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石井洋二郎編『リベラルアーツと自然科学』〜藤垣裕子「思考の型とは何か/他分野をリスペクトする素養としてのリベラルアーツ」

☆mediopos-3086  2023.4.30

二〇二二年七月7日に行われた
中央大学「創造的リベラルアーツセンター」主催による
オンライン・シンポジウム
『リベラルアーツと自然科学』をもとに編集された
石井洋二郎編『リベラルアーツと自然科学』

リベラルアーツの理念はもともと
文系・理系という分け方そのものを問い直すものだが
前回までのシンポジウムが
いわゆる文系のパネリスト中心のものだったとのことで
今回のシンポジウムは自然科学系の学問と
リベラルアーツの関わりについて議論が進められている

そのなかでこのエッセイは
「思考の型」についてのもの

藤垣裕子「思考の型とは何か
———他分野をリスペクトする素養としてのリベラルアーツ」

ちなみに自然科学の思考の型と人文学の思考の型の違いは
前者が基本的にその客観性の基礎としている
「いつ誰がやっても同じ結果に至る」ものであるのに対し
後者はそれとは異なり
「主観と主観の間に共振作用が起こって
ひとつの「リアリティ」を「シェア」する」
ということが重要になる

とはいえ自然科学の思考の型においても
「自然現象の奥にひそむ法則性を見つけ出し、
それを記述する方法は、ひとつではない。」

しかも「科学的」という言葉が意味する内容も
その専門分野において異なり
「客観性」を保証するやり方も
分野によって異なっているため
「思考の型」を定義することは困難である

つまり「思考の型」も
「専門性のタコツボ」化へと陥りがちである

そのため「創造的リベラルアーツ」のためには
「制度的制約や、とらわれている思考、常識」の「壁」を越え
「他分野へのリスペクト」を涵養することが重要となる

それは「自然科学研究」に限らず
言うまでもないことではあるが
「科学的」であることが求められるにもかかわらず
それが困難となっているために
このシンポジウムが行われたのだろう

このシンポジウムで強調されたのが
「他分野をリスペクトする素養としてのリベラル」
であるということからもそれがわかる

特に日本では「壁」の力が大きいのだという
まず「日本の研究者は他分野をばかにする」
そんな傾向があるのだそうだ

「日本では一度作ってしまった組織や制度の壁を
所与と考える傾向が強いことと関係していると考える。
組織や制度の壁だけでなく、
専門分野の壁さえ、所与と考えてしまう」という
そしてそれは「概念の壁」についても同様である

そのため他の専門分野を「リスペクト」できないがゆえに
それを「自分ごと」化することができない

おそらく日本では学問の領域にかぎらず
どこにいってもそうした傾向は
政治の世界から地域社会まで常態化しているといえる

昨今リテラシーということがよく言挙げされるが
政治からメディアまで
異常なまでのバイアスのかかっている情報が
流されているにもかかわらず
それを読みとる力がもてないということも
そうした「壁」を疑いもなく受け入れていることや
「他分野へのリスペクト」が欠けていることと
関係しているのだろう

ちなみにメディア・リテラシーとは
「送り手の悪しき意図を見抜き、
流されている情報をそのまま鵜呑みにせず、
その悪影響を回避する能力」のことであり
そうしたリテラシーをもつことが
「適切に判断し行動するための素養」となる

■藤垣裕子「思考の型とは何か
      ————他分野をリスペクトする素養としてのリベラルアーツ」
 (石井洋二郎編『リベラルアーツと自然科学』水声社 2023/2)

(「リベラルアーツと「思考の型」」より)

「本シンポジウムのなかで協調されたものとして、思考の型という概念がある。」

「「思考の型」とは何なのだろうか。大栗(博司)氏が参照された本(坂本尚志『バカロレアの哲学』、日本実業出版社、二〇二二年)では、広い意味では、バカロレア哲学試験の問題を分析する方法から解答を書くまでの手続き全体を指すとされ、狭い意味では、小論文の答案の構成の定型(導入・展開・結論)を指すとさてる。またこの思考の型は、問題分析(用語・概念の定義・分析、可能な答えの列挙、問題を複数の問いに変換)、構成(導入・展開・結論)、哲学的典拠の正確な引用によって評価される。
(・・・)
 これを自然科学に応用するのはそう簡単ではない。
(・・・)
 大栗氏は「ファクトの学びではなく、思考の型の学び」を強調された。この点は重要であるが、しかし、知識と思考の型はどう違うのかについて答えるのはそう簡単ではない。バカロレア哲学試験でさえ、思考の型を試験で実践するには、哲学的典拠の正確な引用(知識)が不可欠なのである。「知識がないと議論もできない」という問いにはどう答えるのか。「知識を得ることは人生を豊かにしてくれる」という主張とリベラルアーツは、どういう点が異なるのか。このような問いをさらに考察するために、リベラルアーツと科学リテラシーの違いを考えてみよう。」

(「リベラルアーツと科学リテラシー」より)

「リテラシーとは、原義では「読解記述力」を指し、日本語では元来、識字率と同じ意味で用いられてきた。現代では「適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになった。メディア・リテラシーが「送り手の悪しき意図を見抜き、流されている情報をそのまま鵜呑みにせず、その悪影響を回避する能力」を指し、情報リテラシーが「マウスでクリックする等の自分の操作の裏で何が動いているのかについてある程度論理的に考えられる能力」のことを指すように、リテラシーは、適切に判断し行動するための素養と考えてよさそうだ。」

