいない・・・・・・、それは子どもの読み物にあまりにふさわしい「悪」観に聞こえる。」

「いや、そうではない。
 一九七七年に発表された或るインタビューで、エンデはこう話しているのだ。

 「悪」というのは、ある「善なるもの」が間違った場所にいるに過ぎない、というのが私の意見です。」(「未知の世界をもとめて」聞き手/訳 佐藤真理子「子どもの館」一九七七年四月号所収 五九ページ)」

「この世に、真に悪い人はいない、が、悪は虚無からこの世へ出現する、ということなのだ。たしかに、この事情を簡単に説明するのは難しい。虚無と悪とは同じではないのだから。
 『はてしない物語』とは、この事情を考える作品でもあるとわたしは思う。
 たとえば『はてしない物語』で、無気味な黒甲冑の軍団は、中身がなく虚ろな存在として描かれている。
 中身がない・・・・・・、無・・・・・・という話は、後期短篇「郊外の家」における中身がない邸宅を思い出させる。その虚ろな虚無へ、ショアス・ヴァリとナチスの高官たちは消えてゆき、邸宅そのものも消えてしまうのだった。この世には、何の痕跡も残らない。
 悪を見つめるエンデの視線は、そこから悪が現れ、そこへ悪が消えていく次元として虚無を見るのである。それゆえ、エンデ文学における悪を考えようとする者は、その次元として「虚無」を考えることになる。
 エンデ文学は、ファンタジー考察へ招いてくれるが、同時に、その裏返しとして、虚無を見つめることをも勧めているわけだ。(・・・)わたしの目には。それが「無意味の闇」として現れることだけを記しておこう。この闇はとてつもなく深い。」

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