永井玲衣「世界の適切な保存⑭想像と違う」 (群像 2023年 06 月号)
☆mediopos-3099 2023.5.13
わたしたちは
おなじ世界を
おなじように
生きている
そう思って
日々生きているが
「おなじ」ではない
そして
他者が感じ考えていることを
おなじように
感じ考えているかどうか
ほんとうのところよくわからない
わたしたちひとりひとりは
それぞれ感じ考えている世界のなかで
じぶんが世界だと思っている世界が
どのようなものか
「想像」さえすることのないまま
つまりじぶんの世界観(世界像)を
意識化することのないまま
日々を生きている
それでもときおり
なにかの機会に
じぶんが「想像」さえしていなかったことが
明らかになってみてはじめて
「想像」とは違っていたことに気づいたりもする
永井玲衣は
「会うひと、会うひとに、共通して
「身長が高いと思っていた」と言われる」
そうだ
おそらく「会うひと、会うひと」は
永井玲衣の背が低いということさえ
「想像」していないまま
背が高いと思い込んでいたということになる
世界観(世界像)について
「想像」と違っていることが
なにがしかわかったとしても
ほとんどのばあいは
まるでそれを「想像」さえしていないために
それはそれとして
「ああそうだったんだ」
と思う程度で
そうわかったときにはじめて
世界観(世界像)のなにがしかが
想像=創造されるということになるのだろう
けれども永井玲衣の言うように
「身近でありかつ衝撃度が高い」仕方で
イメージが裏切られるのは
多くはじぶんの関わる他者に関するほうだ
「そんなひとだとは思っていなかった」
というのもまたそうしたイメージの裏切りである
それを「想像」してはいなかったとしても
感情や感覚のレベルでのイメージの裏切りのほうが
衝撃度が高いということだろう
その点でいえば世界観(世界像)の
「想像と違う」のほうが
多くのばあい感情や感覚のレベルには抵触しないので
「ああそうだったんだ」となるのだろうが
じぶんがどんな世界に
どのように生きているのかを
意識化しているときには
しかもそれが生死を越えたありようにおいても
切実な問題で在るときには
世界観(世界像)への「想像と違う」は
まさに天地がひっくりかえるような
衝撃度の高いイメージの裏切りとなる
まさにわたしたちは
おなじ世界を
おなじように
生きてはいない
意識無意識における「想像」世界が
ひとりひとり異なっているからである
■永井玲衣「世界の適切な保存⑭想像と違う」
(群像 2023年 06 月号)
「「身長が高いひとだと思っていました」
オンラインで事前打ち合わせをしたり、配信をしたりすることがふえた。だがそこに映し出されるのは、切り取られた身体である。わたしの全長を知られることはない。
しかしここで不思議なのは、会うひと、会うひとに、共通して「身長が高いと思っていた」と言われることだ。
想像と違う。
はじめて言われたのに、はじめて気づくのに、はじめて会うのに、そして、明確に思い描いていたわけではないのに、想像と違う、と思ってしまう。自分のイメージとの差異がぐぐっと迫って、たじろぐ。」
「想像とは一体なんだろう。もっと言えば「していない想像」とは何なのだろう。明確にイメージを持っているわけではないのに、意外だと思う。イメージと違うと思う。
違う側面が見えたとき、わたしたちはどきっとする。おどろく、たじろぐ。世界まで変わってしまったように感じる。おそらく、不安になり、そして興奮させられる。世界の奥行きにも、そして自分自身がかくし持っていた想像にも、顔を撫でられてびっくりする。
いつも思うが、やっぱり昔のひとは、地動説って相当おどろいたのではないだろうか。天動説が信じられていたとよく言われるが、天動説なんて想定さえしていなかったのではないか。天が動いているんだなあ、と思いながら、過ごしていたわけではないだろう。なんだかよくわからないが、明るくなったり、暗くなったりするなあ、程度のものだったに違いない。それでも、地球が動いているんですよ、と言われたとき、こう思ったはずだ。
想像と違う。
しかしそこでは「想像」はされていないのだ。事実を突きつけられてはじめて、自分がそう思っていなかったことがわかる。あらかじめ持っていたものに気がつくというよりは、言われた瞬間にその想像が「あらかじめあった」として成立する。創造される。
当時、どれだけの衝撃だったのだろうか。実はわたしもずっとうっすらと思っている。想像と違う。天のほうが動いているという想像すらしていないのに。
イメージの裏切りの矛先は、物体であったり、世界そのものであったりするが、身近でありかつ衝撃度が高いのは、やはり他者に関するものなのではないか。」
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