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鷲田清一『所有論』/中沢新一「芸術とプライバシー」(『ミクロコスモスⅡ』)

☆mediopos3544(2024.7.31)

鷲田清一『所有論』は
『群像』二〇二〇年三月号から二〇二三年十一月号に
「所有について」として連載されたものの単行本化(全二十七回)

このmedioposでも連載時に以下でとりあげている
mediopos1913(2020.2.10)〔1 だれのもの?〕
mediopos2645(2022.2.12)〔11 人格と身体の連帯性の破棄〕
mediopos3094(2023.5.8) 〔21 制度から相互行為へ/
              22 《受託》という考え方〕
mediopos3252(2023.10.13)〔27 危うい防具〕

なお単行本化にあたって
「21 制度から相互行為へ」は削除され
随時Noは繰り上がり全26章の構成となっている
(連載時の際の引用については雑誌掲載時のもの)

以前とりあげたことを簡単に振り返ると

「所有」しているということは
近代の法的認識のような
じぶんのものとして専有する権利ではなく
「預かっている」ということであり
そこには義務と責任が伴っているため
「所有」を「受託」としてとらえかえす必要がある

さらには「所有」することよって開かれる可能性を
生成させていく責任をも果たすためにも
「所有」の概念を
「未来を拓くものとして編みなおす」必要がある

・・・ということになるだろうか

この鷲田清一の『所有論』は
「主体と存在、そして所有」という
西欧近代的思惟が形成してきた「鉄のトライアングル」を
その「拘束から解き放つ」もので

その巻頭には長田弘の『世界はうつくしいと』から
「なくてはならないものは、けっして
 所有することのできないものだけなのだと。」とあり
第一章はまさに「だれのもの?」と題されているのだが

最終章「危うい防具」でも
「所有」「所有権」の問題は
未来の世代に向けての「義務と責任」という
まさに「危うい防具」としての示唆で終わっていて
そこでは「所有することのできない」
「なくてはならないもの」という視点については
あまり見えてこないのではないかと感じられた

その「所有」の問題が
「私」はどこにあるかということをめぐって
プライバシーとパブリックの境界線という視点から
論じられている中沢新一の講演がある

『ミクロコスモスⅡ』に収められている
一九九四年に行われた「芸術とプライバシー」という講演である

「プライバシー」とは「プライベート」の派生語で
「私の(もの)」という意味だが
「「自分が「何かを所有している」という考えは、
自然に発生したものではなく、
歴史のなかでつくられてきた概念であって、
私たちは、プライバシーの観念がどこから発生したのか
という原初の契機が、ほとんど忘れられた状態で生きている」

「誰しも「私」という観念をもっていて、
自分のからだは自分のものだし、
「私」という存在は自分のものだと思ってい」るが
決してそうとはいえない

「「私の名前」は「私のもの」」だが
「それも他の人間が「私」に与えてくれたもの」

言葉もまた「相対の関係のなかで、差異の体系」としてあり
「絶対的なプライベートというものは存在しない」
それは「社会、つまり他者が「私」を通じて、
「私」のなかにつくりあげている幻想のかたち」であって
「プライベートとパブリックの境界というのも、
本来は、存在しない」

「プライバシーは財産の観念と深く結びつ」ているが
「財産というのは、存在を不滅なものに
つくり変えていこうとする人間の欲望にもとづいて
築かれてきた文明の根底にある問題」にほかならない
それは鷲田清一『所有論』における「危うい防具」でもある

そうしたなかで
「社会の共有され得るもののなかには、自分の真実はない、
という強烈な直観を抱きつづけている人間」が芸術家で

「芸術の真実は、形を与えることすらできないもの」
つまり「何の見返りもなく、何の保証もなく、
何の意味もなく、人間に与えられたギフト」に根差し
そこに「プライベートの問題が絶対究極の形として
あらわれてくる」のだという

それこそまさに「所有することのできない」
「なくてはならないもの」にほかならないだろうが
これは「芸術家」にかぎらず
根源的な自覚が求められる非常に困難な課題だろう

「所有」の概念を
「未来を拓くものとして編みなおす」ためには
それが根源的な「ギフト(賜物)」なのだというところから
開かれていかなければならないのではいかと思われる

あらためて「所有」ということで実感させられるのは
現代においてはまさに「自我」が問われているからだろう

■鷲田清一『所有論』( 講談社 2024/2)
■中沢新一「芸術とプライバシー」
 (中沢新一『ミクロコスモスⅡ————耳のための小さな革命————』中公文庫 2014/3)

**(鷲田清一『所有論』〜「1 だれのもの?」より)

*「《所有権》は、歴史のある段階で、個人の(場合によっては組織や団体の)自由と独立と安全とをぎりぎりのところで護る権利として措定されたはずなのに、現代社会ではそれが過剰なまでに強迫的にはたらきだして、逆にそれがその自由と独立と安全にとって足枷や縛りや桎梏として立ちはだかる、そのような場面が増えている。マンションの建て替えや空き家の処分の難航、著作権の厳格さからくる制作や表現の困難、家族の孤立、地域生活におけるおおらかさの消失、「自己責任」という名の他者からの切り捨てから、人工中絶や安楽死の問題、さらに故国から脱出やはるか離島の領有権をめぐる攻防まで、《所有権》という観念は、寄り合いや助け合いや譲り合いの場を、あるいは自他のグレイ・ゾーンやコモンな空間を、いよいよ狭め、消し去らんばかりである。」

