見出し画像

小鷹研理『からだの錯覚/脳と感覚が作り出す不思議な世界』

☆mediopos-3080  2023.4.24

わたしたちの「からだ」は
目に見える物理的な身体ではない

著者がここで使っている「からだ」という平仮名表現は
「さまざまなイメージに対して開かれて」いる
「頭の中にある「からだ」」もふくめて使われている

言葉を換えれば
「経験可能なイメージ身体」
とでもいえるだろうか

認知科学研究者である著者は
不思議な現象である「からだの錯覚」の謎を
さまざまな実験を通じて解説している

本書で著者の実体験としてまず例示されているのが
「身体のどこかが痒いのだけれど、
いくら探ってみてもどこか痒いのかがわから」ない
という体験である

掻いている「目に見える足」と
痒みを発している「目に見えない足」の不思議

一般に「それが自分の体である」という
意識的な感覚を生み出しているもの」は
「触覚」だと思っていることが多いけれど
「自分のからだであるという感覚=「からだ」は、
複数の感覚の情報が整合していることによって
担保されている」のだという

その視点から著者は
「実際には他人の手を触っているにもかかわらず
自分の手を触っているように感じられる「セルフタッチ錯覚」」
「指や手足が伸びる錯覚」
「自分の身体の手足のイメージがモノ化していくタイプの錯覚」
そして「幽体離脱」という錯覚を実験等を交え紹介していく

こうした「からだの錯覚」の実験等からも分かるとおり
わたしたちの「からだ」は物理的な身体を超え
いわば「イメージ身体」として拡張可能である

それはひとつの可能性であり
そうした錯覚とまではいえないとしても
わたしたちがさまざまな「道具」を使う際にも
その「道具」をふくめて
じぶんの「からだ」となっている体験はだれにでもある

さて本書で特に重要なのは最終章で示唆されている
「メタバース」の危険性だろう

この視点は今後さまざまに議論されていく必要があるだろうが
そうした「世界全体のバーチャル・リアリティ化」は
おそらく「からだの錯覚」にともなった
「自己像に対する酔い」としての「きもちわるさ」を
スポイルしてしまう危険性をもっている

今世紀になってさまざまなかたちで
「身体性」に関する哲学がでてきているが
わたしたちはかならずしも
いまこの狭い身体性に閉じ込められてはいないとしても
拡張された身体性を含めた「からだ」を生きている
そのことが深く認識されていく必要がある

それはあくまでも可能性としての「拡張」であって
「からだ」から過度に離れてしまうことではない
「世界全体のバーチャル・リアリティ化」は
生物として生きている私たちそのものを
否定することにさえなる側面を濃厚にもっている

「経験可能なイメージ身体」は
あくまでも「身体性」をともなってはじめて
その可能性を拡張することができるのだから

その意味で
「世界全体のバーチャル・リアリティ化」に対しては
「自己像に対する酔い」としての「きもちわるさ」を
手放してはならないのだといえる

■小鷹研理『からだの錯覚/脳と感覚が作り出す不思議な世界』
 (ブルーバックス 講談社 2023/4)

(「はじめに」より)

「本書のタイトルである「からだの錯覚」という表記は、筆者自身の趣向によるものです。意味的には、「体の錯覚」であっても「身体の錯覚」であっても構いません。ただし、筆者が(本書にとりかかるずっと以前から)この平仮名による用法にこだわってきたことには、それなりの所以があります。複数の部首で構成される個々の漢字は、何らかの抽象的な意味を担っている一方で、平仮名は、その歴史的経緯からして、漢字から意味をはぎ取り、純粋に音だけを表すものとして運用されてきました。逆に言うよ、平仮名の場合、同一の語が、潜在的に異なる意味解釈に対して開かれてることでもあります。

 本書で扱おうとする「からだ」もまた同様に、さまざまなイメージに対して開かれています。物理的な身体であれば、ちょっとやそっとではその姿形を変えることは叶いませんが、頭の中にある「からだ」であれば、わずかな工夫で、皮膚を石のようにカチコチに硬くしてみせたり(第1章」マーブルハンド錯覚)、逆に1m程引き伸ばしてみたり(第5章:スライムハンド錯覚)、目の前の人と自分の手を入れ替えたり(第2章・セルフタッチ錯覚)、あるいは通常の何倍もの長さに腕を伸ばしてみたり、(第3章:VRによる腕伸び錯覚)、ペンと自分の指をつなげてしまうこと(第3章:薬指のクーデター)まで可能となります。

 これとは逆の方向として、物理的な身体から日常的に付与されている意味をはぎ取って、モノとしてのからだを体験することも可能です(第5章:蟹の錯覚、ボディジェクトの指)。これを前進に対して引き起こすことができれば、一種の幽体離脱の体験に近づきます(第6章)。

 要するに平仮名としての「からだ」とは、普段、主に物理的な制約に従って、特定の解釈を強いられてきた身体が、錯覚の介入によって、さまざまな解釈を往復できるだけのやわらかさを獲得しうること、そのことを象徴的に示すための表現なのです。」

