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岸本佐知子「本の名刺 『わからない』」(『群像』)/岸本佐知子『わからない』『気になる部分』

☆mediopos3540(2024.7.27)

岸本佐知子のエッセイは
最初の一行で読者をつかみ
話にひきこみ
そこから思いがけない展開があり
そして最後に笑えるオチがつく

ツボを決して外さない
極上の落語をきいているようだ

自著について紹介する
『群像』の記事「本の名刺」によれば
最新エッセイ集『わからない』は
最初のエッセイ集『気になる部分』の
編集者Sさんが担当だという

『翻訳の世界』という雑誌に
連載されていたエッセイを
「ぜひ本にしましょう」と提案したのがSさんで
あるきっかけで
Sさんとの「距離がぐっと近づ」くことになる

それが「本の名刺」の記事の冒頭の一行
「『わからない』が生まれたのは、
谷岡ヤスジのおかげと言っていい」とあるように
(岸本佐知子ならではの最初の一行である)

原稿を送る際に
「何の気なしに「しょにょ○」とした時だった」

「しょにょ○」は知る人ぞ知る
谷岡ヤスジが連載時に使っていた表現である
(念のためにいえば「しょにょ」は「その」
 ○には数字が入る)

ちなみに今回この話をとりあげたきっかけは
谷岡ヤスジがあまりに懐かしかったからでした(笑)

さて今回の『わからない』は
「連載以外の単発のエッセイもいつか一冊にまとめたいね」
という話からはじまったというが
それから十五年ほど経ち
Sさんの定年退職前にあたり
それに間に合わせようとしたものの間に合わず
結局Sさんは退職後にも作業されていたそうだ・・・

この自著紹介のエッセイ「本の名刺」も落語のようで
最後のオチがまた笑える
表紙の絵に描かれている「謎の物体」が
まさに「わからない」のだが
「同業の斎藤真理子さんに
「しゃもじの瞬間移動ですよね?」と言われて以来、
もうそれにしか見えなくなった。」という(たしかに)

さてこの記事をきっかけに
あらためて最初のエッセイ集『気になる部分』を
少しばかり読み直してみた

その最初のエッセイ「空即是色」も
よくできた落語のようである
これも最初から引き込まれる

「世の中の人間を二種類に分けるいちばん手っ取り早い方法は、
〈数学心のある人とない人〉だと思う。
言うまでもなく私は〈ない〉の部類である。」

そんな数学心の〈ない〉著者が
高三の中間試験で横綱級の問題を前に
「式を見たとたん、体の奥に霊感がわきあがる」のを感じる

そして「数学などというちっぽけな次元を超えた、
宇宙の真理を私は見」る(笑)

そのあとのシンプルなオチもまた笑える(引用参照)

こうした岸本佐知子流の言語感覚のなかには
いくつかのすぐれた物語性をもった「型」と
豊かで伝わりやすい語彙などが
すぐれた表現力をともないながら
おもちゃ箱のように詰まっている

そして少しばかりのこだわりさえ感じる屈折したユーモア
たとえば
「翻訳専門誌なのに翻訳のホの字も出てこない」
「フランス語専門誌で、フランスのフの字も出てこない」
というのもそのひとつ

こうした練れたすぐれた言語感覚は
長く文学作品の翻訳に携わることで
磨かれてきている職人芸なのだろう

■岸本佐知子「本の名刺 『わからない』」(『群像』2024年8月号)
■岸本佐知子『わからない』(白水社 2024/5/24))
■岸本佐知子『気になる部分』(白水Uブックス 白水社 2006/5)

**(岸本佐知子「本の名刺 『わからない』」より)

*「『わからない』が生まれたのは、谷岡ヤスジのおかげと言っていい。

 この本を担当してくれたのは白水社のSさんで、今から二十四年前、私の初めてのエッセイ集『気になる部分』を世に送り出してくれた人でもある。

 当時私は『翻訳の世界』という雑誌にエッセイを連載していたのだが、翻訳専門誌なのに翻訳のホの字も出てこないので「あのページだけ無意味だからなんとかならないか」と読者から苦情が来るなどして肩身が狭かった。それをいち早く見つけて「ぜひ本にしましょう」と言ってくれたのがSさんだった。

 その連載だけでは本にするには分量が足りなかったので、今度は白水社の『ふらんす』というフランス語専門誌で、フランスのフの字も出てこない連載を始めた。Sさんは控えめなタイプだったし、私も人見知りだったので、最初のうちのメールのやり取りは「原稿送ります」「ありがとうございます」という淡々としたものだった。

 それが一変したのは、何回めかに原稿を送る際に、いつもはタイトルを「原稿その○送ります」(○に数字が入る)としていたのを、何の気なしに「しょにょ○」とした時だった(「しょにょ」というのは谷岡ヤスジが連載時に使っていた言い方だ)。それに返ってきたSさんのメールが別人のように饒舌で熱かった。私とSさんの距離がぐっと近づいた瞬間だった。