*「ある物をめぐる所有〔権〕は、本来他人に譲渡可能なものとしてある。ある物がだれに帰属するか、それが係争の種となるのは、物をめぐる所有〔権〕が譲渡可能なものだからである。が、その所有〔権〕を意味するpropertyは、同時にまた人それぞれの掛け替えのなさ、つまりは「固有性」を意味する語でもある。譲渡可能な所有〔権〕を意味するpropertyがなぜ、人それぞれの固有なあり方、つまりは譲渡不可能な存在についてもいわれるのか。そこに《市民》という近代的な存在様式のその特異さがある。人びとが自己を《市民》として意識してゆくプロセスは、人びとが自己を「所有の主体」、すなわち何ものかをわたしだけに帰属するものとしてもつ主体として規定してゆくプロセスと切り離せない。そしてのちの議論を先取りしていえば、この<わたし>に固有なもの、つまりわたしだけのものは、逆説的にも、「<わたしだけにとって>(pour-moi-seulement)ということの否定」を媒介にしてしか存続しえないということが、<所有>を考えるときに外せない重要なポイントの一つなのである。」

*「世界はただ「ある」のではない。それは「何かとしてある」。いいかえると、世界のいかなる事象もつねに何かとしてとして現れている。実在として受けとられる事象のみならず、虚想や沈黙もまたそれぞれに「虚想」「沈黙」として現れている。<として>は何かしらの意味においてということである。このような世界の現れの意味による媒介は、現象学の流れをくむ解釈学的哲学によって「<として>構造」(Als-Struktur)とよばれてきた。これとは別に、世界はあるものを<地>とし、そこから特定のものを<図>として浮き立たせるという仕方で、おのれを分節しつつ現れてくるという言い方もなされる。

 世界はしかし、「何か」として現れるだけではなく、同時に「だれかのもの」として現れる。わたしたちがこの世界で出会うものはいずれも特定の「だれかのもの」である。

*「だれかのもの」とは、だれかの所有物だということ、特定のだれかに「帰属」するものだということである。領海・領空から各人の身体まで、現象学的にはおそらくそうである。とはいえ、「何かとしてある」というのが、世界の現れを制約している条件としていわれるのに対し、「だれかのものとしてある」というのは、決められたもの、つまり歴史的な制度のなかでいわれるものである。文化人類学の知見が示すように、「だれかのものとしてある」という意識がきわめて希薄な文化というものもめずらしくはない。ただ《所有権》という、あくまで権利の視点から見るならば、所有(権)のまなざしから外されるものは、ほとんど例外的にしかありえないといえるだろう。そのとき重要なのは、<所有>がつねに(対立や抗争、合意や妥協もふくめて)係争の案件として浮上してくることだ。」

**(鷲田清一『所有論』〜「11 人格と身体の連帯性の破棄」より)

*「わたしの体、服、鞄、部屋、家族。わたし[たち]の学校、会社、そして国・・・・・・。世界は何ものかとして現れるだけでなく、だれかのものとしても現れる。(・・・)モノとの関係、人との関係、あるいは能力とか成績とか履歴。そういうことがらの隅々にまで、それが「だれのものか」という判断が浸透しているという、あえていえば強迫的な事実は、社会をどのような磁場へと引き込んできたのか、という問題といいかえてもよい。〈所有〉をめぐっては、土地の境界にしても、物品の帰属と所有者が有する権利についても、能力と報酬の査定にあっても、現代人は強迫的なまでに緻密にそれを決しようとする。一人ひとりの存在の内実は、その人が自由に用い、また処理できるものとして何を所有しているかに、ひたすら置き換えられてきた。しかもその所有は、他者による浸蝕や介入をきびしく監視するような、いってみれば《免疫》機構のような排除性や閉鎖性を特徴としている。〈所有[権]〉という、過剰なまでに緻密化しかつ偏在化したこの観念的=制度的なシステムが、どのような歴史的脈絡において成立し、増殖し、そしていまどのような境位にあるのか。

 わたしたちがこうした問題提起の核にまず据えたのは、次のような問いであった。第一に、〈所有[権]〉という観念がどのような意味で、近代の市民的自由というものの礎となり、またその過程で逆に、桎梏ともなってきたのかということ。第二に、「〜のものである」という(所有者へのモノの)〈帰属〉の問題は、〈所有〉のそれと同一視できるものなのかということである。

 さらにそれに併せて、次のようないくつかの問題も、付随的というよりは右の問題と内在的につながるものとして提示しておいた。一つは、所有権をもつということは、当該のものについて可処分権(もしくは自由処分権)があるということと同一のことを意味しているのかという問題である。あえて雑駁な言い方をすれば、「これはわたしのものだ、だからそれをどうしようとわたしの勝手だ」という理屈は正当なものかということだ。

