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伊藤亜紗『手の倫理』/『目の見えない人は世界をどう見ているのか』/古田徹也『それは私がしたことなのか』

☆mediopos3477  2024.5.25

伊藤亜紗『手の倫理』については
mediopos-2158(2020.10.13)
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』については
mediopos-155(2015.4.19)でとりあげているが
今回は以前とは別の視点「倫理と道徳」からあらためて

ここでいう「倫理(moral)」と「道徳(ethics)」の違いは

「道徳」が抽象化された主体にとっての
一般化された「実在しない「仮説」」であるのに対して

「倫理」には「一般」などというものはなく
実際の主体にとって状況は個別的であり
「判断をする人も、それぞれに異なる
社会的、身体的、文化的、宗教的条件のなかに生きており、
その個別の視点からしか、自分の行動を決められない」

過剰に状況依存的になってしまわないように
「道徳が提示する普遍的な視点を持つ」必要はあるのだが
たとえば「人間」「身体」「他者」にしても
「それぞれの人間は違うし、それぞれの身体は違うし、
それぞれの他者は違って」いる

「倫理」が必要なのは
「「一般」が通用しなくなるような
事態が確実に存在するから」で
「倫理的に考えるとは、まさにこのズレを
強烈に意識することから始まる」

『手の倫理』で紹介されているように
古田徹也はこうした道徳と倫理の違いを
『それは私がしたことなのか』で表の形にまとめている

たとえば「道徳」が
「画一的な「正しさ」「善」を指向」し
「万人に対する義務や社会全体の幸福が問題となる」
のに対し

「倫理」は
「「すべきこと」や「生き方」全般を問題」にし
「「自分がなすべきこと」や「自分の生き方」
という問題」もそこに含まれている

また「道徳」は
「価値を生きること」であるのに対し
「倫理」は
「価値を生きるだけでなく、
価値について考え抜くことも含まれ」ている

伊藤亜紗『手の倫理』はそうした視点をふまえ
「触覚」が「不道徳だからこそ倫理的でありうる」
ということを示唆している

「倫理」が問題にするのは
「具体的なある状況においてどうふるまうか」であり
「さまざまな可能性を探りながら、
行為を選びとることに関わ」ってくる

杓子定規な「○○すべし」の「道徳」は
複雑な状況のなかで「自明な行動規範」とはならない
その際どうしても必要になるのが
「道徳を相対化するという意味での不道徳性」で

その意味で「触覚は道徳的ではないかもしれない。
でもそれは確かに、いやだからこそ、
倫理的でありうる」というのである

伊藤亜紗には『手の倫理』の五年ほど前に
『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
という著書があるが
そこで示唆されている
「見える人」と「見えない人」との認識の違いを
あわせて考えていくとさらに理解は深まる

たとえば
「見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、
見えない人は三次元のままとらえている。
つまり前者は平面的なイメージとして、
後者は空間の中でとらえている」

私たちは三次元世界で生きているように思っているが
見ているのは「平面」そして見えている表面でしかない

視覚を使って「見る」ということは
「私の視点から見た空間」でしかないからである
そしてそれは世界を「平面」へと射影し
抽象化して見ているということでもある

「見えない人」は
「目の前にある物を視覚でとらえないだけでなく、
私たちの文化を構成する視覚イメージをもとらえること」がなく
「文化的なフィルターから自由」であるように
「見えない人」は「見える人」より
「物が実際にそうであるように理解している」といえる

このことはたんに
「見える人」と「見えない人」との認識の違い
というだけではなく
私たちが世界を認識し
それに対してさまざまな感覚を働かせるときの
「認識の違い」について理解を深める必要がある
ということでもある

そうして
道徳を相対化し
見ることを相対化する
相対化するだけではなく
相対化することによる陥穽をも意識しながら

「状況の複雑さに分け入り、
不確実な状況に創造的に向きあうことで、
「善とは何か」「生命とは何か」といった
普遍的な問い」を問い直していく・・・

「倫理的な営みとはむしろ、
具体的な状況と普遍的な価値のあいだを往復」し
「そうすることで異なるさまざまな立場を
つなげていくことである」というのである

■伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ 2020.10)
■伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』
 (光文社新書 2015.4)
■古田徹也『それは私がしたことなのか: 行為の哲学入門』
 (新曜社 2013/8)

**(伊藤亜紗『手の倫理』〜「第1章 倫理」より)

・倫理と道徳

*「「倫理」とは何でしょうか。」

「本論では、その意味するところを、「道徳」との違いを手がかりにして明確にしたいと思います。」

*「哲学者のアラン・バディウは、その名も『倫理』という本のなかでこう述べています。「倫理を抽象的範疇(人間、権利、他者・・・・・・)に結びつけるのではなく、むしろさまざまな状況へ差し戻すことにしよう」。そしてバディウは言います。倫理に「一般」などというものはない、と。なぜなら状況が個別的であるのに加えて、判断をする人も、それぞれに異なる社会的、身体的、文化的、宗教的条件のなかに生きており、その個別の視点からしか、自分の行動を決められないからです。「倫理『一般』」などないとすれば、それは倫理『一般』で自己を武装せねばならない抽象的な主体などないからだ」。

