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滑川英達『魔術的音楽のために/魂の宿す声、音に宿る神秘』

☆mediopos-2567  2021.11.26

音楽について考えることは
宇宙を考えることにつながる

おそらく宇宙は
コスモスとカオスのあいだで
奏でられる音楽でもあるからだろう

音楽は地上を越えた世界
言葉を換えれば
意識下へと働きかける
魔術的なものでもあった危険性から
原初においては仏教もキリスト教も
音楽に対して否定的であった

孔子が音楽を好んだのは
礼楽としての秩序を求めたからでもあるだろうが
その孔子も日がな楽を奏でることもあったようだ

その出自はシャーマンにつながるものでもあり
天的な秩序を地上的な秩序へとつなげる
そんな意図もあったのかもしれない

わたしたちの意識もまた肉体そして五感も
多くは地上的現実にとらわれているから
そのカオスを秩序づけるために
音楽を理性的に働かせることもできるが
反面音楽は情動に強く働きかけもする
音楽には「カオスとコスモスの
両方の領域に属する二面性」がある

近代はその理性の側面に重きを置き
魔術的側面を抑圧してきたが
本書は帯にもあるように
「前近代における音楽の重要性を明らかにし、
近代が抑圧した魔術的世界を呼び覚ます」ための
さまざまな示唆を盛り込んでいる

しかしともすれば魔術的世界への傾斜は
意識下の領域を混乱させることにもなりかねない
おそらく重要なのは近代的な意識を通りながら
その領域を拡張していくために
あらためて前近代の音楽
あるいは〈表現〉ではなく〈沈黙〉へと
寄り添っていくことなのではないだろうか

ある意味において
魔術においてもっとも高度なありようは
魔術をあえて行使しないことでもあるという
つまり〈表現〉しないことであり〈沈黙〉することだ
そしてそれは深い祈りにも通じている

■滑川英達『魔術的音楽のために/魂の宿す声、音に宿る神秘』
 (水声社 2021/11)

「音楽の起源がどのくらい昔まで遡れるかわかりませんが、おそらく言葉と同じくらい古いものでしょう。単なる鳴き声から言葉が生まれたとき、意味のある音というものを人間は初めて手にしたのでしょうから。」

「古代人はこの世のある全てのもの、動物や植物といった生物にとどまらず、石や水、川や海、炎や星といった無生物まで、全てが魂を持ち、「言葉」あるいは「歌」を発していると考えていました。」

「本書で扱う魔術的音楽、この「魔術的」という語は、啓示的宗教の引き受ける責任を欠く(あるいはそこから引き剥がされた)ダイモーン的宗教と言い換えることができるかもしれません。」

「近代とは視覚優位の時代であったといわれます。目に見えるもの、肉眼で観察できるものを重視し、不可視のものを従属的な位置に置いていきました。網膜的知とでも呼べるものです。
 音楽とは振動であり、空気を伝わり、鼓膜を振るわせるだけでなく、肉体全体を振動させるものです。視覚を理性的とするなら、より感覚・感情的で、肉体的なものともいえるでしょう。同時に視覚を具体的なものとするなら、より抽象的なものともいえるでしょう。
 また、視覚における見る行為に比べて、聞く・聴くという行為が、より受け身であるともいえるでしょう。」

「キリスト教も仏教も、その長い歴史のせいで、最初は戸惑いますが、実はどちらも伝統の変革者(破壊者)として現れた「新しい」宗教なのです。その攻撃の対象となったのが、魔術的な世界観・価値観だったのです。もちろん、先ほど空海に触れた際に述べたように、後世になって、仏教は魔術的要素を取り入れてゆきます。キリスト教においても、聖者や聖遺物への信仰を取り込みます。その辺りに、人類の文化・社会における。魔術的なものの普遍性をみることができるでしょう。」

「「人間」なるものの定義とは何でしょうか?
 人間に道徳的な定義を与え、人間の可能性の範囲を限定することによって、僕たちの社会は成り立っています。しかし(・・・)魔術的世界観は、(・・・)道徳というものから自由な世界です。そこには僕たちの暮らす社会の基準から見て、善なるものもあれば、悪と判断されるものもあります。
 とらわれない心とは寛容な心でもあります。
 人類の歴史全部が、僕たちと同じ考えや感情で動いてきたわけではありません。そして世界の人々全員が、僕たちと同じ信念、道徳を持っているわけではないのです。
(・・・)
 問題となるのは、人間の定義ではなく、その可能性の領域だと言うべきでしょう。」