 いま一つは、〈所有〉の問題は〈もつ〉という問題とおなじであるのかということである。別の言い方をすれば、「ある」ということと「もつ」ということの関係はそのまま〈存在〉と〈所有〉の関係といえるのか、とりわけ〈所有〉ははたして(対象を持つという他動詞的な意味での)「もつ」と同一の事態をいっているのかどうかということである。

 そしてこうした疑問は、〈所有〉を表してきた二つの語がそれぞれにみずからを裏切るような反転性を有しているという語彙上の問題とも関連する。まず、property。この語は、一方で〈所有(権・物)〉を表すが、他方で、物や人の〈固有〉性を表しもする。つまり、所有(権・物)という譲渡可能なものと、固有性という譲渡不可能な、つまり代替不能なものとを、同時に表すということである。次に、possession。何かをじぶんのものとして持つこと(占有)を表すこの語は、同時に、何かに取り憑かれていること(憑依という被占有の状態)を表すということである。」

「人は所有者であることを止めることによって所有者になるという、〈所有〉をめぐる逆説を、ヘーゲルは提示した。彼自身の言葉でそれを再度確認すれば、〈所有〉のプロセスというのは、「私が他の者と同一的なある意志のうちに、所有者たることをやめるかぎりにおいて、私は対自的に有る所有者、他の意志で排除する所有者であり、かつありつづけるという矛盾がそのなかであらわれて媒介される過程」であるとしたのだった。

 ここに提示されているのはなかなかにきわどい論点である。(・・・)

 一つは、〈所有〉という事態には「放棄=譲渡」の可能性が不可欠の前提として含まれているという点である。

(・・・)

 そうだとすると、所有する主体としての〈わたし〉の存在もまたいずれ、〈所有〉の論理に呑み込まれざるをえない、そうした理路を撥ねつけえないことになる。これは、身体もまた所有の対象となる外的な物件(=わたしの身体 mein Körper)の一つに数え入れることができるということ、身体はまぎれもない〈わたし〉の「自由の現存在」(=わたしのもの das Meinige)であるということとのあいだにヘーゲルが敷いたその隘路を、ふたたび閉じてしまう。これが第二の論点である。(・・・)

 そして第三の論点、これは〈わたし〉という所有する主体の自己同一性にかかわるものである。身体や生命はほかならぬわたしのこの現存在として、ほんらいは所有の対象ではありえないものである。わたしはそれらに養われており、それらはつねにわたしのもとにあるものであって、すくなくともそれらはわたしの存在にとって「外的」なものではないし、わたしはそれらを意のままにできる「主人」なのでもない。」
「ヘーゲルにおける三つのきわどい論点を、いっそう尖ったかたちで再提示した人に、二十世紀という百年をほぼ併走して生きたフランスの思想家、ピエール・クロソウスキーがいる。その彼は、著書『ルサンブランス』(一九八四年)に収められた「ステレオタイプの使用と古典的統辞法によってなされる検閲について」という論考を、ヘーゲルの言葉をそのまま復唱するかのように、次の一文で締め括っている。−−−−「私の財は、これを譲渡することによってのみ、私にとって譲渡不可能なものであり続ける」。

(・・・)

 ここでは、ヘーゲルの「きわどい論点」として先に析出した三つのものが、集約されて語られている。すなわち、

  ①〈所有〉にはその不可欠の前提として放棄=譲渡の可能性が含まれていたが、そこから所有主体もまた代替可能であること。
  ②〈所有=固有〉はすでに非固有性という契機に蚕食されており、そのかぎりで〈わたし〉の存在もまた所有の論理に呑み込まれること。
 そして。
  ③〈わたし〉の同一的存在とその固有性もまた、レトリカルな仮構であること。
 が、ここではより先鋭なかたちで語り出されている。

(・・・)

 クロソウスキーによれば、身体と〈わたし〉との結びつきは偶然的なものでしかなく、したがって、身体は「わたしの所有物」ではなく、むしろ「ひとつの通過地点」(unlieu de passage)にすぎない。そう指摘するアラン・アルノーは、、クロソウスキーにおける身体の観念を次のように解している。−−−−肉体(身体)は、ひとつの舞台(scène)であり、したがって、あらゆる舞台と同様に、そこで演じられる見世物しか、また、時の経過のあいだに進行する出し物しか存在しない。この見世物は、別の舞台でも催されることができるであろう。

(・・・)

 ここから浮かび上がってくる身体イメージは、わたしがわがものとして所有する身体のイメージとは大きく異なる。ここにあるのは「「私」の中に不定形な無数の力が入り込んでいるというヴィジョン」である。いいかえるなら、ここにあるのは、「私」と「身体」との内密で自己閉鎖的な関係ではなく、むしろ「「私」の分裂であり、多数化であり、偏在化である」。」

「さらにこれに重ねる必要があるのが、(・・・)ある身体がわたしの身体であることと、それがわたしによって所有されているということとは、同一の事態ではないという論点である。

(・・・)

