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永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと/「顕現しないものの現象学」から考える」(『談 no.129 』/『〈精神的〉東洋哲学/顕現しないものの現象学』

☆mediopos3404  2024.3.13

mediopos3402(2024.3.11)では
『談 no.129』の記事のなかから
宮本省三「経験する主体、オートノミーとリハビリテーション」
をとりあげたが
今回は永井晋「動きのなかに入り、共に働くこと/
「顕現しないものの現象学」から考える」をとりあげる

ちなみに同テーマについては
mediopos-2451(2021.8.2)において
永井晋『〈精神的〉東洋哲学 顕現しないものの現象学』が
すでにとりあげられている

フッサールからはじまる現象学は
デカルト的な主観と客観の実体的な分離の手前に溯り
「事象そのもの」が直接現れている現場で哲学する
というものだが

その「現象学的還元」を
「現れているもの」「存在者」ではなく
「現れていないもの」「顕現しないもの」(ハイデガー)へ
つまり「存在すること」へと拡大していくのが
「顕現しないものの現象学」である

タイトルにある
「動きのなかに入り、共に動くこと」だが
その「動き」は「一者の根本経験」とよばれる事態である

「一者が自ら顕現すること、そして、
人間がこの自己顕現の動きに同調して
一者の「動きのなかに入って共に動」き、
その動きを通して自己顕現する一者を
「内部から直接体験」することとして生起する」
という「一者の体験」であり
それによって「自動性というあらたな地平」が開かれる

そしてその「自動性」は他律−自律ということを超えた
「覚醒」ということでもある

通常の西洋哲学では
「私たちが住む感性的・地平世界や
神や一者などと呼ばれるものの間にはなにもないか、
あったとしても単なる空想的世界、あるいは
怪しげな神秘的世界、もしくは宗教的な境地
のようなものとしてしか捉えられてい」なかったが

「〈精神的〉「東洋」哲学」としての
「顕現しないものの現象学」は
ユダヤ教やイスラームの神秘主義そして密教や老荘思想など
アンリ・コルバンや井筒俊彦などが示唆している意味における
「動きそのものとしての一者」という視点から
その一者の内部からの経験を明らかにしようとする

神的な次元のものをとらえようとする際においても
顕現するものを論理化しようとすると
神学や西洋哲学となるが

顕現しないものを
その一者の内部が映しだす
鏡としての経験とともにあろうとすると
「〈精神的〉東洋哲学」となるのである

■永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと/「顕現しないものの現象学」から考える」
 (『談 no.129 ドロモロジー 自動化の果てに』水曜社 2024/3)
■永井晋『〈精神的〉東洋哲学/顕現しないものの現象学』 (知泉書館 2018/11)

*(佐藤真「editor's note 自動化の二つの側面/自動化する自律性、自律化する自動性」他より)

「永井氏は、「一者の根本経験」とよぶ事態のありようと、それを学問的に把握し記述するための方法論を説明する。一者とは、歴史的には、「神」「空」などさまざまな名称で呼ばれてきたものである。永井氏によれば、それは生命の運動そのものであるような絶対者であるという。それは、人間の通常の対象認識的な意識に対しては、決してあらわれることがないにもかかわらず、だがすべてを包摂する生命原理のようなものとして人間に対して特別な仕方で現象する。この現象を、人間はいかにして捉えることができるのか、ということが永井氏の当面の問題なのだ。一者は、通常の認識活動にあらわれてしまえば不可避的に偶像になってしまうにもかかわらず、しかし、それ自体で人間に対して顕現する。この一見するところ不可能な事態は、一者が自ら顕現すること、そして、人間がこの自己顕現の動きに同調して一者の「動きのなかに入って共に動」き、その動きを通して自己顕現する一者を「内部から直接体験」することとして生起する。一者の体験が開く自動性というあらたな地平。言い換えれば一者が複数性へと炸裂する時を捉えること、ここにあるのは人間の、時間の、唯一無為の「瞬間」である。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「フッサールの現象学的方法論とその可能性」より)

