松岡正剛の千夜千冊 1779夜『グノーシス 陰の精神史』/1846夜『グノーシス 異端と近代』
☆mediopos3435 2024.4.13
グノーシスとはなにか?
そう問うたびに返ってくるのは
結局のところ要を得ない
木霊のようなものになってしまいがちだ
それにもかかわらず
グノーシスと名づけられた光源は
そこに異端と正当というドラマをふくめ
さまざまな影を見せてくれる
medioposでもここ数年にかぎっても
以下のようにグノーシスについてとりあげている
mediopos-2137(2020.9.22)
・筒井賢治『グノーシス/古代キリスト教の<異端思想>』
mediopos-2544(2021.11.3)
・深澤英隆「ルドルフ・シュタイナーとグノーシス主義」
(大貫 隆・高橋 義人・島薗 進 ・村上 陽一郎 編
『グノーシス 異端と近代』岩波書店 2001/11 所収)
mediopos-2530(2021.10.20)
・山田晶(著)・ 川添信介(編)
『中世哲学講義: 昭和41年―44年度 (第一巻) 』
〜グノーシスに関する第五章〜第一八章
・荒井献・柴田有『ヘルメス文書』
・筒井賢治『グノーシス』
これまでの視点とは切り口をかえて
あらためてグノーシス関係をとりあげようと思っていたところ
ちょうど松岡正剛の千夜千冊の
1846夜(2024年4月11日)で
『グノーシス 異端と近代』がとりあげられている
松岡正剛ならではの「編集」の視点からのグノーシス観である
これは以前の千夜千冊 1779夜(2021年8月12日)の
『グノーシス 陰の精神史』の続きとなっている
『グノーシス 陰の精神史』と『グノーシス 異端と近代』は
2冊でセットになっているからだ
今回はその2冊に関する「千夜千冊」から
松岡正剛的なグノーシス観の概略をみておくことにしたい
『グノーシス 陰の精神史』の帯にもあるように
「一言でいえば、グノーシスとは
「原理的に欠損を抱えている思想に関する最深の見方」のこと」で
その観点から松岡正剛は
「世界に何かが欠けるのではなく、世界はそもそも
それ自体が欠損によって構成されてきたものなのである。
世界はいつしか出来そこないになったのではなく、
出来そこないなものを「世界」と名付けたのである。
このパラドキシカルな生成の秘密を告示しつづけてきたのが
グノーシスだった」としている
松岡正剛による2冊の位置づけについては以下のとおり
『グノーシス 陰の精神史』は「ハンス・ヨナスの先駆的研究と
ナグ・ハマディ写本の詳細な分析に依拠して、
もっぱら古代グノーシスのルーツと深層変化を探るもの」で
「古代グノーシス主義の先駆例(ゾロアスター教、ユダヤ教神秘主義、
キリスト教グノーシス、マニ教)からルネサンス・バロックあたりまでの
グノーシス思潮(パラケルスス、ヤコブ・ベーメ、薔薇十字、
フリーメイスンなど)を俯瞰している」
それに対して今回の『グノーシス 異端と近代』は
「そのグノーシスが中世ユダヤ教やキリスト教や
イスラームの中に入りこんで異端扱いされ、
かぎりなく矮小化されかのように見えたにもかかわらず、
いつしか新たな神秘主義的な意匠をまとって、
まるで山火事のあとにツンツン萌える草のように
近現代の文学やアートや哲学に再生されていった変容ぶり」を扱い
「中世以降の神秘主義やイスラム・グノーシスなどとともに、
芸術が引き取ったグノーシス(ゲーテ、ブレイク、ヘッセ、ユゴー)、
哲学や心理学が言及したグノーシス(シェリング、バーダー、
ハイデガー、ユング、ラカン)、および20世紀文化の中の
グノーシス(シュルレアリスム、シュタイナー、シャガール、
タルコフスキー、フェミニズム)を摘まんでいる」
以上2冊が照らすグノーシスの物語は
めくるめく光と影の世界である
で
グノーシスがグノーシスである所以は
どこにあるのかだが
松岡正剛によれば
「世の中、二択が多すぎる」なか