 人格概念の論理的原初性という第一の論点と、わたしの身体の存立それじたいがすでにより根源的な同化=自己固有化の結果であるという第二の論点を重ね合わせれば、「身体から、〈わたし〉による所有(権)を解除する」こととしてクロソウスキーが描きだしていた身体の状況が、正確には、だれかのものでもあるというのではなく、むしろだれでもありうるということなのだということがわかる。
 「私の財は、これを譲渡することによってのみ、私にとって譲渡不可能なものであり続ける」ということ。ロックの語彙でいえば、人はだれでも自身の身柄[身体]に対するプロパティをもつというプロセス(自己固有化appropriation)のプロセスでもあるということが、ヘーゲルからクロソウスキーに受け継がれたもっとも重要な論点であった。そしてこれはまぎれもなく、わたしの身体はわたしの《私有財産》であるという幻影を生じさせる当の、まさにきわどい論点でもあった。」

*「身体がいろんな人物になるということ、それを生業としているのが俳優である。身体はパーソンの憑かれる(possessed=占有される)。いいかえると、身体は俳優としてある。

 (・・・)

 わたしたちは、〈所有〉の演劇的起源という、これまでとは別の問題圏へと誘われる。所有と譲渡・祭祀との概念的つながりの探求である。そのとき、占有(possession)ということが同時に憑依でもあるということの意味するところ、さらには、「私の財は、これを譲渡することによってのみ、私にとって譲渡不可能なものであり続ける」という固有(prooriété)と譲渡(alienation)[脱固有化]の共範的な関係にも、あらためて光を当てることになるだろう。」

**(鷲田清一『所有論』〜「21 制度から相互行為へ」より)

*「《所有〔権〕》の概念の失効ということについては、かつてピエール・ジョゼフ・プルードンが、それが概念としてそもそも不可能なのだと指摘していた。」

*「プルードンは〈所有〉をめぐり、一八四〇年の『所有とは何か』でも一八四八年の『貧困の哲学』(・・・)でも、「所有、それは盗みだ!」(・・・)という紋切り型の表現を繰り返している。」

*「プルードンによる所有〔権〕の定義は、(・・・)「他者のもの」を横領し、「わたしのもの」として濫用することと、みずからは働かずしてそれを詐取ないしは着服することという二つの契機からなる。そしてそれを理由として、所有〔権〕を否定する。」

*「プルードンの議論がわたしたちにより多くの示唆を与えてくれるとすれば、それは「所有とは盗みである」というテーゼとは別に導入された二つの概念によってである。一つは、のちの『貧困の哲学』で提示された「系列」(sèrie)の概念である。プルードンは所有〔権〕について、それを単独の概念、あるいは単独の事象として論じることはできないという。「所有」という事象も「所有権」という概念も、他のさまざまな事象や概念との、システマティックな関係の布置によってはじめてその象りを得るのであって、その布置をプルードンは「系列(セリー)」と呼ぶ。」

*「プルードンの言説で注目しておきたいいまひとつの概念は、「受託者」もしくは「用益権者」のそれである。(・・・)プルードンはそこで人間の「才能」について、いかにそれが優れた天性であっても、社会から授かる教育と援助がなければ、あるいは数多くの先行者や手本がなければ開花することはなく、だから個人の「才能」も、「蓄積された資本であり、それを受け取る者はその受託者(dèpositaire)」たるにすぎない」と述べている。」

**(鷲田清一『所有論』〜「22 《受託》という考え方」より)

*「人びとが「じぶんの所有物」と称しているものは、じつはその人に託された(confiè)ものであるということ。そうした感覚は、あるものを「じぶんのものとして専有する」(s'approprier)のではなく、まさに「預かっている」という感覚である。そして重要なことは、だからそこにはなにがじかの責任が伴うと、つまり「自分に託されたものに責任がある」(・・・)と、いわれていることである。

〈所有〉という関係がじっさいには《受託》の関係であるとすると、当然のこととして所有の主体も「受託者」というポジションに移行することになる。」

*「《受託》というこの視点を所有〔権〕論のなかに導入することで、〈所有〉の問題はどのように再設定されることになるのだろうか。」

*「さしあたってすぐにそこから導き出される論点は二つある。一つは、あるものを所有していること、つまりはその「所有権」(・・・)を持っていること、つまりは「自由処分権」(・・・)があることとの等値がここでは妥当しないということである。いま一つは、所有する者よりも所有されるもののほうがより永続的に存立するということである。」

*「《受託》ということが成り立つのは、所有されるもの、つまりは財産が所有する個人の生の有限の時間を超えているからである。そこでいやでも比較の対象としたくなるのは、手仕事における道具との関係、あるいは表現における言語との関係である。

 たとえば大工道具。先輩から譲り受けたものであれ、新調したものであれ、それらを何度もくり返し使うなかで、だれにも軽々しく触れてほしくないし、使ってもらいたくないものになってゆく。その意味では排他的ではある。けれども引退するころになると、たしかに癖があるが、使い込んできたからこそ熟れたそれを、だれかに譲ることも考えるようになる。じぶんの身体の一部になっているそれを手放すのは寂しいものだが、だれかに大事に使ってもらえれば道具を死蔵するよりははるかにいいとも思う。名を継ぐなどの例をあげて述べたのとほぼ同じことが、この道具の場合にも言えそうである。

