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見田宗介『白いお城と花咲く野原/現代日本の思想の全景』

☆mediopos-3037  2023.3.12

社会学者の見田宗介が
一九八五年から一九八六年の二年間
朝日新聞「論壇時評」欄に
全四八回にわたって書かれたものが復刊され
大澤真幸の解説が加えられている

「論壇時評」は時代が過ぎれば
その内容は古びて感じられることが多いけれど
大澤真幸が述べているように
これは「未だに妥当する」貴重なものである

実際の時評でとりあげられている事件等については
本書を実際に読まなければわからないし
ひとつひとつの時評ごとに話題はさまざまなので
まとめて説明するのは難しいために

そのなかから啓発的であると個人的に思われる時評から
重要だと思われる箇所のいくつかを紹介している(参照)

さて本書のタイトル『白いお城と花咲く野原』は
八六年七月の時評から採られ
副題も「幻想の相互投射性、という視覚像から来ている」
ということだが
当初「〈夢よりも深い覚醒〉への力」を
タイトルとするつもりでいたものの
「メタファーの具象性への、わたしの偏愛から」
現状のタイトルに切り替えたという

直截的なテーマ表現よりも
ポエジーが感じられるようにということだろう

『白いお城と花咲く野原』というのも
また「幻想の相互投射性、という視覚像」という表現も
それだけでは何を意味するのかわかりにくいが
それはブレヒトの反民話(メタ・メルヘン)からのものだ

その反民話はこんな話である

「むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。
王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、
輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。
やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、
こんどは花咲く野原を夢見るようになりました」

この反民話を見田宗介は
「前近代の野にあるという民話「自体」を含めて、
メルヘン的なるもの一般のイロニーであると読み」たいとし
「あるいはむしろ〈近代〉と〈前近代〉との、
幻想の相互投射性ともいうべきものへの洞察である」としている

「人間は物語の外部に立つことはでき」ず
「どのような物語を生きるかということだけを、
わたしたちは選ぶ」からだ

それはどのようにして〈近代〉を乗り越えるのか
という問題にかかわってくる

本書が問いかけているのは
すべての存在者たち
そしてそれらの物語の外部においてではなく

「ペシミズムをつきぬけた向こうのところに、
死者たちや弱者たちや、
未だ生まれてこないすべての世代と共に生きるということを、
もういちどひとつの明るさとして見いだす」ために
「どのような感性と理性を獲得すること」が
必要なのかということへの示唆である

私たちは物語の外部へと「超越」するというのではなく
「もういちど〈内在〉させる力をもつ思想」
「あるいは超越を超越する思想、
世界を新鮮な奇跡の場所として開示する、
ひとつの覚醒」を求めているのではないかというのだ

「近代をこえるということは、
文化と文化との間であれ、個人と個人との間であれ、
人間と他の存在の形たちとの間であれ、
各々に特異なものを決して還元し潔白することのない仕方で、
きわだたせ交響するという仕方で、
共通の〈ことば〉を見いだすことができるか
という課題に絞られてゆく」のではないかと

そうして死者も生者もともに
〈荘厳する〉というよりも
それそのものが
〈荘厳である〉「存在のことば」「覚醒のことば」として
「自身の身体にすでに咲いている花を目覚めさせること。
リアリティを点火すること」である

そうして〈夢よりも深い覚醒〉へ

「近代を乗り越える」ために必要なのは
「超越」ではなく「交響」であり
「深い覚醒」なのではないか・・・と

■見田宗介『白いお城と花咲く野原/現代日本の思想の全景』
 (河出書房新社 2023/2)

(「現代社会の自己表現————「論壇」の解体・変容」(一九八五年一月二十八日)より)

「現代の陰気な良心たちのペシミズムに耳をふさいで、死者たちや弱者たちの切り捨てたところに成り立つ現在の「明るさ」の虚構に逃げ戻ることによってではなく、ペシミズムをつきぬけた向こうのところに、死者たちや弱者たちや、未だ生まれてこないすべての世代と共に生きるということを、もういちどひとつの明るさとして見いだすことがもしあるとすれば、それはわたしたちが、どのような感性と理性を獲得することができた時なのだろうか。」

(「「新しさ」からの解放————ミーハーは前衛を脱ぐ」(一九八五年二月二十六日)より)