「本書の第1章では、実験心理学の中で扱われる「からだ」の基本的な概念に対する理解を、無理のないさまざまな思考実験を通して深めていきます。
(・・・)
 第2章では、実際には他人の手を触っているにもかかわらず自分の手を触っているように感じられる「セルフタッチ錯覚」を取り上げます。
(・・・)
 続いて第3章では、指や手足が伸びる錯覚を主に取り上げます。
(・・・)
 第4章では、錯覚と思い込みの何が異なるのかについて、(・・・)丁寧に解説していきます。
(・・・)
 第5章以降、錯覚がより「自分」に介入していく側面に注目していきます。まず第5章では、錯覚体験の「きもちわるさ」の由来について検討しつつ、これまでの章で取り上げた錯覚とは逆に、自分の身体の手足のイメージがモノ化していくタイプの錯覚を紹介します。
 最後の第6章は、全身のモノ化として、幽体離脱現象を扱います。(・・・)幽体離脱を適切に科学することによって、近未来のメタバースの設計のあるべき姿がみえてくるかもしれません。」

(「第1章 「からだ」とはなにか————自分として感じられる身体と物体としての身体」より)

「みなさんは、身体のどこかが痒いのだけれど、いくら探ってみてもどこか痒いのかがわからなくて、とてもイライラした経験はありませんか。
(・・・)
「所在なき痒み問題」は、痒みを解消しようとする行為が成就しないことによってはじめて顕在化します。痒みの生まれる場所と自分の指で掻く場所がいつまでも一致しないという強烈な不和状態が「身体のリアリティ」を喪失するトリガーとなったのです。
 このとき筆者は、自分の左足が二つに分裂しているような妙な感覚に陥りました。一方は掻いている「目に見える足」、もう一方は痒みを発している「目に見えない足」、いわば幽霊の足です。」

「これと連動して、実体を持たない痒みが身体という足場を失い、幽霊のように皮膚から遊離するような感覚にも襲われました。さながら幽霊の触覚とでもいうような。」

「以上のエピソードは、筆者の個人的な体験であり、多くの読者にとってはやたらと大袈裟な話に聞こえるかもしれませんが、実は、脳科学者の世界では非常によく知られている「幻肢痛」の症状と共通する部分があります。」

「五感などの感覚のうち、「それが自分の体である」という意識的な感覚を生み出しているものはどれでしょうか。

 この問いには、ほとんどの人が触覚と答えるのではないでしょうか。つまり、触覚を意識的に感じていることが「自分が身体を有していること」に対する感覚を生み出している、ということです。
(・・・)
 さて、この一見正しいと思える触覚至上主義(?)ですが、痒みを皮膚表面近傍の局所的感覚である触覚の一種であるとみなし。冒頭で紹介した「所在なき痒み問題」を思い出すと、その主張は非常に怪しくなります。
(・・・)
 実は、痒みや触覚に限らず、単一の感覚がそれのみで「からだ」を生み出す、ということはありません。」

「私たちの身体に生まれる、それが自分のからだであるという感覚=「からだ」は、複数の感覚の情報が整合していることによって担保されていることが理解できたと思います。こうした「からだ」の特性を一般向けに説明するときには、筆者は、複数の楽器によって奏でられるオーケストラの比喩を借りて、オーケストラ認知という言葉で解説するようにしています。」

(「第5章 「身体」なのか「モノ」なのかーー自分のような自分じゃないような「きもちわるさ」の由来」より)

「筆者が、研究室主催の錯覚の展示をはじめた当初、その記録映像をまとめている中で、特定の錯覚体験に限らず、四方八方から「きもちわるい」という言葉が、かなりの頻度で飛び交っていることに気づきました。
(・・・)
 この種の「きもちわるさ」には、嘔吐等の身体の不調に代表されるような明確な生理作用はみられません。そのため、(同じく「きもちわるい」の典型的状況である)乗り物酔いとは異なる部類の感覚であることは明かです。
(・・・)
 乗り物酔いが自己位置に対する予測の不調であるとすると、からだの錯覚による「きもちわるさ」とは、自己像に対する予測の不調であるということができます。
(・・・)
 乗り物酔いやVR酔いの気持ち悪さとは「自己位置に対する酔い」であり、ラバーハンド感覚に伴う「きもちわるさ」とは「自己像に対する酔い」であると整理することができるでしょう。」

「複数の身体を内に抱えるということは、「自分」という空間に、主体的に関われない異物を招き入れることにほかならないのです。」

(「第6章 幽体離脱を科学する――不思議な現象が導く、さまざまな可能性」の由来」より)