「リテラシー(能力)を身につけるためにはその分野の知識が不可欠であり、ここでも先の挙げた思考の型と知識の差異と同様の問いがでてくるのである。リテラシーは能力、リベラルアーツは技芸である。では能力や技芸と知識はどう違うのか。」

(「思考の型の種類」より)

「自然科学の思考の型といったとき、それは一意に定まるのだろうか。(・・・)自然科学の思考の型は広い意味では、自然科学的考え方(自然現象の奥にひそむ法則性を見つけ出し、それを記述する方法を考える)と定義できる。自然現象の奥にひそむ法則性を見つけ出し、それを記述する方法は、ひとつではない。」

「そもそも「科学的」という言葉が意味する内容が分野によって異なることは、科学論や科学史における詳細な研究成果から明らかになっている。」

「自然科学の場合、「客観性」を保証するやり方の分野による違いには注意が必要である。そして、そもそも思考の型というのは、「客観性」を保証する方法を指すのだとすると、分野の数だけ思考の型があることになってしまう。「ファクトの学びではなく、思考の型の学び」と言うのは簡単であるが、思考の型を定義しようとすると、なかなか難しいことが示唆される。」

(「客観性とは何か————解釈の強度」より)

「自然科学の思考の型と人文学の思考の型の違いについて考えてみよう。「いつ誰がやっても同じ結果に至る」という点が自然科学の客観性の基礎にある。それに対し、人文学においては、「いつ誰がやっても同じ結果に至る」方法論を用いる必要はない。」

「石井洋二郎氏が下條(信輔)氏の話にコメントした際に述べたように、「論文を書く側の言葉の強度、解釈の強さみたいなものが、論文を読む者にある種の「間主観的な」共振性を起こす、つまり主観が客観と二項対立になるのではなく、主観と主観の間に共振作用が起こってひとつの「リアリティ」を「シェア」する。そうした状態を目指すところに文学研究の意義が見出せるのではないか」といったことが重要になる。」

(「他分野をリスペクトする素養としてのリベラルアーツ」より)

「本シンポジウムで強調されたものとして、「他分野をリスペクトする素養としてのリベラル」という点がある。(・・・)下條(信輔)氏は、アメリカにおいては隣接分野の知に対する尊敬があるのに対し。「日本の研究者は他分野をばかにする」傾向があると指摘する。それは何故だろうか。私は、日本では一度作ってしまった組織や制度の壁を所与と考える傾向が強いことと関係していると考える。組織や制度の壁だけでなく、専門分野の壁さえ、所与と考えてしまうのだ。
 このことは組織や制度に限らず、概念の壁についてもいえる。」

(「壁を所与と考えない柔軟性と「自分ごと」化の能力」より)

「組織や制度の壁を所与と考える傾向は、責任のとりかたにも影響する。」

「リベラルアーツは、Open the mind、つまり制度的制約や、とらわれている思考、常識からこころを解放することを指す。自分のコミュニティにとって「あたりまえ」で他のコミュニティにとってあたりまえでないことに気づくことである。自分の分野のシェアドリアリティを越え、他分野のひとと別のリアリティをシェアできることは、リベラルアーツのめざすところそのものであり、それが他分野に対するリスペクトの基礎となると考えられる。」

「シンポジウムの最後に、他者を利スペ句よする自分をつくるにはどうしたらいいかというトレーニングが議論された。もちろん上記のように「壁を固定して考えない」柔軟な思考も大事である。同時に、さまざまなシステムの問題を個人の問題として考えること、つまり他人ごとでなく「自分ごと化」することが必須である。そして、他人ごとではなく「自分ごと化」するとき、他者への痛みへの想像力が必要となる。」

(「思考の型と能動性」より)

「壁を固定して考えない自由な志向(Open the mind)は、リベラルアーツの原点である。となると、他の分野と共通な「思考の型」を見つけようとする感性もまた、アーツと言えるかもしれない。「知識」と「思考の型」との関係を握る道もここにあると考えられる。」

「リベラルアーツは、ただ多くの知識を所有しているという静的なものではない。より能動的な人間モデルを基礎とする。人は興味のあることについては、自ら知識を獲得する。興味のないことについては、いくら強制的に知識を与えられても、定着していかない。器にただ単に溶液のように知識を注ぐのではなく、各人の興味にしたがって、知識を増やしていくのである。知識を能動的に得ようとする技芸こそ、リベラルアーツと言えるだろう。」

「自然科学の思考の「型」とは、自然科学の知識を能動的に得ようとする技芸ともいえるかもしれない。自然に対する好奇心をもって、その裏にある規則性や法則性を知ろうとし、環境に働き掛け、自ら知識を構成しつつ、理解を深めていく技芸である。かつ、壁を所与と考えない柔軟性から、他の分野をリスペクトし、他の分野と共通な「思考の型」を見つけようとする。刈部直氏はその著書のなかで、教養を「相手とお互いに知恵を出し合い、たがいの言葉に響きながら、それぞれに自分を変えていく過程」と形容している。(刈部直『移りつく教養』NTT出版、二〇〇七年)自然を対象として探求をするとき、他の分野と共通な「思考の型」を見出し、それをリスペクトすることが、自然科学とリベラルアーツを考えるときの肝となりそうだ。」

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