編集という視点から「A、BorC」ということで
「AとBの攻めぎあいの間隙からふいに出現しうる「orC」が
AとBの関係を読み替えるはず」で「「orC」をさかのぼれば、
そこにグノーシスが蟠居しているのだろう」としている
「グノーシスは世界が出来そこないで不完全なのだから、
完全をめざそうとか原理的な欠損を保全しようなどとは、思わない。
またプラトンや孔子のように理想や理念に完成系を想定したりはしない。
グノーシスは欠陥を訂正しないまま、世界像の語り方の
欠陥にひそむ「orC」の方法を採り込んでしまう」のだという
AかBかの二択ではなく
AとBを統合するとか
ほんらい一択だというのでもなく
「A、BorC」という
不完全なものを不完全なままの方法で
「orC」に向かって世界像を語ろうとする
それがグノーシスがグノーシスである所以の方法なのだ
松岡正剛的な編集の視点からいえば
「世界は二択などによって一様につくられることなどありえず、
必ずや「世界」(モデル)と「世界たち」(ヴァージョン)との
複雑な関係ごと語られるしかない」ということである
グノーシスとはなにか?という問いに対して
○○であるといい難いところがあるのは
その「複雑な関係ごと語られるしかない」からだ
グノーシスがキリスト教において異端思想になるのは
特に「orC」の危険性ゆえにという視点をとれば
見えてくるものがある
現代におけるグノーシス的な潮流も
世界像の「別様の可能性」としての
「orC」をこそ見ていく必要がありそうだ
その「orC」こそが
グノーシスに惹かれざるをえない要因なのだから
■松岡正剛の千夜千冊 1779夜 思構篇 2021年8月12日
大貫隆・島薗進・高橋義人・村上陽一郎編
『グノーシス 陰の精神史』(岩波書店 2001)
■松岡正剛の千夜千冊 1846夜 読相篇 2024年4月11日
大貫隆・島薗進・高橋義人・村上陽一郎編
『グノーシス 異端と近代』(岩波書店 2001)
**(「松岡正剛の千夜千冊 1779夜/『グノーシス 陰の精神史』」より)
*「帯の惹句に次のようにある。「この世界は原理的に欠損を抱えている、というアイデアの系譜学」。グノーシス思想の特徴を端的に言いあらわしているフレーズだ。
まさに、そうだ。原理的に欠損をかかえこんでいるのは「世界」そのものなのである。世界に何かが欠けるのではなく、世界はそもそもそれ自体が欠損によって構成されてきたものなのである。世界はいつしか出来そこないになったのではなく、出来そこないなものを「世界」と名付けたのである。このパラドキシカルな生成の秘密を告示しつづけてきたのがグノーシスだった。
グノーシスは、世界が不完全なのだから完全な理念世界をめざそうとか、地上に神学大全をつくっていこうというプラトン的世界観やキリスト教的世界観に、大胆な注文をつけた。まるで反世界主義に見えるかもしれないが、必ずしもそうではない。」
*「本書は2冊組の1冊である。岩波が荒井献・大貫隆の編集的監修で『ナグ・ハマディ文書』全4冊を刊行したことを背景に、グノーシス思想史ガイダンスとして刊行された。たいへんユニークな2冊だった。
このあとざっと紹介するように、上巻にあたる『グノーシス 陰の思想史』では、古代グノーシス主義の先駆例(ゾロアスター教、ユダヤ教神秘主義、キリスト教グノーシス、マニ教)からルネサンス・バロックあたりまでのグノーシス思潮(パラケルスス、ヤコブ・ベーメ、薔薇十字、フリーメイスンなど)を俯瞰している。
もう1冊の下巻は『グノーシス 異端と近代』となっていて、中世以降の神秘主義やイスラム・グノーシスなどとともに、芸術が引き取ったグノーシス(ゲーテ、ブレイク、ヘッセ、ユゴー)、哲学や心理学が言及したグノーシス(シェリング、バーダー、ハイデガー、ユング、ラカン)、および20世紀文化の中のグノーシス(シュルレアリスム、シュタイナー、シャガール、タルコフスキー、フェミニズム)を摘まんでいる。」