 あるいは言葉。言葉もまたわたしたちが考え出したものではなく、先行する世代から贈られたものである。わたしたちがそれらを口にするなかでじぶんというものを象ってゆく。もちろん、言葉はそれじたいがだれかに用いられなければ存続もしえないが、しかし所有関係とおなじで、使う者よりも使われる言葉のほうがいのちは長い。つまり「永続性」がある。となると、それぞれ独自の流儀やスタイルで表現するわたしたち一人ひとりが言葉の「器」であるわけで、言葉はそういう一人ひとりの使用を機縁として、そうした場面を超えて存続するものであるといえよう。

 そのとき、道具を大切にするのも、言葉を大切にするのも、それがじぶんのものだからではなく、まちがいなくみずからの身を養ってきたものだから、そしていずれ別のだれかが使うかもしれないからである。プロパティとは、それぞれの人が事物とのあいだで紡いできた私秘的な関係を護るために、それぞれの人がとるべき公的な責任をさすともいえそうである。そしてさらにそう考えるなら、その先に、この《受託》の「適切さ」(propriety)こそ、 propertyという概念の実質をなすものではないのかとさえ、先走って考えたくなる。」

**(鷲田清一『所有論』〜「27 危うい防具」より)

*「わたしが何かを所有しているという関係は、わたしという同一的な主体が、何かある対象をじぶんのものとして、つまりその有りようをみずから決することのできるものとして保有していることというふうに、通常は思念されるのであるが、しかし、このわたしと特定の対象との関係を《所有》の関係として規定し、下支えしているものは、けっして「わたし」という主体なのではないということ。このことをわたしたちはさまざまな視点から浮き彫りにしてきた。《所有》という関係は、所有する主体と所有される客体との恒常的な関係ではないこと、いいかえると、所有する者としての「わたし」と所有される物としての対象との関係は、「わたし」と当該対象との閉じた関係としてあるのではなく、つねに社会的な承認や受託という契機を内蔵することではじめて《所有》へと構造化されていること、つまり《所有》関係の形式である所有者/所有物はそれぞれに独立に二項ではなく、「わたし」はつねにある対象の所有権をめぐる係争に曝され、いつ破棄されるやもしれないし、当該の対象もまたどのような意味で、どこまで所有権の対象であるのかも「わたし」の意志によっては決しえないということ、それゆえにまた、ある物について所有権をもつことはかならずしも所有する者がそれを意のままにしうる権利(=自由処分権)を意味するものではないということ————極端なことをいえば、「これはわたしのものだ」という言明からはかならずしもつねに「だからそれをどう処理しようとわたしの勝手だ」という言明が続くのではなく、「だからみなに分け与えることができる(あるいは、分け与えなければならない)」という言明が続きもするというところまで想像を拡げる必要があること————、しかしその一方でまた、この《所有》の(権利というよりも)契機なくしては人の生存、ひいては「わたし」の存在も成り立たないこと・・・・・・。このようなことを視野に入れたうえで、わたしたちの生存もしくは《存在》に《所有》という契機があらためてどのようなかたちで組み込まれているのかを考える必要がある。」

*「本連載がその冒頭で、「ある」と「もつ」という二語をめぐるエミール・バンヴェニストと和辻哲郎の論攷を手がかりに、とりあえず議論の起点として確認しておいたのは、《存在》と《所有》の対置ではなく、むしろそれらの相互共軛的な関係であった。」

*「「所有」が「存在」を支えるとときの「所有」は、あるモノが「だれのものか」というモノの帰属をめぐってその権利をたがいに主張しある近代的な「所有権(プロパティ)」の「所有」ではない。「持つ」「有つ」「保つ」・・・・・・と意味の含みを拡げるこの「もつ」はどういうかたちで「存在」を支えているのか。いや、こういう問い方は正確ではないだろう。「存・在」こそ(和辻にいわせれば)「忘失・亡失」に抗ういとなみ、すなわち「把持」であり、「有」こそ何かの「失」を回避するかたちで「有つ」(=保たせる)ことであったのだから、「存在」も「有」もこの三重の「もつ」をその存立の核としているのである。

 そして、《所有》を《受託》として捉えかえすべきだというわたしたちの議論が引き継いでいかなければならぬのも、まさにこの論点なのである。《所有》を《受託》へと読み換えてゆくことの意味はおそらく、次の二点に集約できると思う。

 一つは、《所有》といういとなみが最終的に帰着すべきところは、主体による「これはわたしのものだ」という「私的所有」の権利要求ではなく、むしろ状況にとって何がもっとも適切な配置かということ、つまりは「所有=固有権」(property)ではなく「適切さ」(propriety)だということである。

 いま一つは、《所有》において最後に問題となるのは、その権利の由来するところというよりもむしろ、当該のモノもしくは事態をこれからどう維持し、またその可能性をどう生成させてゆくかということである。《所有》は権利である以前に、まずは義務もしくは責任としてあること、いいかえると、それは「帰属」の問題というよりもむしろ「帰責」の問題だということである。」