「・・・・・・永井先生は現象学を、「事象そのもの」へ接近する試みだと説明されていますね。

ええ。オーストリアの哲学者エトムント・フッサールが提唱した現象学は、マルティン・ハイデガー、ジャン=ポール・サルトル、モーリス・メルロ=ポンティ、エマニュエル・レヴィナス、ミシェル・アンリ、ジャック・デリダといった多くの錚々たる哲学者によって批判的に継承されてきました。(・・・)私はフッサールからハイデガーを経て、さらにレヴナスやアンリ、マリオンといったいわゆる「神学的現象学」への展開が非常に重要だと考えています。
 フッサールは現象学の目標を、いかなる先入観や独断にもとらわれることなく、いかに「事象そのもの」に接近できるか、というところに置きました。その際、フッサールの本来の意図は認識論的、あるいは真理論的なものです。
 私たちは普通、感覚をとおして見たり聞いたり、触ったり、嗅いだり味わったりするものを客観的実体として「存在する」と思っています。フッサールは、このようなものの見方を「自然的態度」と呼びます。(・・・)
 けれども、その感覚は私立ち居「主観的に」与えられます。ただしここで、「主観的に」というのが「(実体としての)主観に」ではないことに注意してください。フッサールの現象学はデカルト的な主観と客観の実体的な分離の手前に溯って、事象そのものが直接現れている現場で哲学することですから。
(・・・)
 現象学では、還元を遂行して、「もの」が「どのように与えられているか」を反省的に明らかにすることで、「事象そのもの」へと迫ろうとします。
(・・・)
 しかしここで問題なのは、フッサールが、そのような反省によって発見され、主題化された主観的な与えられ方を、「構成」という名のもとに、もう一度「机」という客観的な統一体に引き戻し、同じ一つの「机」「の」多様な現れにしてしまったことです。
(・・・)
 ところでハイデガーは、還元を何らかの対象(ハイデガーはこれをより広い意味をもつ「存在者」と呼びます)としては「現れていないもの」、彼の後期の言葉では「顕現しないもの」へと拡大します。彼が現象学の主題とする唯一の事象は「存在すること」ですが、それはそれ自身が存在することは決してありません。存在することが存在するとすれば、それは存在者(存在する「もの」)になってしまい、もはや音在する「こと」ではないからです。つまり、ハイデガーにとって「存在すること」が問題だと言いましたが、正確に言えば、それが存在者としては現れ「ない」ということ、その「否定」こそが重要なのです。存在することが現れるとすれば。それは、われわれが存在者の世界のなかにいる限り、さしあたりこの否定として以外にありません。それを彼は「存在論的差異」と呼びますが、この場合、「存在」が「存在者」との差異において見られている限り、正しい呼び方ではありません。(・・・)「顕現しないものの現象学」とはこの境位に至って初めて言われたことなのです。

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「「顕現しないもの」はいかに現れるか」より)

「主観的な現れを客観的な対象に結び付ける意識の働きをフッサールは志向性と呼びますが、それは具体的には地平、つまりそこにおいて世界が現れる場として働きます。(・・・)ハイデガーの王「現れていないもの」「顕現していないもの」、つまり「存在すること」は当然この地平には現れませんから、それを顕(あらわ)にするためには、何らかの仕方でこの地平を出る必要があるわけです。
 では、どうすればこの地平を出られるのか。それは、ハイデガーによれば、「存在すること」に「気分づけられる」ことでなされます。存在することは、私にある仕方で現れますが、決して対象のような客観的なものではありません。(・・・)先に見たように、現象学的に還元された経験とは何らかの「私」に与えられるものでした。したがって、『存在と時間』のハイデガーは、現象学者として、「存在すること」も「私」に現れると考えるのですが、それは「私の死」をとおしてだと考えます。(・・・)
 「死」は、存在者ではない以上、地平には決して入らないものです。それはむしろ「垂直」に現れるというべきです。(・・・)
 絶対に存在者にはならない、「無」としかいえない存在の現れ、それが「私の死」であり、その「無」を決して存在者にすることなくどのように経験し、語ることができるのか。それを、「私」を含めた存在者による限定を排除して突き詰めていくと、「顕現しないもの」に行きつくんですね。」