**(「松岡正剛の千夜千冊 1846夜/『グノーシス 異端と近代』」より)
*「世の中、二択が多すぎる。二択ばっかりだ。たとえば戦争か平和か、都会か里山か(高層ビルか自転車か)、シャネルかユニクロか、バラマキか減税か、軍人か僧侶か(赤か黒か)、ロックか民謡か、民主党か共和党か、自然か人工か(アリストテレスかワイルドか)・・・・。こんなダイコトミーによる二択で世の動静を語ってきたから、ダメなのである。
AかBか、ではあるまい。編集するなら「A、BorC」である。AとBの攻めぎあいの間隙からふいに出現しうる「orC」がAとBの関係を読み替えるはずなのだ。そうあってほしいと思ってきた。そして、この「orC」をさかのぼれば、そこにグノーシスが蟠居しているのだろうと、ずっとみなしてきた。
ちなみに「A、BorC」のことを、かつてのぼくは「2+1」(ツー・プラス・ワン)とも言ってきた。これは三浦梅園の「反観合一」に肖ってのことだった。
今夜の千夜千冊は1779夜に紹介した『グノーシス 陰の精神史』の姉妹版にした。ほぼ同じ監修者のもと、各自の得意分野を多くの執筆陣が分担するという雑居型の構成スタイルも踏襲されている。
姉はハンス・ヨナスの先駆的研究とナグ・ハマディ写本の詳細な分析に依拠して、もっぱら古代グノーシスのルーツと深層変化を探るものだったが、妹の本書のほうは、そのグノーシスが中世ユダヤ教やキリスト教やイスラームの中に入りこんで異端扱いされ、かぎりなく矮小化されかのように見えたにもかかわらず、いつしか新たな神秘主義的な意匠をまとって、まるで山火事のあとにツンツン萌える草のように近現代の文学やアートや哲学に再生されていった変容ぶりを扱った。」
*「あらためて申し上げておきたい。一言でいえば、グノーシスとは「原理的に欠損を抱えている思想に関する最深の見方」のことである。
古代ギリシアや古代中国に発した知の脈絡というもの、その大半がつねに普遍的な「世界」を大前提として指定してきたのだが、その世界はもともと欠損や欠陥を抱えてきたとみなすのが、グノーシスなのである。
1779夜にも書いたように、世界は何かの理由でいつしか出来そこないになったのではない。出来そこないをむりやり「世界」と名付けてしまったのが、その後の世界観のプロトモデルになってきたにすぎない。そのためこのプロトモデルは、出立に伴っていた欠陥を明示することを避け、そのかわりにポジのプロトモデルに抵触するであろうネガの世界像とその要素因を振り落とすか、隠してしまった。この振り落としの武器として使われたのが、AかBかのダイコトミー(二分法)による二択だったのである。
このやり口に待ったをかけたのがグノーシスだ。グノーシスは、もともと世界はできそこないなのだから、できそこないの神々もいたのだし、欠陥や欠損や欠如が世界(あるいは「世界たち」)を生成したことも、ありうるはずだと言いだした。ディオニューソスの矛盾を伴う生成力が、こうして蘇っていった。
世界生成の秘密を、こんなふうに一見パラドキシカルな言い方(ハンス・ヨナスはそれを「反宇宙的二元論」と名付けた)によって説明しはじめたグノーシス思潮は、それなら二択に勝ちのこる世界観を変更できただろうか。長らく、そうはいかなかった。強靭なプロトモデル派の力の前では、歯が立たなかったのだ。
けれども、歯は立たないものの、引き下がりもしなかった。性こりもなく流布された知の脈絡を、たえず深部で切り替えるように告示しつづけてきたのがグノーシスだったのだ。
グノーシスは世界が出来そこないで不完全なのだから、完全をめざそうとか原理的な欠損を保全しようなどとは、思わない。またプラトンや孔子のように理想や理念に完成系を想定したりはしない。グノーシスは欠陥を訂正しないまま、世界像の語り方の欠陥にひそむ「orC」の方法を採り込んでしまうのである。」