「〈伝統〉という名の衣装を脱ぎ捨てたときに人間は、ひとつの解放を手に入れたはずだ。〈前衛〉という名のモード、つねにより「新しいもの」でありつづけねばならぬという強迫観念を脱ぎすてるときに、わたしたちは、もうひとつの巨大な自由を手に入れるだろう。」

(「自由という名の非自由————窒息しそうな子供たち」(一九八五年三月二十八日)より)

「自由といえば自由競争と短絡するのは、人間はすべてエゴイストであるというまずしい人間観である。競争しない自由、自分のペースで生きる自由が根底にあってはじめて、時には競争する自由もまた楽しいのだ。競争を強いられるほどに過酷な不自由はない。エゴイストであることを強いられるほどに過酷な不自由はない。現代の日本の子供たちは今も、このような〈自由という名の不自由〉の中にいる。「自由化」がこれを加速するものであってはならない。実現されるべき〈自由〉とは何か。」

(「離陸の思想と着陸の思想————自己解放の二つの方向」(一九八五年三月二十九日)より)

「虚構のかなたに自然性の〈真実〉などは存在しないのだという「現代哲学」の認識に立って、虚構をみずからの存在の技法とするか、虚構のかなたに自然性の〈真実〉が存在するのだという、時代をこえた生活者の直感に立って、シンプルな自然性の大地に根ざすことをめざすか。それらは現代の思想の二つの前線であると同時に、またわたしたちの日々の生き方としての解放の、当面は異質な二つのスタイルとして存在している。離陸の思想と着陸の思想。時代をその先端に向けて駆けぬけてゆくか。時代をその基底に向けて降り立ってゆくか。」

(「強いられた旅———「外部」という思考の渇き」(一九八五年五月三十日)より)

「根を失った言葉が立ち枯れ、「新しく」そして腐りやすいコトバの菌糸のそこに繁茂する〈腐海〉の鋭敏な嗅覚たちは、今いる「世界」のウソくささへの直覚として、しかしどのようなレアリティへの記憶も断たれて、ただ「外部へ」外部へと向かう抽象化された思考の永劫の渇きのようにかけめぐる。意味の果てへの旅を強いられ、禁じられながら強いられている。」

(「草たちの静かな祭り———「人間主義」の限界線へ」(一九八五年五月三十一日)より)

「人間を大切にするということは、人間だけを大切にするということを越える思想によってしか、支えられない。
 近代のヒューマニズムの限界線は、人間主義をどちらの側にのりこえてゆくのかというふうに、現代の思想の前線を分岐してゆくだろう。」

(「戦後日本のメタ権力———戦後思想の否定の仕方」(一九八五年六月二十七日)より)

「強い父親に反抗する少年の姿には美しさがあるが、その少年が二十年後も年老いた父を打ちつづける姿は醜い、〈戦後民主主義〉の甘えと自己欺瞞とを、今まわしげりにしているその息子たちが、父親とおなじかたちの誤りを、もっととりかえしのつかない仕方で、しようとしている。」

(「夢よりも深い覚醒へ———色即是空と空即是色」(一九八五年七月三十日)より)

「日本人にとって、在日異民族の問題は、非常に特殊な、部分的な問題であるかのようにみえている。けれども日本語の思想世界が、幾十万という民族的〈他者〉をその内部にもつこと、かれらが日本語で考えそして書く、独自の主体として立ち現れているということ、そしてかれらのさらに周辺に、混血者という二重に境界的な思想の世代を形成しつつあること、これらのことは、この思想世界の前縁に、かけがえのない開口部を形成している。
 フッサールもそしてマルクスもフロイトも、ドイツ語で考え、そして書くユダヤ人だった、ヨーロッパ世界の中でユダヤ人が最も創造的な思想を生み出してきたのは、かれらがその生きる世界の中での〈他者〉でありつづけたからだ。ユダヤ人と韓国人・朝鮮人との民族的なアイデンティティのあり方の相違、ヨーロッパ社会と日本社会との性格の相違に応じて、〈在日〉韓国人・朝鮮人
は、ヨーロッパのユダヤ人とは異質の仕方で、けれども同様に創造的な思想の主体たちとして立ち現れるだろうし、それはわたしたち〈在日〉日本人たちの思想に、鮮烈な刺激を与えつづけるだろう。
 もちろんそのために、時代おくれの悪法やその他の差別が存続してもよいということにはならない。幾人かの偉大な思想家を生むことよりも、ふつうの人間が背すじをのばしてかったつに生きられるということの方が、思想としても大切なことだからであり、そしてまた、すぐれた思想を生み出す力をもつ矛盾とは、〈不幸〉だけから来るものでは断じてないからである。」