「幽体離脱の世界をゲーム空間と見立てるならば、キャラクターは、むしろ離脱した視点の側に存在するのです。実際、幽体離脱の体験者の多くは、突如与えられた裁量権による誘惑に抗しきれず、横たわる身体から、なるべく遠く離れたよころへ行こうと試みます。ところが、この裁量権の行使は、極めて魅惑的なものでありながらも、同時に強烈な恐怖感を伴います。
 というのも、この種の冒険は、元の自分の身体の鞘に永遠に戻ることができない危険性を常にはらむものであるからです。まるで、テレビゲームの最中に、何かの拍子に電源を落とされて、永遠にテレビの中に閉じ込められてしまうかのように。要するに、幽体離脱という夢には、文字通りの意味で死の予感が満ち満ちているのです。」

「本書の執筆中に、フェイスブック社が会社の名前をMeta(メタ)と改め、本格的にメタバースのインフラ整備に乗り出そうとしています。(・・・)スティーブン・スピルバーグ監督による映画『レディ・プレイヤー1』の中で見事に映像化されているように、メタバースとは、世界全体のバーチャル・リアリティ化に他なりません。世界をゲーム化し、各人は、生身の身体を現実世界に据え置いたまま、ゲーム内のキャラクターとして世界に働き掛ける主体となるのです。

 本書の関心に照らすと、メタバースとは、空想世界としての夢を明晰夢化しようとする試みに位置づけられます。要するに、物理世界よりも自由度の高い、非日常を演出可能な夢のようなゲームの世界に、各人がキャラクターとして参入し、行為者としての裁量権を与えられるのです。

 メタバースという言葉がトレンド入りした当時、「ポケモンGO」などのAR(Augmented Reality:拡張現実)で知られるナイアンティックというアメリカの会社が、「メタバースはディストピアの悪夢です」という扇情的なタイトルで、以下のような声明を出しました。

  最近、テクノロジーやゲーム業界の著名な方々をはじめ、多くの方々がこの近未来の仮想世界のビジョンを実現することに興味を持っているように見受けます。でも実際には、前述の作品(著者註:『レディ・プレイヤー1』)はテクノロジーが間違った方向に進んでディストピア的な未来への警告でもあります。

 実は、筆者も全く同じような感触を持っています。メタバース、つまり世界全体を明晰夢化させようとする試みは、悪夢的なものになるといわざるをえません。なぜでしょうか? (・・・)ここで参照したいのは、からだの錯覚の「きもちわるさ」の感覚です。

 前章では、からだの錯覚の「きもちわるさ」の内実について、自己像の酔いという視点を提示しました。筆者の考えでは、自己像の酔いが生じるには、単に自己像が虚構化するだけでは足りません。(・・・)

 からだの錯覚の「きもちわるさ」とは、単なる自己像の変化によるものではなく。自己像の不可逆な変化(の予感)に付帯する副作用であると考えられます。要するに、錯覚の体験後に、錯覚前の自己像に戻れなくなるかもしれない不安こそが、「きもちわるさ」の正体だったのです。

(・・・)

 明晰夢としてのメタバースに足りない要素は、からだの錯覚における「きもちわるさ」であることは明かです。

(・・・)

 いまこの「自分」に安住することなく、異なる「自分」へと足を踏み入れる勇気を持つことは「きもちわるさ」を受け入れることでもあります。からだの錯覚の「きもちわるさ」は、錯覚が単なる遊びではなく、「とりかえしのつかない遊び」となりえりことの兆候なのです。しかし、これはネガティブなものではなく、むしろ希望である、と捉えるのが筆者の立場です。」

◎目次より
・はじめに
・序章 錯覚体験
・第1章 「からだ」とはなにか————自分として感じられる身体と物体としての身体
身体と触覚がバラバラ/身体の感覚とはなにか/自分の「からだ」はどこまでか ほか
・第2章 目で見る視覚と頭の中にある視覚――目を閉じることで広がる「からだ」の感じ方
錯覚しやすいかどうか、試すならこの2つの方法/触覚だけで「自分の身体を見つける」!? ほか
・第3章 弾力のある身体――空想の世界にも想像しやすいものとそうでないものがある
アバターを自分の身体のように感じる錯覚/腕や脚が伸び縮みするVR錯覚 ほか
・第4章 からだの錯覚は思い込みと何が違うのか――錯覚が生まれる、その時脳は……
・第5章 「身体」なのか「モノ」なのかーー自分のような自分じゃないような「きもちわるさ」の由来
外傷のない痛み/スライムハンドの衝撃 ほか
・第6章 幽体離脱を科学する――不思議な現象が導く、さまざまな可能性
多角的な視点からイメージできる人は、幽体離脱が起こりやすい/リセットされる夢、リセットされない幽体離脱/とりかえしのつかない遊び ほか

◎小鷹 研理
名古屋市立大学芸術工学研究科准教授。工学博士。
2003年京都大学総合人間学部卒業。京都大学大学院情報学研究科、IAMAS、早稲田大学WABOT-HOUSE研究所を経て、2012年より現職。野島久雄賞(認知科学会)、Best XR Content Award(ACM Siggraph Asia)、世界錯覚コンテスト入賞(2019-2021)など多数受賞。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?