*「「自己決定」とか「自律」とかの観念はつねにある限定された脈絡で用いられるべきであって、個人の「存在」全体を表す語としては不適切なものである。これが不適切である理由は二つあって、一つは自律という意味での「自己決定」はそれが主張される文脈を取り違えるとそのまま金泥の排他的な私的所有の権利にスライドしてしまうからであり、いま一つは、人は自己決定するにも、じぶんが何を望んでいるのかさえ不明だからである。自己決定するのはわたしたちには見えないものが多すぎるのであって、自分についてさえ実のところ責任を取りきれないからである。人はじぶんでじぶんのことが決められない。そういう不完全な存在だからである。」

「《受託》とはそもそも何かを預かり、その保管や処理、運用を委されることである。そして何よりも「わたし」というもろもろの行為をなす者は、人びとの社会生活のある局面を一つずつ委託されるなかで、それこそ責任を負うことのできる一主体として自己形成してゆく。つまり、ひとはあくまでそのつど共同生活上の役割(ペルソナ)を預かることで「わたし」という一つの人称的位格(ペルソナ)を得る(贈られる?)のであって、はじめからそうした主体であるから「だれ」という名をもった人になるのではない。じっさいわたしの考え、わたしの言葉一つとっても、それはすでにどこかからの引用であって、わたしがゼロから創出したものではない。だからロック的な論理においてさえわたしのものではない。」

*「《所有》を「権利」の地平でのみ捉えないこと、そして《所有》の概念を未来を拓くものとして編みなおすこと。この二つの視点が本稿にとって意味するところを最後に見ていきたい。

 《所有》を「権利」の問題と見ないということ、つまり法的な次元でのみ論じることはしないということ、これをわたしたちなりに表現しなおせば、《所有》を、何かがだれかのものであることとしてではなく。だれかのものになることとして捉えるということであろう。そのことはつねに自他のあいだで係争の的になる物件の所有をめぐってというよりも、さらに各人にとってのっぴきならない自身の身体、ならびにじぶんを養ってきた知識や能力についてより際立ったかたちで問われるべきことである。」

*「人は身体を拘束されたり、一定の身体活動を強制されたり、暴力をふるわれたり、ときに陵辱されたりしたとき、だれにも譲ることのできない自己のこの身体の「所有権」を楯に、抗議したり、訴訟を起こしたりすることができる。しかしこの概念の防具も、それを過剰適用すれば逆に、「この身体はわたしのものだから、それをどう扱うかはわたしの自由だ」というふうに、自身の身体的な存在を排他的な私秘性のほうに約めてしまうことになる。また拷問にさらされるという極限的な場面で、〝この身体は所詮はわたしの所有物でしかないから、おまえの好き勝手にすればよい、それで所有者としてのわたしの存在が破壊されるわけではない〟というふうに、「所有権」の概念を楯におのれの主体的存在を護るというケースもありえよう。しかしその場合、主体としてのかぎりにおける「わたし」は身体のない主体であって。世界を感受しつつ生きる「わたし」ではない。「わたし」という存在の毀損や破壊を迫られる場面でのぎりぎりの自己救済の試みでではあっても、しかしそれは緊急避難というべきものであって、自己を私的なものへと閉じるかぎりで、この「所有権」という防具にはやはりどこまでも危うさがつきまとう。

 (・・・)知識の所有についても同じことはいえるのであってm「わたし」だけの所有物としてなにかオリジナルな知識などというものは存在しない。個人の知識も、言語そのものとおなじく、幼い頃からその人に社会から供与され、また植え付けられてきたものであり、いわば「引用の織物」とでもいうべきものであって、わたしの所有を超えたものである。「わたし」はせいぜい、それを使う「器」というべきものであって、剽窃や盗用の問題も一義的には決定できないようなむずかしさがある。」

*「そして最後に(中空による)第二の提案、《所有》の概念を未来を拓くものとして編みなおすということである。

 未来の世代に向けての「義務と責任」というにしても、未来の世代はしかし未だ存在しないものである。未来の世代はそのかぎりで約束も契約もしようがない存在である。つまりその「義務と責任」は、いずれかならずわたしたちの後を生きることになるはずの人たちに向けての「義務と責任」であり、現時点では不在の、仮想の人たちからの信任ないしは負託に応えるというかたちで果たされるものである。ここで示される「義務と責任」はそのかぎりで《所有》を「未来へ拓く」、一つの贈与として取り組まれるべきものであろう。というのもそれは、「これはわたしのものだ、だからそれをどう扱おうとわたしの自由である」という主張から、「これはわたしのものだ、だからそれはみんなに分け与えることができる」という逆の発想へと人を動機づけるものだからだ。それはつまり、「秘匿し、護る」自由ではなく。「手放す」「分ける」用意があるという志なのである。「手放す」用意、「分ける」用意があるというのは、戴いたもの、授かったもの、借りたものは、与えてくれた人、授けてくれた人、貸してくれた人に返すのではなく、それが必要なのに足りない別の人に贈ることで返す、あるいは内蔵する社会を次の世代のためにあらかじめ形づくっておくことが、現世代の究極の「義務と責任」だということであろう。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「「私のもの」という観念」より)