(「超越を超越すること———宇宙から折り返す視線」(一九八六年二月二十八日)より)

「「先にはもう宇宙しかない」断崖にまで来てしまった人類は、〈折り返し〉の場所に立っている。
 これまでのすべての宗教の課題は〈超越〉ということだったと、植島らはいう。その〈超越〉の方向が現在みえないのだと。
 今わたしたちがほんとうに求めているのは、わたしたちを、もういちど〈内在〉させる力をもつ思想ではないだろうか。あるいは超越を超越する思想、世界を新鮮な奇跡の場所として開示する、ひとつの覚醒ではないだろうか。」

(「非情報化/超情報化———安全という言説の危険」(一九八六年五月二十九日)より)

「チェルノブイリの事故はただ、みえないものをみえるものにしただけである。戦後期の「論壇」を支配してきたあの二項対立の思考をそれは単純に破砕している。けれど(今更)そんなことよりも、「事件」を幾層にも性格づけている非言説という言説、非情報化という情報化ともいうべき仕方での、言説とその外部との循環する閉鎖形のようなものの内には、現在する世界のかたちを解きほぐしてゆく糸口が封じられているようにみえる。」

(「差異の銀河へ———国境を超える二つの仕方」(一九八六年五月三十日)より)

「近代をこえるということは、文化と文化との間であれ、個人と個人との間であれ、人間と他の存在の形たちとの間であれ、各々に特異なものを決して還元し潔白することのない仕方で、きわだたせ交響するという仕方で、共通の〈ことば〉を見いだすことができるかという課題に絞られてゆくように思う。」

(「白いお城と花咲く野原———幻想の相互投射性」(一九八六年七月二十九日)より)

「〈むかしはるかなメルヘンの国にひとりの王子様がいました。王子様はいつも花咲く野原に寝ころんで、輝く露台のあるまっ白なお城を夢見ていました。やがて王子様は王位について白いお城に住むようになり、こんどは花咲く野原を夢見るようになりました〉
 『ユリイカ』七月号の特集『民話の誕生/物語の起源を求めて』の中で今泉文子「民話のメタ・モルフォロギア」に引用されている、ブレヒトの反民話(あるいはメタ・メルヘン)である。」

「ブレヒトの『メルヘン』について今泉は、近代合理性の中で「骨抜きにされ、薄められた」メルヘンに対する風刺としているが、わたしはもうすこし普遍的に、前近代の野にあるという民話「自体」を含めて、メルヘン的なるもの一般のイロニーであると読みたい。あるいはむしろ〈近代〉と〈前近代〉との、幻想の相互投射性ともいうべきものへの洞察であると。
 幻想の相互投射性。一方に「幻想の園」(ツァウベルガルテン)があり一方に「脱幻想化」(エントツァウベルング)があるわけではない。トランシルヴァニアの農民たちにとってロンドンは幻想の都である。インディアンの呪師は白人の人類学者がノートに書くという行為を、「おまえの知っているただひとつの呪術」だという。
 (・・・)だれも幻想の外に立つことはできない。物語批判は物語の否定ではない。人間は物語の外部に立つことはできないからである。どのような物語を生きるかということだけを、わたしたちは選ぶ。
 ブレヒトの『メルヘン』は、ハイゼンベルク効果の発見がそうであるように、世界のあり方についての洞察である。〈白いお城〉と〈花咲く野原〉の、相対性原理。世界がメルヘン的なのだ。」

(「世界を荘厳する思想———明晰による救済」(一九八六年十二月二十六日)より)

