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櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』/三遊亭円朝『怪談 牡丹燈籠』

☆mediopos3502  2024.6.19

明治以降の文学の「言文一致運動」には
落語とくに圓朝のそれが
影響していることは比較的よく知られている

その大きな契機となったのが
「演芸速記(口演速記)」である

それは主に落語や講談など話芸における口演筆録であり
「速記本」と呼ばれている(講談の場合は「講談本」)
明治に入ってから生まれた

それまでにも
「芝居をノベライズしたり、
反対に戯作(小説)を歌舞伎にした」「合本」があったり
落語や講談の噺家や講釈師の演目や噺が本されたりはしていたが
「速記本」のようなかたちで
上演された台詞などを書き取り記録したものではなかった

日本における速記の歴史は明治15(1882)年に溯るが
それがなかなか進まないでいたところ
明治17(1884)年7月
後に演芸速記を手掛ける若林玵蔵や酒井昇造に
「圓朝の高座をそのまま速記しないか」という依頼があり
口演速記された本が
寄席に行かないでも
「あの圓朝の高座をそのまま「読める」」と好評を博し
多くの読者を獲得することとなる

それが一般大衆の読者を得ただけではなく
二葉亭四迷らの言文一致運動にも多大な影響を与えていく・・・

当時の文学といえば
「いわゆる物語を書いたエンタメ色の強い「戯作文学」」
「西洋の文学を日本語に翻訳した「翻訳文学」」
「自由民権運動から活発となった「政治文学」に分かれ

その「戯作文学」が「小説」となっていくのだが
その契機に圓朝の「怪談牡丹灯籠」の口演速記があったのである

夏目漱石は明治38(1905)年1月に
『吾輩は猫である』でいわゆる文壇デビューするが
一人称の猫の語りからもイメージできるように
講釈や落語などの話芸を好んでいたという

今でも夏目漱石の文章が読みやすいのは
その語りの背景に落語などの話芸が影響しているからだろう

しかし日本の小説の草分けともいえる
坪内逍遙や二葉亭四迷の作品は漱石ほど読みやすくはない

「それは、「標準語」で「思考」を書こうとしたからではないのか。」
と著者の櫻庭由紀子は示唆している

明治20年代には共通語はあったものの
「標準語」という概念はなく
当時の口語体の文章は江戸弁・東京弁による文章で
「書き言葉の共通語は文語体しかなかったのである」

圓朝の落語は今でも読むことができ
当時の語りをイメージすることができる

それはまだ「標準語」というわけではなかったが
当時の空気感やその背景にあるものなど
それが生まれてくる源を感じとることができる

最近あまり落語を聞かないようになっているが
(聞くといっても主にCDなどの音源や映像だが)
六代目三遊亭圓生の演じている
「怪談牡丹灯籠」や「真景累ヶ淵」をはじめ
落語のCDは1000枚近くいまも手元にあったりするが

小さい頃から落語などをよく聞いて育ってきたこともあり
ぼくの日本語習得にも少なからず影響を与えているはずである

現代はいわゆる「標準語」があり
それをつかって「思考」し
それを書いたりすることができるのだが
「標準語」とされている言葉にも
さまざまな表現形式があって一様ではない

必要とされるものに応じ
そうした表現形式から
特定の形式を選択しながら表現するわけだが
そのときじぶんが行っている「思考」の背景には
たとえそれが意識にのぼることはないとしても
落語などのように少なからず
じぶんの言語形成において影響したものが働いている

それをたしかめることで
じぶんの「思考」のありようのなにがしかを
意識化することもできる

そうすることで同時に
「言文一致」をはじめとした
いまのじぶんの「思考」の外に出る
つまり閉じた思考をひらくことにもつながるかもしれない・・・

■櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』(淡交社 2024/3)
■三遊亭円朝『怪談 牡丹燈籠』(岩波文庫 2002/5)

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「1章 演劇速記と言文一致の誕生/速記第一号!」より)

*「落語や講談は「話芸」と言い、情景を映像(芝居)で見せる歌舞伎とは異なり、口演、つまり言葉と身振りだけで伝える芸能である。」

「演芸速記は、主に落語や講談など話芸における口演筆録をいう。通常「速記本」といい、速記本といえば多くは落語の口演記録である。講談の場合は「講談本」という。

 速記本が生まれたのは明治に入ってからである。それまではなかったのかといえば、「速記」というものではなかった。

 芝居の場合は「合巻」があり、芝居をノベライズしたり、反対に戯作(小説)を歌舞伎にしたものがあった。また、落語や講談の場合は噺家や講釈師が創作していた根多(演目、噺)がそのまま本となった。つまり、演じたセリフなどの言葉を書き取り記録したのではなかった。」

「日本における速記の歴史は、自由民権運動も盛んな明治15(1882)年に溯る。文明開化期に、田鎖鋼紀(別名:源鋼紀)という人が、アメリカのグラハムが改良した速記術を日本語に適用し、『日本傍聴筆記法』を発表、指導を始めた。ここに弟子入りするのが、後に演芸速記を手掛ける若林玵蔵や酒井昇造である。」