 哲学や倫理学のような学問の領域に限らず、社会生活のさまざまな場面で、私たちはものごとを一般化して、抽象化して捉えてしまいがちです。「人間」「身体」「他者」という言葉。ほんとうは、そんなものは存在しません。それぞれの人間は違うし、それぞれの身体は違うし、それぞれの他者は違っています。

 けれどもついついその差異を無視して「人間一般」「身体一般」「他者一般」について語り、何かの問題を扱ったような気になってしまう。もちろん、道徳が提示する普遍的な視点を持つことも重要です。そうでなければ、人は過剰に状況依存的になってしまい、その場まかせの行動をすることになってしまうでしょう。けれども、「一般」として指し示されているものは、あくまで実在しない「仮説」であることを、忘れてはなりません。なぜなら「一般」が通用しなくなるような事態が確実に存在するからです。そして、倫理的に考えるとは、まさにこのズレを強烈に意識することから始まるのです。」

*「倫理が具体的な状況に関わるということをさらに一歩進めて考えるならば、そこでは「できるかできないか」ということが問題になるということを意味します。この点に関しては、哲学者・倫理学者の古田徹也の議論を参照しましょう。古田は、倫理と道徳の違いを、いくつかの観点から非常に分かりやすい表の形にまとめています。」

 →道徳と倫理の区別(古田徹也『それは私がしたことなのか』エピローグより)

*「「倫理」という具体的な状況に関する問いだからこそ、できるかぎり具体的な行為に即して考えてみたい。それが「手に倫理を学ぶ」ことの意味です。」

*「言葉に寄りかからず、具体的な状況の中で考える。私が強くそう念じる背景にあるのは、実際に、気になって警戒しているある言葉があるからです。

 それは「多様性」という言葉です。あるいは「ダイバーシティ」「共生」といった言葉もそう。」

「もちろん、人が一人ひとり違っていて、その違いを尊重することは重要です。「多様性」の名の下に行われている取り組みには、こうした違いを尊重し生かすことに貢献するものもあるでしょう。しかし、「多様性」という言葉そのものは、別に多様性を尊重するわけではない。むしろ逆の効果すら持ちうるのではないかと感じています。」

「多様性は不干渉と表裏一体となっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。「多様性」という言葉に寄りかかりすぎると、それは単に人々がバラバラである現状を肯定するための免罪符のようなものになってしまいます。」

「多様性という言葉に安住することは、それ自体はまったく倫理的なふるまいではない・そうではなく、いかにして異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、そこにこそ倫理があるというのです。

 これに対し、さわる/ふれることは、物理的な接触ですから、その接触面に必ず他者との交渉が生じます。物理的であるからこそ、さわる/ふれることは、避けようもなく「他人のことに口を出す」行為なのです。他者を尊重しつつ距離をとり、相対主義の態度を決め込むことは不可能。この意味でさわる/ふれることは、本質的に倫理的な行為だと言うことができます。

 ただし、倫理は単に具体的な状況に埋没するものではない、という点にも注意が必要です。確かに、先に確認したように「一般」を前提にしないことが、倫理を道徳から区別する重要な特徴です。けれども、ただひたすらその状況の内部から価値を主張することもまた、倫理的ではありません。状況の複雑さに分け入り、不確実な状況に創造的に向きあうことで、「善とは何か」「生命とは何か」といった普遍的な問いが問いなおされる。あるいは異なる複数の立場のあいだにも、実は共通の価値があることが見えてくる。倫理的な営みとはむしろ、具体的な状況と普遍的な価値のあいだを往復すること、そうすることで異なるさまざまな立場をつなげていくことであると言うことができます。」

*「一人の人が持つ多様性は、実際のその人と関わってみないと、見えてこないものです。」

「「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提で人と接する必要があるということでしょう。それは配慮というよりむしろ敬意の問題です。この人は、いま自分に見えているのとは違う顔を持っているかもしれない。此の人は、変わるのかもしれない。変身するのかもしれない。いつでも「思っていたのと違うかもしれない」可能性を確保しておくことこそ、重要なのではないかと思います。」

**(伊藤亜紗『手の倫理』〜「第6章 不埒な手」より)

・不道徳だからこそ倫理的でありうる

*「触覚は社会的に許されないような行為へと、人を誘い込むことさええります。「思わずさわりたくなってしまった」という欲望は、見ず知らずの人の体にさわっていい理由にはなりません。「どうしても打ち負かしたくなってしまった」という衝動にまかせて暴力をふるってしまったら、いたるところで殴り合いの喧嘩が起こるでしょう。こうしたふるまいは、端的に言って道徳に反する行いです。法的な処罰の対象にもなり得ます。