「音楽とは情動と理性の両者に働きかけます。これをカオスとコスモスの両方の領域に属する二面性と言い換えてもいいでしょう。
 そして元来、識域下に対して意識的に働きかける技術が、魔術にしろ、音楽にしろ、必要とされました。」
「日常から離脱して、現実を超えた世界を捉え、他界への入口を開くのは、多くの場合、不快な雑音です。それは金属音をはじめとして、発音が聞き取りにくい、通常の発生とは異なる獣のうなり声のような呪文や異言であったりします。」
「ノイズというものは、日常生活にまんえんしているものですが、儀礼において、それのみを取り出して先鋭化することで、日常意識と断絶し、精神の覚醒を促すものでもあります。
 理性とは言語をモデルとして組み立てられる認識です。そこから次元を上げ、言語化不可能な知(非−知)を受容できるほど認識の幅を拡げるには、一旦、肉体という、精神と不可分な領域にある感覚・情動に働きかけ、詩人ランボーらの言うような意識的錯乱という一種の狂気、あるいは人類学者ベイトソンらの称えたダブルバインド(二重拘束)といった状態を作り出すことで、新たな認識へと踏み込まねばなりません。臨済禅の瞑想と公案をめぐる非=日常言語・反=意味的跳躍を、肉体による空気振動との共振による脱我を通して執り行う、と言うことも可能かもしれません。」

「中世以前の西欧社会では、音楽、特に器楽とは魔的なものの顕れと捉えられていました。一方、体制内の音楽としては教会の合唱音楽が、「魔的の顕れ」と対になる概念として、「形而上の聖性の顕現」と捉えられていました。
 この、中世カトリックの教会音楽のポリフォニーを起源に持つ、西洋音楽、その起源が決して音楽の起源を指し示すものではないことは、これまで僕らがめぐってきた散策によって明白かと思います。さらに、教会からも離れ、「純粋」に「鑑賞」されるべく、生産された「純(!)音楽」。産業社会、情報社会で「消費」の対象となり、僕らの生のBGMとなるべく量産される現代の反−純音楽、それが技術発展と歩みを共にし、音楽の全く新たな位置づけの必要性を希求していることも、これまでも僕らのぶらぶら歩きから了解のことと思います。技術発展は単なる「合理化」「能率化」ではなく、世界観・宇宙観の断絶の上に成り立つ価値観の刷新であることも、僕らはぼんやりわかってきましや・
 しかし何故、音楽と広義での「宗教」、あるいは音楽の「宗教性」にこわだるのか。それが見失われてゆき、今再び見出そうとすることに、どんな意味があるのか。」

「音楽も宗教も、人間の精神=身体の切迫した「病」、人間集団の存亡の「危機」に際して必要な、この世界を包括する不可視の世界とのやり取りに欠かせぬ、「向こう岸とのコミュニケーション」における交渉人のような存在なのではないかと思います。
 ここにシャーマニズムの「人間」という存在にとっての重要性、その出現の必要・必然性と普遍性が見出せるでしょう。」

「僕らは「表現の自由」という〈言葉〉を何も省みることなく使っています。しかし、むしろ表現によって失われるものは何か、を問うことも大事なことではないでしょうか。重点は「自由」ではなく、「表現」に対する手放しの讃美への疑問です。
 つまり「沈黙の意味」についてです。ケージの無音室での経験については、先に触れましたが、近代人にとって沈黙は、ある場面、ある文化的背景では美徳、場面、文化的背景が異なれば、無礼とみなされます。一方、インディオの世界では、沈黙こそがニュートラルな状態なのかもしれません。
 天使が通るがままにせよ。
 そういえばデレク・ジャーマンに『エンジェリック・カンバセーション』という美しい作品がありました。今、思い当たったのですが、天使的会話とは沈黙を指すのかもしれません。
 沈黙を引き裂く声と、沈黙に寄り添う声。
 声や音楽について考える際、沈黙を定常状態とみなしてみると、少し違った世界が見えてきそうです。」

「宗教に対する忌避の感情、近代の「信念」は、同時に何かしらの聖なるものとしか呼びようのない事象への畏怖に対する、忘却という形をとった妄執を、その背景に持っています。
現実というカオスと、これをコスモスと認識することなしには成立しない人間の「知覚」、そしてこの認識゠知覚を基礎とするカッコつきの「現実」。
カオスとしての現実と、通常僕らが現実と呼んでいるもの、という二つの領域を繋ぎ止めているのが、宗教であり、音楽であると言えるのかもしれません。」

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