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写真:竹沢うるま 文・谷川俊太郎 『BOUNDARY/境界』

☆mediopos-2364  2021.5.7

皮肉なものである
(逆説的な意味では象徴なのかもしれないが)
この素晴らしい写真集『境界』が刊行され
写真展が開催されるときに
コロナ禍で「境界」が作られている

東京で開かれてる写真展は
2021年4月20日~4月28日までの開催で
4月29日から5月11日までは臨時休館となった
大阪は6月に開催予定だけれど・・・

「鳥にとっては国境もなく、人種もなく、
そして宗教もない」にもかかわらず
人間には見えない「境界」が存在し
物理的にある「境界」だけではなく
観念の世界でもさまざまな「境界」が存在している

人間は世界を分けることで
分かろうとしているのだが
分けることで分からなくなってしまう
そのことさえ分からなくなっているのだろう

おそらくそのはじまりは
からだをもって生まれてくるときにあった
からだとじぶんを同一化することで
からだではないじぶんとの「境界」が生まれた
それをこころと呼んだりもするが
じぶんはからだなのかこころなのか
わからなくなっていった

そしてまわりにある世界のさまざまもまた
じぶんではないものとして分けることで
分かろうとしていった

禅においては
そうした分かれた世界から
分かれない世界へと至り
そうしてまたあらためて分かれた世界へと至る
そのプロセスが示唆されたりもするが
(山は山である→山は山でない→山は山である)
後者の分かれた世界におけるものは
すでに「境界」のなかに「本質」は存在していない
次元の異なった分かれた世界なのだ

多くのばあい
さまざまな「境界」は疑われてさえいない
国境や人種や宗教だけではなく
さまざまな感情や感覚や思考においても同様である

おそらく生まれてくるのは
そうした「境界」を身をもって知り
その「境界」と格闘し
「境界」そのものを疑い
それを超えていくプロセスでもあるのだろう

その意味でいえば
生まれてくることで
私は私であることを知り
葛藤の末に私は私でないことへと至り
そして私は私であることへと至るが
そのときの私にとって「境界」は
すでに自在に超えられている

そんな「境界」のことに思いをめぐらせながら
写真集『BOUNDARY/境界』を
何度も驚きをもって見ている

■写真:竹沢うるま 文・谷川俊太郎
 『BOUNDARY/境界』
 (青幻舎 2021.4)

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(竹沢うるま「あとがき」より)

「これまで多くの国境を越えてきた。その先で様々な人々や文化に出会い、数多の神に対する祈りを見てきた。
世界の広さと、人の心の深さ、そのふたつが交わる瞬間を求めて旅を繰り返してきたが、長く旅を続けていると、徐々にそこに潜む分断や対立を意識するようになっていった。人種、国境、イデオロギー、グローバリゼーション。そして宗教。世界のどの地に行っても、多かれ少なかれ、そういった目に見えない境界は存在していた。
そんなとき、アイスランドを訪れた。原始の姿を留めた大地は力強く、そして優しかった。火山岩の黒い地表は妖艶な雰囲気を帯びており、降る雪は透明感に満ち、まるで世界を浄化していくかのように風景を白く染めていく。白と黒の世界。一見、対立しているように見える風景がひとつの光景として存在しており、なんとも言えぬ美しさが内包されていた。
その美しさに惹かれて手つかずの原野が広がるアイスランドの山々をひとりで歩いていると、時折、大地と一体化する感覚があった。そのとき、私は人間という存在の小ささを感じずにはいられなかった。やがて我々は誰しもが死に、この大地に抱かれることになる。そう思うと、厳しい環境にいても安心することができた。
無人の自然のなかで撮影しているとき、生き物の存在は頭上に飛ぶ鳥だけだった。鳥を見上げ、きっとあの鳥には私という人間の存在も大地の一部に見えているのかもしれないと思った。鳥にとっては国境もなく、人種もなく、そして宗教もない。境界線。それは刹那の存在である人間が生み出した概念でしかなく、鳥や大地の視点から捉えたとき、まったく意味をなさないのかもしれない。その瞬間、旅の日々で感じ続けていた境界は、すべて消え去った。
私がこの本で伝えたかったのは、我々も大地の一部であり、その視点を持つとき、いま目の前に存在する大半の境界は消えるということである。その象徴として、白と黒の世界を自由に行き来する鳥の存在がある。」

(文:谷川俊太郎 より)

「ヒトはカミと名付けるものを、
 限りない森羅万象のうちに幻視する。

 ヒトはいつかカミの姿を、
 自らに似せるという過ちを犯した。

 コトバを得てヒトは世界を分かつことを覚えた、
 コトバを得てヒトは渾沌に悪を見るようになった。

 刻々に姿を変える自然の動きにこそ、
 見えないカミは宿っているというのに。

 ウイリアム・ブレークは言う、
 「一粒の砂に世界を見る・・・己が手に無限がある」

 手で掴めない巨大なものを目は見ることができる、
 目が届かない深遠なものをコトバは見たつもりになる。」

「美しいもののうちに不気味なものが見えたとき、
 不気味はそのまま美しい謎となる。

 天に境界は存在しないように、
 地にも境界は存在しない、天地の自然を地図が裏切る。

 形あるものを遠ざけてヒトは未知の形を発見する、
 ヒトは新しい形を生もうとして古い渾沌に帰る。

 鳥が飛ぶ世界と虫が這う世界が同じものであることに、
 ヒトが気づこうとしないのは何故だろう。

 大きな物語は無数の小さな物語から成っている、
 だが語るのはヒトではない、コトバでもない、無言の力。

 限りない色と形で世界は織られている、
 それを着てヒトは恥ずかしい裸を隠すのだ。」

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