「ひとりの死者をほんとうに荘厳するとは、どういうことだろう。その死者の外面に花を飾ることでなく、その生きた人の咲かせた花に、花々の命の色に、内側から光をあてる、認識である。それは石牟礼が、その作品で、具体的に水俣の死者のひとりひとりを荘厳してきたやり方である。
 このようにしてそれはそのまま、生者を荘厳する方法でもある。その生者たち自身の身体にすでに咲いている花を目覚めさせること。リアリティを点火すること。〈荘厳である〉というひとつの知恵は、死者を生きさせるただひとつの方法であることによって、また生者を生きさせるただひとつの方法である。ひとつひとつの空蝉の洞にふるえる天日のあかるさのように、それはこの個物ひしめく世界のぜんたいに、内側からいっせいに灯をともす思想だ。
〈夢よりも深い覚醒〉に至る、それはひとつの明晰である。」

(「あとがき」より)

「本書の標題は、八六年七月の時評から採った。副題もこの時の時評の副題、幻想の相互投射性、という視覚像から来ている。本書を編集する間中、八五年七月の時の標題、〈夢よりも深い覚醒〉への力を、全体のタイトルとするつもりでいた。その方が主題を直截に表現している。終稿を手渡す寸前に、突然、現在の標題の力に切り替えた。言おうとすることは同じことだが、メタファーの具象性への、わたしの偏愛からである。」

(大澤真幸「解題 ほんとうの〈明晰〉がここにはある」より)

「近代は、人間にとって、巨大な解放の過程である。しかし、その解放自体が、もうひとつの困難や桎梏として、あるいは不幸の原因として現れてくる。そのような意味での近代の問題として、本書が特に重視していることは、私の見るところ二つある
 第一は、エゴイズムの問題、あるいは解放された個人の間の関係の相克性という問題だ。」

「近代社会の第二の問題は、〈人間の死〉ということである。十九世紀末の思想が極北に見出したのは〈神の死〉であった。二〇世紀の思想が極北に見るのは————見田によれば————、その発展形ともいうばき〈人間の死〉だった。二〇世紀の後半は、人類がはじめて、人類自身も死にうるということをリアルに自覚し、その事実を、思想を構成する積極的な契機とした時代である。」

「〈近大ののりこえ〉という問題は、近代がポストモダン的な側面(脱意味化の衝迫)をも内在化させていたことを考慮に入れると、ますます困難な課題であることがわかってくる。
(・・・)
 ならばどうすればよいのか。「夢よりも深い覚醒へ」。これが回答である。言語的に閉じられた虚構の世界〈夢〉から脱出し、存在の〈真実〉へとしっかりと着地すること。しかし、これは、夢をただ捨てるということではない。表題が示しているように、覚醒は、「夢よりも深い」というかたちでなされなくてはならない・どういうことか。」

「見田は、般若心経の語を使って、色即是空ではなく空即是色は、私たちの時代の課題だ、と述べる。「色(リアリティ)」はコトバの作用にもとづく虚構にすぎず、本質のない「空」であるという認識は、ポストモダンの思想と親和性が高い。しかし、重要なのは、「空」の方から、リアルな〈真実〉に根をもつ「色」を立ち上げることである。
(・・・)
 ここで主題になっているのは、〈近代〉と〈前近代〉との間にある、「幻想の相互投射」のメカニズムである。
(・・・)
 どの夢、どの物語が「ほんとう」であり、〈真実〉であるのか。夢を肯定する根拠を、物語や夢の外部にもたなくてはならない。本書に収録された時評の多くは、その根拠を探る歩みである・・・・・・と読むことができる。私の読解では、そのような肯定性の原理として、全時評を通じて、二つのものが見出されている。」

「第一の根拠は、ある種の〈関係性〉なのだが、それを〈特異なものたちのあいだの交響する関係〉と呼んでおこう。」

「水俣の身体を通じて、二つのことが起きている。まず、言葉はしずめられ、失語に近い状態にまで還元される(色即是空)。その上で、たとえば石牟礼道子の文章を通じて、言葉が甦る(空即是色)。この二つの運動は、「人間がひとつの病をどのように〈それ以上のもの〉への出口に転回するものかを探り当てている」。〈それ以上のもの〉とは何であろうか。見田は沈黙しているのだが、危険を冒してあえて言うならば、身体をその内に包摂している〈自然(性)〉であり、〈存在の地〉だということになろう。この〈自然(性)〉こそは、「夢よりも深い覚醒」を支える、第二の根拠である。」

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