 それからは「打ち合わせ」と称してしょっちゅう飲んだり食べたりするようになり、話してみれば歳もいっしょで好きな本や漫画やテレビ番組も似ていて楽しく、そんななかから「連載以外の単発のエッセイもいつか一冊にまとめたいね」という話も自然に出てきた。今から十年、いやもう十五年くらい前のことだ。」

*「あらためて読みかえしてみると、素敵生活雑誌に自分の体から垢がめちゃくちゃ出ることについて掻いたり、旅雑誌に自分の旅嫌いっぷりについて書いたり、ほのぼの育児雑誌にいかに容赦なく虫をぶち殺すかを書いたり、やっていることがけっこうひどい。」

*「さて、十五年も前に発案された本が出るのにこんなに長くかかってしまったのは、ひとえに私の怠慢のせいだ(Sさんが原稿をまとめてゲラ状態にしてくれたものを、私は何年も放置したりした。すみません)。けれどもSさんが今年の誕生日で定年退職されることになり、何としてでもそれに間に合わせるべく、そこから〝巻き〟で作業をして、どうにかこうにか間に合った・・・・・・と言いたいところだが、ギリギリ間に合わず、最後のほうSさんは退職したはずの会社に毎日かよって作業をされていた。本当にすみません。」

*「ところで表紙の絵のこと、これはブラジルの女性画家 Tarsila do Amaral の「眠り」という絵で、何年か前にMoMAのインスタで見つけて以来、ずっと頭から離れなかった。装画にこれを使いたいと言ったら、みんなに「どうして?」と訊かれたが、出来上がってみたらけっこう「わからない」の感じがあって、とても気に入っている。
 ちなみに描かれている謎の物体、私は骨みたいだと思っていたのだが、同業の斎藤真理子さんに「しゃもじの瞬間移動ですよね?」と言われて以来、もうそれにしか見えなくなった。」

**(岸本佐知子『気になる部分』〜「Ⅰ 考えてしまう/空即是色」より)

*「世の中の人間を二種類に分けるいちばん手っ取り早い方法は、〈数学心のある人とない人〉だと思う。言うまでもなく私は〈ない〉の部類である。数学心のない人というのは、言ってみれば1+1=2という数学における大前提を、心のどこかで信じていないような人のことである。1+2=2、たしかに理屈ではそうだろう。が、足されるものの性質とか、足す人のその時の気の持ちようでは、2.0013とか、1.99857とかになることだって、あってもよさそうなものじゃないか。そう密かに感じている人のことである。」

*「そんな私にもしかし、数学を通して世界の神秘をかいま見た瞬間があったのだ。あれはたしか高三の中間試験で、私はとっくに数学と訣別した、いや、されていたにもかかわらず、もしかしたら国立の大学も受験するかもしれないという下心から、往生際悪く「数ⅡB]を選択していたのだった。それがどういう問題であったか、もう手元に答案がないからわからないが、とにかく三枚あったテスト用紙のいちばん最後、十両格の単純な問題を終え、いよいよ結びの一番は横綱の登場ですといった風格の問題で、用紙のいちばん上にたった一行、おそろしく込み入った数式が示してあり、そのあとに「・・・・・・における解を求めよ」とあるだけで、あとはまるまる空白、つまりこれを解くにはそれくらいの分量の数式操作が必要であることがほのめかされている、それ一つで配点二十点はあろうという、恐るべき問題だった。

 しかし、その日の私はいつもと一味ちがっていた。数式を見たとたん、体の奥に霊感がわきあがるのが感じられた。複雑にもつれた糸がやわらかくほどけていく道筋を、はっきりとイメージすることができた。私はさっそく取りかかった。頑固に凝り固まり、膨れあがった横綱の筋肉をやわやわとさすり、揉み、叩き。少しずつほぐしていき、分子レベルにまで分解する。不純物を取り去り、同じ性質をもつ分子どうしを一緒にし、宇宙を構成する四大エレメントに還元していく。これはほとんど天地創造の作業だ。解きながら、私は惑星の死と再生の現場に立ち会っているような感覚に酔った。残り時間あと五分。式はどんどん透明度を増していく。めくるめく曼荼羅が、ガスが星に凝固していくように。みるみる収束していく。終了のベルが鳴りひびくのと、答えを書き終えるのはほぼ同時だった。私の前には、完成された式があった。

       0=0

 この答えが間違っているなどと、誰に断言できるだろう。万物が無から出て無に還る。国破れて山河あり。色即是空。空即是色。溶けて流れりゃみな同じ。これは究極の真実ではないか。数学などというちっぽけな次元を超えた、宇宙の真理を私は見たのだ————。答案が集められてしまったあとも、私はひとり法悦にひたり、いつまでも呆けたような薄ら笑いを浮かべて座っていた。

 けっきょく私は国立大学を受けずに終わった。」

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