*「おおむねグノーシスの根底にはこういう仕掛けが魂胆されているのだが、そういうグノーシスをどうミューズたちにあてはめて説明できるかというと、これがいまのところは本格的に組み立てられてないままなのである。」
*「本書を読んでいると、(・・・)もっと織り成せるのではないかと期待していただけに、モダーン・グノーシスはこんなにもバラバラなのかという落胆も禁じえなかった。
おそらく妹が連れ立つミューズたちの大胆で多様な表現力に惑わされすぎたのであろう。これではせっかく「表象文化史」という学問がありながら、あいかわらず異端を異端としてしか扱っているままではないかと文句をつけたくなる。とくに科学思想界におけるグノーシス、生物進化や脳分化や情報科学をめぐってのグノーシス、またテクノロジーの特化に顕著なはずのグノーシスをまったく扱っていないのが不満だ。
そこで今夜は本書の構成項目をいちいち案内せずに、ぼくが重視したいグノーシス的なるものをなんとか浮上させるという気分で綴ってみることにしたわけである。」
*「卓抜で独創的な隠喩学(メタフォロジー)の研究者だったハンス・ブルーメンベルクの『世界の読解可能性』(法政大学出版局) を千夜千冊したことがある(1519夜)。ブルーメンベルクは『近代の正統性』(法政大学出版局)のなかで、「ヨーロッパの精神史はグノーシス思想との葛藤をもってしか語れない」と述べた。
同じく千夜千冊でフリードリッヒ・ヘーアの『ヨーロッパ精神史』(二玄社)を採り上げたことがある(1705夜)。ヘーアはそこで「ヨーロッパ精神史はプラトンの注とオリゲネスの注から始まった」(二人への補充と注文)としたうえで、その作業にこそメシアを待望する「信仰」(ピスティス)を、世界解釈の変更を求める「認識」(グノーシス)のほうへ変換するしくみがひそんでいたと喝破した。
ピスティスからグノーシスへの変換とは、どういうことだろうか。」
*「ヨーロッパだけのことではないが、世界の精神史というものは「大過去に優れた理想が実現していた」という仮想史を前提にして、それを追憶するかのように歴史をつくっていくというシナリオにもとづいて、記述されてきた。
つまり優れた理想が忘却されたのだから、新たにその理想を追求したいというふうに発展してきた。まさにキリスト教や儒教はそうなった。モンゴル帝国やオスマントルコもそうやって延命し、発展を企図してきた。
しかし実は、そこにはいったんピスティスによる忘却がおこったのである。グノーシスはその忘却を咎める。いや、忘却という認識の欠落を覚醒に切り替えていく。忘れたことを思い出しましょうというのではなく、忘却そのものの構造に覚醒の全契機がひそんでいるとみなすのだ。
ところが、そういうふうに歴史の正否を重ねるようにして入れ替えるグノーシスが異端扱いされて(オカルト扱いもされて)、そのうち希導になっていってしまうと、単調な歴史観や世界観ばかりが残るようになってしまったのだった。
そうなのである。グノーシスをわかりにくいものにさせてきたのは、ヨーロッパ精神史の気取った解釈の歴史だったのだ。ついでに言えば、またぞろ背中から太刀を浴びせるようで申し訳ないが、そういう精神史をデコンストラクション(脱構築)すればいいと思いすぎてきたポストモダンな思想的立脚に頼りすぎていたせいなのだ。グノーシスは、ヘーゲルやフッサールによっても、フーコーやデリダによっても辿れない。せめてフィヒテやドゥールズとともに掘り下げていくべきだった。」
*「グノーシスを掴まえるのは、そんなにも難しいことなのだろうか。そんなことはない。
諸君はそうとは思わずにグノーシスに染まって、マイルス・デイヴィスやピンク・フロイドやボブ・マリーに痺れ、アントニオ猪木の異種格闘技やビートたけしのナンセンスや石野卓球のパフォーマンスをおもしろがったのである。これらは図らずもポップカルチャーが吸引したグノーシスにほかならない。
