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養老 孟司・山極 寿一『虫とゴリラ』

☆mediopos2915  2022.11.10

今西錦司は晩年
「自然学」ということを言い始める
「自然科学」ではなく「自然学」

自然を分析的にとらえるのではなく
その全体を見るという視点である

現代の学問の多くは細分化され
対象ごとに専門が分かれるようになっている
全体を見ることはできない

医療においても病気であるとされる器官だけが
細分化された専門の科で対症療法的に治療される
人間は機械の部品でできていて
故障した部品を取り換えるような発想である
そして部品が異なれば
それを扱う専門である科もまた変わってくる

人間の全体はそこには存在しない
あるのは病気になる器官であって
肝心の人間はノイズとなっている

管理社会的なシステムのなかでは
システムだけが稼働していて
人間がそこに実在しているとはいえないのと同様である

養老孟司と山極 寿一は
それぞれ虫屋とサル学者であるように
観察する対象は異なっているが
自然に対する姿勢は近しい

個別の対象にこわだわるのではなく
自然を観察し実際にふれ
「それをどう理解するかという「方法」」を
問題としてとらえている

それは制御された実験室内で
対象としての生きものを扱うのではない
そこでは肝心の「生きものそのもの」が失われているから

養老氏は「課外授業かなんかで、子どもを山に連れて行って、
「それで何を学びましたか」ということを、
紙に書かせて先生に報告させる」ことを嘆いているが
現代の教育にしてもすぐに成果が求められてしまう
そこで重要視されるのは「答え」であって
言葉にならないような経験や問いではない

そこにあるのはもはや「自然」ではない
人間が人間であるためには想像力が不可欠だが
それを育てるという視点がそこにはない

教えられることで想像力は育たない
学ぶということはすべて「自習」
つまり「自己教育」なのだから

■養老 孟司・山極 寿一『虫とゴリラ』
 (毎日文庫 毎日新聞出版 2022/10)

(養老孟司「文庫版まえがき」より)

「山際さんと私の共通点といえば、自然に対する距離感にあると思う。その距離が近い、というべきか。現代人はオフィスビルで働いて、マンション暮らしをする傾向が高いから、自然離れをしてしまう。虫やゴリラという対象に関心を持つと、ひとりでに自然に触れ、その中で考えるようになる。虫かゴリラか、というふうに対象にこだわるのが現代人だが、自然りという目からすれば、それはどうでもいい。自然にどう触れて、それをどう理解するかという「方法」が問題だからである。
 日本の学問は対象で名前が付けられることが多い。医学で言えば、歯学は大学すらわかれているし、眼科学、耳鼻咽喉科学、最近は内科や外科のような大きな診療科は臓器別に分けられることは多い。しかし、具体的に考えてみればわかることだが、重要なのは対象つまり相手の種類ではなく、やり方である。解剖なら方法、つまりやり方だから、相手がゴリラでも虫でも根本的には関係ない。考え方もやり方も似たようなものである。山際さんと私の似た点は、野生の動物を調査することで、これはなかなか大変なのである。
 まず第一に、野生の生きものはじつにたくさんある。これを生物多様性という。その中から特定の一つを選んで、対象とする。(…)
 第二点は選らんだ一つのものから何かがわかったとして、それがどのくらい一般的かを考察しなければならない。(…)
 第三は野外に出るということの大変さである。(…)
 では野外に出る利点とはなにか。もちろんすべての経験が自分の五感を通じて入ってくることである。(…)その体験は、あくまでもその時、その場で限られた体験にしかならない。それをその時だけの体験にとどめず、どう一般化するか、それが「方法」なのである。(…)
 この種の考え方は、現代でははやらない。対象としての生きものは、きちんとコントロールされた実験室で生かされ、一定の手順で操作される。それは本来の生きものが生きている環境とはきわめて異質だが、全体として操作可能なので、だれも文句を言わない。自然条件と違うというなら、条件を変えてやればいいからである。さらに個体全体ではノイズが多すぎるので、対象は細胞単位あるいは分子の領域までに縮減される。その過程で失われたものはなにか。「生きものそのもの」であろう。ゆえに現代人は新たな大絶滅の時代と呼ばれ、数十年前に比較して、昆虫でいうなら、八割以上が消えたとされる。世界を支配する力を得た人類は、生きものを失った思考の中で、実際に生きものを滅ぼしてきた。先進国は軒並み少子化で、自分自身の存続も危ぶまれる時代となった。
 これからの存続が危ういのは、虫とゴリラだけではない。ヒトをそこに加えるべきなのである。それを防ぐには、皆さんの考え方を根本から見直してもらわねばならない。」

(「第四章 森の教室」より)