「研究はなかなか進まず、「思ふやうに速度が進まないから集まつた人々は追々倦怠を来し」8人いた研究院は徐々に減り、残ったのは若林と酒井だけになってしまった。

「円朝の高座をそのまま速記しないか」

 明治17(1884)年7月。若林の元に京橋の出版社から依頼が来たのは、そんな時だった。」

*「「若林は、その話に乗った。」

「若林と同僚の酒井は、人形町の末廣亭(現在の新宿の末廣亭とは別物)の楽屋に通い、圓朝の講座を速記した。この速記がまとめられたものが毎週土曜日に発刊され、大変な売れ行きとなった。」

*「ここに口語をそのまま書き取った本が誕生した。書かれている文章を読むと、確かに明治の口語だろうというものがみえる。」

「この速記に、人々は衝撃を受けた。あの圓朝の高座をそのまま「読める」のだから、テレビもラジオもネットもない時代にあって、言葉を写し取る速記は、まさに近代化の象徴として人々の目に映っただろう。

 衝撃を受けたのは、市民だけではなかった。文壇も、この口語体の文章「言文一致体」に新たな表現の可能性をみた。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「1章 演劇速記と言文一致の誕生/小説とは何か 文壇の試行錯誤」より)

*「近代文学史的には、この時期の文学は3つに分かれる。いわゆる物語を書いたエンタメ色の強い「戯作文学」、西洋の文学を日本語に翻訳した「翻訳文学」、自由民権運動から活発となった「政治文学」だ。

 このうち、戯作文学が後の「小説」のカテゴリへと変革するのだが、小説の近代化は先に述べたように芸能・演芸が大きく関わる。そのとどめが「怪談牡丹灯籠」だったというわけだ。」

*「この戯作文学や旧来の芸能に真っ向から近代化の旗を掲げて挑んだのが、『小説神髄』の坪内逍遙だ。」

「小説とは人間の感情や心理を、美化せずにありのままに描くことが第一に大切で、次に世間の様子をありのままに書くことが肝要だとしている。

 逍遙にとって、これまでの主人公が本懐を遂げる完全跳躍も、ヒーロー・ヒロインの聖人君子ぶりも、「リアル」ではなかった。(・・・)小説は「写実」であるべしと論じたのだ。

 また、逍遙は自身が身を置こうとしている「文学」を、芸術として高めようともしていた。この頃、戯作は大変に軽く見られており、同時に戯作者・小説家の地位も低かったのだ。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「1章 演劇速記と言文一致の誕生/夏目漱石と大衆の笑い」より)

*「明治の文豪の代表的存在と言えば『吾輩は猫である』の夏目漱石だ。

 漱石が『吾輩は猫である』を書き、文壇にデビューしたのは明治38(1905)年1月。二葉亭四迷が朝日新聞に入社し、「そろそろ小説を書いたらいいんじゃない」と説得されている頃だ。

 漱石はというと、ほぼ持病となった神経衰弱で低空飛行の真っ最中。あまりの様子に高浜虚子が気張らしにと「ひとつ小説でも書いてみないか」と進めた。その結果誕生したのが『吾輩は猫である』である。」

*「漱石は講釈や落語などの話芸を好んだ。特に落語は好きだったようで、虚子にあてた手紙などではよく初代三遊亭圓遊や三代目柳家小さんの高座について語っている。晩年は病気が進行し精神的にも余裕がなかったのか寄席に行くことはなくなったようだが、それでも柳家小さんの速記本を読んでいたという。」

「漱石の作品が明治の大衆小説として受け入れられたのも、そんな落語に通じるテーマが見えたからではないだろうか。一人称の猫が語る世俗は、実に「リアル」だ。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「3章 「伝える」ための試行錯誤/江戸後期から幕末までの口語体」より)

*「明治期の落語は若林玵蔵らのおかげで文字として今でも読める。では江戸時代の落語や講釈は読めないのかというと、そうではない。高座を速記したものはないとしても、落語や講釈の本はあった。これらはところどころ口語体で書かれている。言文一致とまではいかないが、当時の言葉を知るにはうってつけの資料だ。

 口語体が目立つのは、会話文が多い人情本や滑稽本、噺本である。中でも噺本は江戸の初期かた人気のジャンルで、その多くは現代でも古典落語の元ネタとなっているものも多い。噺家自ら根多(ネタ)本を出している場合も多く、落語速記が始まる前から、人々は落語を文字で読んでいた。ただ、高座を速記しているわけではないので、当然「書き言葉」となっている。初期の頃は台詞も文語体だが、後期になると、随分とくだけてくる。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「3章 「伝える」ための試行錯誤/江戸っ子と文芸」より)