いやいや、かれらはグノーシスのグの字も知らなかったのではないか。それをグノーシスの影響だとか共感だと言い募るのは、贔屓の引き倒しだろうと言いたいだろうか。そういう反論をしたくなるのもわからないではないが、ぼくはそうは見ていない。かれらは自覚的ではなかったにせよ、ヨナスの反宇宙的二元論を好んだのである。
それならグノーシスを自覚すると、どうなるのか。こう言えばいいだろう。グノーシスを「別様の可能性」に転じていったのだ。」
*「自覚した者たちは、もちろんいろいろいた。ドストエフスキーが向かったのは「罪」や「悪」である。『罪と罰』のラスコリニコフも『悪』のスタヴローギンも『カラマーゾフの兄弟』の父親も、罪と悪を背負うことによって、そこに立ち向かう正義と信仰や軟弱な認識と思索を挫いていった。その方法にはグノーシスが動いていた。」
*「忘却と覚曜の逆対応を手玉にとる手法は、ヘッセの『シッダルタ』にもあらわれている。主人公のシッダルタ (青年ブッダ)は美しい娼婦カマーラに溺れ、商人カーマスワミーと取引をして富裕になるのだが、あるとき疲れ果てて寝入ってしまい、そこからの目覚めをきっかけに立ち直る。忘却を覚醒に入れ替えたのである。『デミアン』でグノーシスを使ったヘッセは、グノーシスを仏教にも持ち込んだのだ。」
*「ワーグナーの《パルジファル》 では、忘却に代わって「無知」が覚醒の容器になった。無知で愚かなパルジファルは、アンフォルタス王に従う聖杯の騎士たちと交じることによって、いったん花咲ける乙女たちの誘惑を受けて忘却の淵をさまようのだが、そこから覚醒を遂げた。
ちなみに、パルジファルの転換にグノーシスが動いていたと読み解いたのは、SFの魔王フィリップ・K・ディックであった。『ヴァリス』がグノーシス主義の全面開花のようなものだから当然だろう。ハマディ文書、プレ・ローマ界、ソフィア、世界霊、ヌース(叡知)、マニ数、カバラ、シモン・マグス、薔薇十字、ヤコブ・ベーメなど、『ヴァリス』にはグノーシスがごまんと詰まっている。
ディックはそれだけでなく、VALISという世界をグノーシス宇宙同様の三層構造に仕立てた(プレ・ローマ、中間世界、物資的世界)。このことは『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』にも如実に投影されている。」
*「最後にもうひとつ、格別な例をあげておく。
本書にはアンドレイ・タルコフスキーの映画的グノーシスについて、高橋義人と加藤幹郎による論考が収録されていた。本書のなかでは白眉といえるものだったが、おそらく本書を手にとろうとした者なら、タルコフスキーの世界観が尋常ではないことには気づいていたはずだ。
きっと《ストーカー》や《サクリファイス》を観た者の誰しもがギョッとして、これはいったい何をあらわしている光景やストーリーなのかと思ったにちがいない。しかし「これは何だ?」と思わせること、映像の編集的組み合わせがそのことを暗示すること、それがタルコフスキーによるグノーシスの露出だったのである。
《ストーカー》では立入禁止帯「ゾーン」が登場する。隕石か宇宙船かが落下したせいで、一帯のすべてが破壊された荒涼たる区域になっている。案内人はストーカーと呼ばれているらしく、科学者と作家を秘密裏に案内する。
二人はゾーンに関心をもっていて、できれば科学的に調査したり、なんらかの作品として書いてみたいと思っているのだが、そこが何かはまったくわからない。ストーカーはゾーンが自分の魂と出会える特異な場(プレ・ローマ界)だろうと気づいているので、二人にもっと虚心坦懐になることを奨めるのだが、二人はいっこうに感知ができないでいる。
やむなくその場を去ったストーカーに代わって、身体障害をもつ娘がゾーンにやってきて、ゾーンの名状しがたい神秘に感応する。娘は欠陥によって覚醒に近づけたようなのだ。1979年の映画作品だった。