 けれども、誘惑そのものは、簡単に悪いと言ってすませていいものではないように思います。むしろ、触覚の非道徳性がもつ力というものもあるのではないか。

 第1章での議論を思い出してみましょう。私たちはそこで、「道徳」と「倫理」を区別しました。

 道徳は、具体的な状況やその人の能力によらない。普遍的な善を目指すものでした・「いついかなるときでも○○せよ」。それは断固とした命令であり。この命令に反することは。厳しい非難の対象になります。道徳は、すでに定まった価値に関わるものです。

 これに対して、倫理が問題にするのは、「具体的なある状況においてどうふるまうか」でした。いまこの状況で自分には何ができ、どのような選択肢がありうるのか。倫理には「迷い」や「悩み」がつきものです。倫理は、さまざまな可能性を探りながら、行為を選びとることに関わります。

 触覚のもつ誘惑する力。それは、道徳をゆさぶる力です。「○○すべし」という命令を素直に実行できるほど、この状況が純粋で、単純でないことに気づいてしまった。この複雑で不純な状況のなかで、私はいったい、どのようにふるまえばよいのか。自明な行動規範はそこにはありません。触覚が不道徳であるのは、単に道徳に反するからではありません。触覚が持っているのは、道徳が押し付けてくる規範を相対化する力です。

 道徳を相対化するという意味での不道徳性。触覚は、こうして私たちを道徳から離れさせ、逆に倫理へと近づけていきます。もはや、道徳が与える杓子定規な命令に従うことはできない。かといって、人としてあるまじき道徳に反する行いは避けねばならない。ならば状況の複雑さに向きあい。異なるフレームが与える複眼的な視点に立って、進むべき道を求めて格闘していくほかありません。第1章で確認したとおり、倫理とは銅像的なものです。」

*「第1章で、人と人の違いという意味での多様性よりも、一人の人のなかにある無限の多様性のほうが重要ではないか、と述べました。触覚がその直接性の中に隠し持つ「扉」は、私を。その「状況にとってふさわしくない私」にすらしてしまう可能性を持っています。不埒な触覚の誘いに乗って、あるいはそのそばで誘いに抵抗しながら、状況にとっての異物となった自分と出会うこと。

 自分の中にあった異質なものに導かれていくこうした感覚こそ、実は状況に深く分け入り、伝達的でない仕方で他者と出会い。その中に入り込み、持続的に関わっていく、その導き手になりうるのではないか。触覚は道徳的ではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。」

**(伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』〜「第1章 空間」より)

*「見えない人、とくに先天的に見えない人は、目の前にある物を視覚でとらえないだけでなく、私たちの文化を構成する視覚イメージをもとらえることがありません。見える人は物を見るときにおのずとそれを通してとらえてしまう、文化的なフィルターから自由なのです。

 つまり、見えない人は、見える人よりも、物が実際にそうであるように理解していることになります。」

*「見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、見えない人は三次元のままとらえている。つまり前者は平面的なイメージとして、後者は空間の中でとらえている。

 だとすると、そもそも空間を空間として理解しているのは、見えない人だけではないか、という気さえしてきます。見えない人は、厳密な意味で、見える人が見ているような「二次元的なイメージ」を持っていない。でもだからこそ、空間を空間として理解することができるのではないか。

 なぜそう思えるかというと、視覚を使う限り、「視点」というものが存在するからです。視点、つまり「どこから空間や物を見るか」です。「自分がいる場所」と言ってもいい・もちろん、実際にその場所に立っている必要は必ずしもありません。

(・・・)

 このことを考えれば、目が見えるものしか見ていないことを。つまり空間をそれが実際にそうであるとおりに三次元的にはとらえ得ないことは明らかです。それはあくまで「私の視点から見た空間」でしかありません。」

*「決定的なのは、やはり「視点がないこと」です。視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができたわけです。

 すべての面、すべての点を等価に感じるというのは、視点にとらわれてしまう見える人にとってはなかなか難しいことで。見えない人との比較を通じて、いかに視覚を通して理解された空間や立体物が平面化されたものであるかも分かってきました。もちろん、情報量という点では見えない人は限られているわけですが、だからこそ、踊らされない生き方を体現できることをメリットと考えることもできます。

 物理的には同じ空間、同じ物でも、見える人と見えない人では、全く異なる意味を見出している。」

**(伊藤亜紗『目の見えない人は世界をどう見ているのか』〜「第5章 ユーモア」より)

*「そもそも障害とは何でしょうか。

「障害者」というと「障害を持っている人」だと一般には思われています。(・・・)

 しかし、実際に障害を抱えた人と接していると、いまだ根強いこの障害のイメージに対しては、強烈に違和感を感じます。端的にいって、こうした意味での障害は、その人個人の「できなさ」「能力の欠如」を指し示すものです。「できなさ」や「能力の欠如」だから、触れてはいけないものと感じられる。

 何人もの研究者が指摘していますが、こうした個人の「できなさ」「能力の欠如」としての障害のイメージは、産業社会の発展とともに生まれたとされています。(・・・)

 動労が画一化したことで、障害者は「それができない人」ということになってしまった。それ以前の社会では、障害者には障害者にできる仕事が割り当てられていました。ところが「見えないからできること」ではなく「見えないからできないこと」に注目が集まるようになってしまったのです。」

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