*「プライバシーとは、「プライベート」の派生語です。プライベートとは、パブリックなものではなくて、「私の(もの)」という意味ですね。では、この「私の(もの)」という観念が当たり前のものかというと、そうではないのではないか。」

*「本来は、空気も水も、そしておそらくは土地も、誰のものでもなかったと思います。ところが、いまや、土地は、どんな小さな区画であっても、かならず誰かの所有物になっています。そのうち、空気も水も私有財産化されるかもしれません。「誰のものでもない」はずのものが、「誰かのもの」になってしまうということは、「誰かものである」ということも、じつは無根拠で。あいまいな幻想にすぎない、ということを曝露しているのかもしれません。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「「私」はどこにあるのか」より)

*「自分が「何かを所有している」という考えは、自然に発生したものではなく、歴史のなかでつくられてきた概念であって、私たちは、プライバシーの観念がどこから発生したのかという原初の契機が、ほとんど忘れられた状態で生きているのだと思います。」

*「自分のからだが「私」なのかというと、たとえば私の大腸には、たくさんの大腸菌やバクテリアが共同で生活しています。私のからだの中で、たくさんの微生物やウィルスが活動をつづけています。それらは当然それぞれが独立した生物ですから、「私」であるとは言えません。無数の微生物やウィルスの集合体であり、それらが強制して私たち人間のかただはできています。」

「ところが私たちは、誰しも「私」という観念をもっていて、自分のからだは自分のものだし、「私」という存在は自分のものだと思っています。私が最初に「私」になっていくプロセスを考えてみますと、第一に登場してくるのは、おそらく名前でしょう。しかも、この名前というのは、自分でつけるのではなく、親が決めたり、親類の人が決めたりして、言ってみれば用意された名前のなかに子供は生まれ落ちます。そして、その名前をもって、何十年間か、この存在の世界を生き抜いていくことになります。」

「言葉をしゃべるということ、そして名前をもっているということが、プライバシーの観念の最初の形態としてあらわれてくるのだと思います。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「名前をつけると財産になる」より)

*「言葉をつかってまわりの世界に名前をつけ、それを自分に関係付けることをしないと、人間は外の世界を自分のなかに取りこむことができません。」

*「子供がおこなう言語習得の訓練というのは、言葉と名づけによって、自分のまわりの世界に財産を殖やしていく過程なんだということえす。言葉ともに世界は存在するようになり、言葉は、世界にある存在を財産にする働きをしているのだということがわかります。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「財産とは何か」より)

*「財産とは何かというと、ひとつの「不死」「不滅」の形態をつくりだそうとして生まれるものです。」

「この世界には、何ひとつ、不滅のもの、不死のものは存在しません。ところが人間は、この世界に、不死・不滅の存在をつくりだそうとする欲望をもっています。これは、人間という生き物のなかに深くセットされている衝動のようです。」

「そしてこれは、根本のところで、言葉の問題に結びついています。墓標は人間の生の証しを、不滅なものにつくりかえようとしますが、それは本来、言葉のなかに宿っている働きなのです。言葉には、動き、変化しているものを静止させ、死に近づけたり、それによって逆に不滅のものにつくりかえたいこうとする働きがあります。

 ですから財産とは、自分のまわりに、たやすく消滅することがないものを集めておくことではないかと考えられます。」

*「私たちは、財産といえば、私有財産ばかりを考えてしまいますが、そのものになっている財産の観念は、ひじょうに古いものです。」

「「私」という、はかない、うつろいやすい存在を、安定した明確な輪郭をもつ空間的存在に変換し、維持・存続させようとするのが、人間の無意識にある欲望なのかもしれません。私たちは、言葉をもつ動物として、財産の観念を発生させ、それは数万年にわたって、人類の文明を本質的に決定づけてきました。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「貨幣経済と交換のはじまり」より)

*「誰かのものである財産が、他の人間に譲渡されたとき、アルカイックな所有の観念では、その価値は消滅するべきものです。「私」の所有物は、「私」という空間的存在の一部ですから、所有物が譲渡されたとき、「私」という存在も譲り渡すことになるのです。これは、中世まで、人間の所有観念の根底にあった考え方です。「私」のもつ財産を譲り渡せば、「私」という存在まで、その人の所有と支配下に入る。ですから、所有物を譲渡するための儀式というのは、たいへんなものでした。

 まずは、その財物を、誰のものでもない空間に譲り渡し、いったん無縁のものに変換して、それをまた別の人間が譲り受けるという形がおこなわれていました。」

「ですから、今日のように、貨幣との交換によって、所有権が一気に変わるという現象は、中世まではなかったということです。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「プライベートとパブリックの境界」より)

*「プライベートなものとパブリックなものという対立は、いったいどこから発生するのでしょう。「私の名前」は「私のもの」ですが、それも他の人間が「私」に与えてくれたものです。つまり、社会が「私」を「私」たらしめ、「私」を人間の社会に存在させてくれたことになります。言葉というのは、社会を前提とするパブリックなもので、絶対ではなく、相対の関係のなかで、差異の体系としてあるものです。ですから、絶対的なプライベートというものは存在しない。プライベートという観念は、じっさいには社会、つまり他者が「私」を通じて、「私」のなかにつくりあげている幻想のかたちなのです。プライベートとパブリックの境界というのも、本来は、存在しないのです。」