「ジャン=リュック・マリオンは「顕現しないものの現象学」をハイデガーすらも超えて展開しているフランスの現象学者ですが、彼はこの、真に、あるいは徹底して「顕現しないもの」を「贈与」と呼んでいます。先ほどから言っているように、存在自体は存在しないのですが、ではどうするのかと言った時に、最終的に存在は「与えられる」(〈それ〉が与える)、とハイデガーも考えますが、マリオンはそのハイデガーの存在の贈与を顧慮したうえで、「神」が存在を与えると考えるのです。ただ、ここで言う「神」はマリオンの言う「存在なき神」であり、存在より「上位」に、神という究極の存在者が想定されているわけではありません。それでは神は究極の存在者になってしまいますから。それは実体や存在者としてではなく、むしろ「与える」という「出来事」として考えられねばなりません。
 いずれにせよ、「存在すること」は素朴な現象学や存在論を成立させる地平的なるものによって隠蔽されている、とも言えます。しかもそれは、それを回避しようとするハイデガーの思惟にも付き纏っている。ハイデガーはそれを存在することそのことに含まれる不可避的な仮象の発生として考えていましたが、私はこのような地平的なものの付き纏いをマリオンにならって「偶像化」もしくは「偶像崇拝」と呼んでいます。そこから見ると、存在することそのことが一種の偶像、究極の偶像なのではないかと思われるのです。「実在そのもの」の現象学的探求はそこから始まります。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「「現前しつつ:現前することそのこと」としての実在」より)

「名指せるもの、語り得るものは存在者として、地平のなかで捉えられる事象です。そして、その意味での語り得ないものはさまざまに考えられます。しかしハイデガーの思索の文脈で「顕現しないもの」と表現された名指せないもの、語り得ないものは、どうしたら経験でき、語れるのか。それは、存在=現前としての「顕現しないもの」をさらに「一」にまで吊り下げることで、多様な現象として現れるのではないか。それが私の二つの著書における中心的なテーマだと言うこともできますが、それを私は「実在そのものの自己顕現」と表現しました。」

「たとえばレヴィナスにおいて、「顕現しないもの」は「他者の顔」ですね。「他者」は存在もしないし、意識もされない。ここまでお話ししてきた「存在」は意識から隠れていますが、そこからもさらに隠れていくのが、レヴィナスにとっての「他者」です。ところでレヴィナスはユダヤ人であり。タルムード(ユダヤ教の聖典解釈学)の研究でも知られるように、ユダヤ思想を背景とした独自の倫理学をもっていました。ですから彼の言う「他者の顔」とは、ユダヤ教的な「神の律法」に他なりません。それをレヴィナスは、ハイデガーの「存在」という「顕現しない」ものよりもさらに「顕現しない(目立たない)」ものと考えるのです。そしてそれは「顔」として現れる、と言う。この「顔」という現象は、存在と同じように、地平の「として構造」を媒介しないで神そのものが現れたものである点が極めて重要です。地平に先立つ、神のいわば垂直の現れは「として」を媒介しないため、「現れるもの(神)」とその「現れ」が完全に一致するのです。つまり、世界の対象や存在者がなお前提していた「差異化」が必要ない、あるいは妨げになるような、そういう現象なのです。それは、レヴィナスやデリダが使う表現では、神の「痕跡」と言うべきものです。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「顕現しないものの現れとしての「一即多」」より)

「ユダヤ教では、神は十戒をはじめとしる「律法」というかたちで現れます。現象学的に言えばこれは先ほどお話しした「自己媒介」であり、神そのものの「痕跡」としての現れです。この律法は神の言葉によって書かれますが、この言葉は先ほどのような意味での「語り得る/語り得ない」ということが問題になる地平的レベルでの言語とはまるで構造が違います。この特殊な言語観は、ユダヤ教の神秘主義カバラーにおいて、文字は神が形をとって現れたものだという考えにもとづいています。
(・・・)
 ここでは「顕現しない」神自身が、二二個の文字になって現れている。つまり「顕現しない」ということは「何も現れない」ことではなく、神の内部で、神そのものの現れとしてさまざまなかたちとなって現れる、ということなんですね。法外な強度をもった多様性として炸裂して現れてくる。それはいろいろなかたちの現れでありえますが、その一つが二二個の文字なのだ、というわけです。
 これは、私たちに馴染みのある仏教でいうと、空即是色、とりわけ華厳が教えるところの「一即多」という事態と同じです。「一」であることが即ち「多」であるということ。それを仏教では「即」という事阿でつなぎますが、私はこの「即」という言い方が「顕現しないもの」の現れのメカニズムを表すのに一番いいように思います。」