《サクリファイス》のほうは第三次世界大戦によって終末を迎えつつある日々が舞台になっている。アレクサンドルはこの世の終焉からの救済を志したくて、自身の犠性(サクリファイス)を神に誓っている。そこへ郵便配達夫のオットーから、召使のマリアが魔女であることを告げられる。アレクサンドルがマリアのもとを訪れて抱き合うと、二人は空中を浮遊しながら時計の逆回りにゆっくりと回転しはじめる。
このときの映像はダ・ヴィンチの《マギの礼拝》を入念になぞるものになる。幼子イエスと聖母マリアがアレクサンドルと召使マリアに多重化されるのだ。
タルコフスキー最晩年の1986年の映画だが、のちにインタヴューに答えて、アレクサンドルが信仰心がなく、物欲も薄く、ふらふらとシュタイナーの神智学に共鳴している男という設定にしてあると明かした。」
*「タルコフスキーが文明の成果の大半に失望している監督であることは、よく知られていよう。生まれ育ったロシアの近現代史にも納得していない。また、そのことを《惑星ソラリス》がそうであったように、たえず「別様の可能性」に求めて映画作品を制作してきたことも知られている。ぼくはそれが傑作《ノスタルジア》に結実して、行先不明のファンタジーに昇華していったことに心底驚いたものだ。
それからである。一種の二律背反を通過した者や、その矛盾や葛藤の姿に注目した者が、すぐれた作品表現に達するのは、そこにグノーシスめいたものが出入りしたからだろうと思うようになったのだ。もう少し本気でいえば、グノーシスとの逢着はリテラルにもヴィジュアルにも編集制作性の極北に達する可能性が充ちるものになるだろうと確信するにいたったのだ。
別の言い方をすれば、世界は二択などによって一様につくられることなどありえず、必ずや「世界」(モデル)と「世界たち」(ヴァージョン)との複雑な関係ごと語られるしかないだろう、編集とはそのことを断固としてめざす方法なのだろうということになる。」
*「一方、ここにはなんとも「やりきれないもの」が残っていく。グノーシスをお水取りにした者の作品は、わかりにくいものになっていることが多く、そのためそこからグノーシスを引っ張り出すことが、鑑賞者にも、また本人にすら、難産になってしまうのだ。これはなんとも、じれったい。タンタロスである。
ホドロフスキーや寺山修司やデヴィッド・リンチの演出がわかりにくくなるのは、迎合的な「わかりやすさ」よりもずっと有難いものだけれど、一般にはじれったく、多くの者をタンタロスにさせるのだ。
しかし、ここがAかBかの二択にならずに「orC」に向かえるかどうかの“際”なのである。さきほどフリードリッヒの絵の話をしたが、ターナーの絵も「orC」に向かい続けてみせた。かつてNHKの日曜美術館でターナーを特集したとき、ゲストに呼ばれたぼくは、そのターナーの危険への挑戦を強調したのだが、放映時にはカットされていた。
こんなことを思い出した。かつてパンク・ミュージシャンとして鳴らしていた町田町蔵が、芥川賞作家の町田康となってから、二人で織部もどきの陶芸を遊んだことがある。東京か美濃に出向き、陶芸家の教えを乞いながら、作陶に没頭し、また二人で帰ってくる。そのあいだずっと一緒にいて、その時間のすべてが細部の断片までグノーシスめいていくことを感じた。けれどもそれを掴まえて、ほれほれこれがグノーシスだよとは、言いたいとは思わなかった。町田町蔵には、そんなことはずっと併走していたことだったのだから―――。
できれば、古今のグノーシスを「編集グノーシス」としてその様相の要訣を提示してあげたいとも思うのだが、それには思想界や芸術界からタンタロスの絶叫が聞こえてきてからのほうが、いいのだろう。近頃はしみじみそう思うようになっている。」
◎松岡正剛の千夜千冊 1779夜 思構篇 2021年8月12日
大貫隆・島薗進・高橋義人・村上陽一郎編
『グノーシス 陰の精神史』(岩波書店 2001)
◎松岡正剛の千夜千冊 1846夜 読相篇 2024年4月11日
大貫隆・島薗進・高橋義人・村上陽一郎編
『グノーシス 異端と近代』(岩波書店 2001)