*「それでも私たちには、個人的な生活がある、という幻想があります。(・・・)誰もが自分のプライベートをもっているとしたら、これは、個人的な記憶にかかわる空間なのではないでしょうか。」

*「言葉を獲得する以前の人間が、どのように世界を所有していたか、という問題を考えてみましょう。言葉を獲得する以前に、人間はふたつの段階を経て、自分というものを認識します。ひとつは、鏡像段階、すなわち、ボディ・イメージを通じて、自分の境界づけをし、アイデンティティを確立します。これが生後数ヶ月の子供に起こります。

 そしてもうひとつは、乳幼児と母親の関係のなかからあらわれます。(・・・)乳児は、おっぱいを触りながら、体温を受けとり、乳を飲み、鼓動を聴きとり、ときには子守唄を聴きながら、揺れ動く母親のからだというものを通じて、自分を形成するのです。この自分はとてもやわらかく、あいまいなものですが、そこにはすでに「私」というものが存在します。心理学の研究であきらかになっていますが、乳児には、自分は母親と一体であるという観念がありながら、同時に、母親とはちがうものとして自分をつくりあげていく行動があらわれます。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「言葉のなかに「私」の起源はない」より)

*「この、最初の「私」というやわらかい観念が、そのあと、言葉というものを獲得したときに、より堅い、より安定した、より不滅に近い「私」というものをつくりあげていく前提になります。そして言葉をしゃべれるようになった人間は自分の過去を振り返ることはできますが、言葉のなかに「私」の起源はないと感じます。自分が知っていたあの原初的な感覚は、もう言葉のなかにはない。なぜなら、言葉というのは、ほかの人間と共有しているものであって。プライベートではないからです。言葉という社会的な道具を使って、「私」は自分のプライベートな領域を語ろうとしますが、そのとき「私」は、自分の真実は言葉のなかにはない、という感覚を味わうことがあります。そしてこれがおそらく、詩や芸術の動機になっていくのでしょう。

 つまり、芸術家とは、社会の共有され得るもののなかには、自分の真実はない、という強烈な直観を抱きつづけている人間のことで、芸術とはそれを原動力として、何かをつくりだす行為なのです。そして、この極限的にプライベートな感覚はどこから発生するかというと、言語以前の空間であって、母親の胎内や母性的なもの、体液的なもの、そして自分のからだを言葉ではなくて視覚的イメージとしてつくりあげる、あの最初の契機に根ざしたものだということがわかるでしょう。ですから、私たちがプライバシーについて考えるとき、法律的なそれと、芸術がかかわっているものとは、ちがう次元だということをはっきりしておかなうといけないと思います。」

「プライバシーの問題というときに、たとえば、自分の作品を誰かが盗用したということを問題にするのなら、それはあまりにも小さな芸術観だと思います。自分のつくりだしたイメージは自分のものであって、それが他人に盗用されることで、自分の権利が侵害される、という法律的な観念が問われがちですが、この問題をそのような観点のもでとらえることは、芸術の本質、その発生とはかかわりのない、ただ金銭上の話でしかありません。」

**(中沢新一「芸術とプライバシー」〜「芸術は財産にはなり得ない」より)

*「芸術家が語るべきプライバシーの問題とは、もっと根源的であるはずです。」

*「おのれの拠っている源が、たとえ無根拠で意味をもたず、不死でも不滅でもない、在るがままの存在そのままであったとしても、それを過不足なく見つめるスタンスこそ、芸術というものの在りようだと思います。」

「彼らの作品が貨幣で換算できる価値をもったり、美術館の空間を占めることとは、なんの関係もありません。」

*「プライバシーは財産の観念と深く結びついています。そして財産というのは、存在を不滅なものにつくり変えていこうとする人間の欲望にもとづいて築かれてきた文明の根底にある問題です。」

*「絶対的なプライベートの空間というものが存在すること。そして、言葉のなかにも、社会的な表現形態のなかにもあらわれることのない「私」の真実というものが存在し、その「私」の真実は、おそらく財産ですらないということです。それは財産として形を与えることすらできない。芸術の真実は、形を与えることすらできないものに根ざしていますから、財産とはなり得ないでしょう。ましてや商品ではないのですから、なんと名づけたらいいのでしょうか。

「ひとことで言うと、ギフト、賜物ですね。何を何からたまわるのでしょうか。これは存在や神や自然です。何の見返りもなく、何の保証もなく、何の意味もなく、人間に与えられたギフトが、私たちのなかにはあります。私たちのなかを通過して、生命のなかを通過して、想像のなかを通過していくギフトが存在しています。このギフトは決して財産にも商品にもなり得ないものです。私たちは贈られたものとしての芸術を、擁護しなくてはいけません。そこでは、プライベートの問題が絶対究極の形としてあらわれてくるのだと思います。

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