「山際/虫にしても、動物にしても、小さい頃から自然に接していないと、つき合い方もわからない、つまり、自分でコントロールできるものばかりとつき合っていると、「共鳴」が生まれないんですよね。これは、予測できない動き方をするものに対して、呼応できる身体をつくる、重要なトレーニングです。よくあるのは、山菜採りに行くと、そこら中に山菜はあるのに見えないんですよ。でも、ちゃんと見つけるコツを覚えると、ここにも、あそこにもって、見えてくるんですよね。
(…)
養老/いちばん悪いのは、課外授業かなんかで、子どもを山に連れて行って、「それで何を学びましたか」ということを、紙に書かせて先生に報告させる。お話にならないです。
山際/それは初等・中等も、高等教育も、みんなそうなんだけど、今、どんなものにも、すぐに成果を求めますね。「どんな能力がつきましたか」とか。教師の側も「成果をきちんと出してください」って言われるんだけど、「それはまだわからないですね」って言うしかない。何十年も経って、その子がすごい立派になっているかもしれないし、大失敗をして死ぬかもしれない。それはもう、どっちにしたって「成果」なんです。それでもみんなが、成果や結果をすぐに求める。」

「養老/学校って、何かを教わる場所だと、みなさん思っていませんかね。学習というのはようするに「自習」なんですよ。」

「山際/今西錦司さんが晩年、「自然学」ということを言い始めたんです。「自然科学」ではなく、「自然学」をやりたいんだと。科学の分析的な視点ではなく、自然の全体を見ることが重要なんだと。例えば、サルの行動だけを追うという話ではなく。サルが棲んでいる場所すべてを俯瞰的に見ながら、そこから学ぶっていうのが「自然学」。分析的ではないですから、何も答えをきちんと出すというような話ではないんですよ。分析や言葉によってこぼれ落ちてしまうものに気がつくことは必要ですね。
養老/いちばん重要ですね。つまり、今の学問って、かんたんに「意識化」されちゃうんです。コンピュータが典型ですよ。コンピュータは、自然から何かを拾ってくること、おそらくしないでしょう。ビッグデータだって、同じものを「数」として拾っているわけだから。自然学では、その「意識化されないもの」が、非常に重要だっていうことですね。
 自然に触れている時に、何かいろんな「影響」を受けてるんだけど、本人もわかっていないんですよ。そこなんですね。それを今の教育制度だと、すぐに、点数にして出せっていう話になっちゃう。」

(「第五章 生き物のかたち」より)

「山際/人間の持っている大きな力は「想像力」ですよね。養老さんだったら、虫になったつもりで世界を探索できる。僕もサルになって探索できると思っている。だけど、虫になれるわけではないし、サルになれるわけでもない。それでも普段とは違う感性を研ぎ澄まして、世界を理解しようとしている。想像力はね。やっぱり人間の世界を拡張するのに役立ったはずです。実際、人間の感性が広がったわけじゃないんですよね。その範囲内で虫を理解しようとする、あるいは虫とわかり合うことができるようんある。」

(「第六 日本人の情緒」より)

「養老/今や、システム化された情報世界の中に入っているのが本人であって、現物の本には何かっていうと、ノイズですよ。システムからは扱えないんだから。(…)
 完全に人間が取り残される時代になりました。」

「山際/今、システムしか、人間の頭の中にはない。
養老/だから、本人がいなくなるんですよ。システムは存在している。存在しているんだけど、人間は実在していないんですよ、この社会は。」

(山極 寿一「あとがき——虫とゴリラの旅」より)

「この情報化時代、人間という殻を脱ぎ捨てるのには二つの方法がある。ひとつは主体性を機械に預けてロボット化していく方法で、これはもう多くの人々が採用し始めている。もうひとつは人間以外の動物の世界感を身につける方法だが、こっちはなかなか会得するのが大変だ。相手が標本で動かなかったり、動物園や虫籠の中にいて自由な動きが制限されていたりする状況では、その世界観を学習できない。彼らの野生の生活に踏み込んでみなければならないし、彼らだけではなく、その暮らしを支えている自然を読み解く能力も鍛えなければならない。そんなことはあまりこの世の中に役立つとは思えないから、われわれは極めて特殊な体験を積み重ねてきたことになる。
 でも、どうやらその奇妙な体験が、これからの人間の未来を左右する重大な示唆を与えてくれるかもしれないぞ、ということを二人とも直観していた。虫は自然の動きを表す重要なバロメーターだ。いろんな虫の姿を絵や言葉に表し、虫の姿を音楽として聴き、季節に応じて快く感じ取ってきたのが日本人の感性だ。それは日々の暮らしからほとんど消えてしまった。山野をめぐって虫を訪ね歩くと、昔とは違う虫たちがいることに気づく。それは日本の風景がここ数十年で一変したことを示している。もはや、虫たちは日本人の心に住み着いていない、というのが養老さんの感想だったように思う。」

「未来の社会にとって大切なことは、何よりも安全・安心を保障することだと言われている。裏返せば、現代はそれが大きく崩れているということだ。たしかに、科学技術は安全をつくることができるだろう。しかし、安心は人が与えてくれるものだから科学技術だけではつくれない。それだけ、現代人は人への信頼が揺らいでいるのだ。それは自然への信頼が薄れているせいでもあるだろう。その閉塞感を突き破るためには、感動を分かち合うことを生きる意味に据えるべきだ、と僕は思う。人が生まれながらにして持つ感性には生物としての倫理がある。それを大切にして、人間以外の自然とも感動を分かち合う生き方を求めていけば、崩壊の危機にある地球も、ディストピアに陥りかけれいる人類も救うことができる。」

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