*「演芸速記は言葉をそのまま写しているので、演者の言語が文章になる。なので、地の文はその当時の丁寧な言葉遣いとなるし、台詞の場合は舞台が江戸で、職人ならべらんめえ調だし、日本橋あたりの商人なら丁寧な言葉遣いとなる。実際江戸の人々は、それぞれがそれぞれの立場と状況に応じて、丁寧な言葉もべらんめえ調もござる言葉も使いこなしていた。

 岡本綺堂は『甲字楼夜話』の「戯曲と江戸の言葉」で、「江戸に限らず都会人はみな、多年の訓練によって言葉も使い分けを自然に心得ている」と書いている。」

*「なぜ坪内逍遙はあんなに躍起になり右往左往して、二葉亭四迷は泣くほど悩んだのか。

 それは、「標準語」で「思考」を書こうとしたからではないのか。明治20年代、共通語はあったが「標準語」という概念はなかったという。江戸から明治初頭にかけて出回っていた口語体の文章は、いわば江戸弁・東京弁による文章だ。書き言葉の共通語は文語体しかなかったのである。」

*「文語体の小説が悪いというわけではないが、わかりにくいから手を出しにくい。ましてや読書感想文を書こうとは思わない。現代だって同じだ。明治の人もそうだったのだろう。

 演芸速記が文学に影響を与えたなんて、そんなおこがましいことを言う人は誰もいないだろうし、俗の極みの文章だったのかもしれないが、「人が読みたいってのを出して、何か不都合でもあるのかい?」と世間に示した働きくらいはあるのではないか。

 そして演芸速記は大衆文学というジャンルを生む。今でも書店に行けば、大概コーナーがある。みんな大好き、時代小説とミステリーだ。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「4章 小説と話芸速記の境界線/演芸から小説、小説から演芸」より)

*「「怪談牡丹灯籠」が速記になる前から、演芸が小説として書かれていたことは、前の章でもたびたび記した。

 実は、演芸を「読む」行為は江戸時代の早くから存在していた。井原西鶴の『好色一代男』にも浄瑠璃本を読む描写があり、元禄(1688〜1704)の頃には既に読まれていたことがわかる。浄瑠璃本とは、イラスト入りで浄瑠璃の詞章が書かれたもので、浄瑠璃そのものを読むためではなく、ストーリーや雰囲気を楽しむものだった。演芸を文字で読む行為について、人々はさほど抵抗はなく、だからこそ速記を広めるための方法として、圓朝の人情噺が選ばれたのだろう。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「4章 小説と話芸速記の境界線/書き講談・立川文庫から大衆文学へ」より)

*「演芸速記としての落語筆記は昭和に至るまで残っていくのだが、講談・人情噺速記の方は明治40(1907)年を過ぎるころには「書き講談」にその場を奪われていく。この流れが大衆文学のうち、チャンバラや任侠ものの系譜となるわけだが、この金字塔に「立川文庫」の存在があった。

 当時の少年たちは立川文庫に描かれた英雄たちを読んで育った。立川文庫は「読む講談」の代名詞にもなり、書き講談雑誌はみんな立川文庫だと言われるくらいだった。」

*「大正6(1917)年、いわゆる「講談師問題」事件が勃発する。中止となったのは、今や講談速記界重鎮の今村次郎と東京の講釈師たち。相手は「大日本雄弁会講談社」。この事件は、書き講談を大衆文学へと大きく舵を切らせた。」

「野間の目論見は見事に当たった。作家たちが書いた新講談は、これまでの講談速記ではものがりなくなっていた読者の好評を得た。」

「そして、野間が予言した通り、彼らの筆を得た新講談は、「大衆文芸」「読み物文芸」へと発展するのであった。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』
   〜「4章 小説と話芸速記の境界線/探偵小説前夜」より)

*「大衆小説からは時代小説だけではなく、探偵小説や冒険小説なども生まれた。特に探偵(推理)小説は今でも人気のジャンルだ。」

**(櫻庭由紀子『落語速記はいかに文学を変えたか』〜「おわりに」より)

*「明治期の演芸速記には、その時代の空気感がリアルにしみこんでいて、現代の高座や小説との違いにしばしば驚く。今では絶対に書けない言葉や演出が文字となって残っているため、その時その場所のリアルな音として、ダイレクトにぶつかってくるのだ。

 名作とされている圓朝話でも、今では圓朝の速記通りにやったら席亭が青くなって飛んでくるほどに、放送自粛用語のオンパレードだ。」

「こうやってみていくと、不適切表現のなんと多いことか。だがしかし、この表現でなくてはッ伝わらない当時の空気が確かにあった。その記録が、演芸速記なのである。

 現代は、これらのタブーを見せることさえご法度で、優しさと甘さと忖度で包んだ言葉を拵えて供す。しかし、人間の本性などどうどう変わるものではない。綺麗に塗り固めて無かったことにする方がよっぽど恐ろしいではないか。

 先人が文字に写した高座は、大衆の声の歴史だ。音でも映像でもなく、文字だからこそ見える人間の深淵を、覗いてみてほしい。」

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