「これらの神秘主義的な伝統において、「一」や「実在そのもの」などと名指される「顕現しないもの」にまで上昇していく————これを現象学的に言えばそこまで還元を吊り上げていくということになるわけですが、そこで一気に「実在そのもの」へと転回し、それが独自の多様な現象へと自己展開してゆく。それが「多」であり、カバラーの二二の文字や一〇個のセフィラー、さらには私たちもよく知るマンダラとして現れる。この、差異化に代わる「一即多」という現象化の仕組み、これが、私が考えている「顕現しないもの」の現象構造であるわけです。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「一即多の現れとしての「中間界」」より)

「これまでの西洋哲学では、私たちが住む感性的・地平世界や神や一者などと呼ばれるものの間にはなにもないか、あったとしても単なる空想的世界、あるいは怪しげな神秘的世界、もしくは宗教的な境地のようなものとしてしか捉えられていませんでした。(・・・)
 しかし、ユダヤ教やイスラームの神秘主義、密教や老荘思想など、コルバンや井筒が言う意味での「東洋」には、そうしたイマジナルの現象が満ち満ちています。ですから、ここをもう一度現象学的に評価しないといけないというのが、私の考える「顕現しないものの現象学」なんです。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「多様な現象として「実在そのもの」が現れる」」より)

「・・・・・・先生の言われる「顕現しないものの現象学」というのは、現代哲学のなかでジル・ドゥルーズなどが言う「潜在しているもの」、あるいは「隠されたもの」と同じでしょうか。

 まさにそうです。ドゥルーズの言う「潜在性」は中間界の元型的な潜在性に一致すると思います。いずれにおいても、あるものの意味が地平世界のなかで一義的に規定されると、それによって排除されたそれ以外の意味は元型的な中間界に隠れていきます。しかし一義化(字義化)されたものはすぐさまこの潜在性へと引き戻され(還元され)、そこから再び新たな経験が想像的に展開されていく。これは後でみるデリダの脱構築にも、レヴィナスの他者を経験することとしての「言うこと」にも共通している経験です。あるいは元型的潜在性は、まったく別の文脈ですが。C・G・ユングの「元型」にも見られます。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「現れつつ隠れるものとしての「実在」」」より)

「これまでの話でもう一つ重要なこととして、「隠れ」ということがあります。現象学的には「能われる」とは「即」、「隠れる」ことでもあるからです。・・・・・・少しややこしくて、本当に申し訳ないのですけれど・・・・・・(笑)。しかし実際にフッサールから「顕現しないものの現象学」まで、「隠れ」は「現れ」と共に、場合によってはそれ以上に、現象学の主題だとも言えるのです。というより両者は結局同じ事態の二つの面に過ぎないのですが。」

「神の二二文字は、意味が一義的に理解されると、その他の解釈の可能性は潜在性として文字の奥、もしくは深みに隠れていきます。「顔」に直面して、圧倒的な「命令」としてそれを経験した時も、同時にそこにあh無限の意味が隠れていて、神そのものも隠れている。レヴィナスではこの隠れが「エロス」として経験されます。(・・・)愛する恋人が隠れていく経験ですね。愛は恋人を所有してしまえば冷めてしまいますから、恋人は常に隠れ続けなければなりません。ですから「実在そのものの自己顕現」という自己媒介的な現れもまた、自ずから、それだけで現れつつ、それとまさに同じ出来事として徹底して隠れることによって自己媒介しているわけで、要するに「現れ即隠れ」なんですね。難しい言い方ですが。ある現象が「自己媒介」して、つまりいかなる地平的媒介も経ることなしに、「それだkで」現れているということは、それが徹底して隠れることによって可能なのです。」

「そもそも「顕現しないものの現象学」は、フッサール以来の伝統的な現象学を最初から踏み越えてしまっていますから、私たちが見たり聞いたりする時の「志向性」も突き破って、「実在そのもの」の方から現れてくるわけです。この時点で、経験は「志向性」よりももっと深いところへ行ってしまっている。
(・・・)こうして「顕現しないものの現象学」は、西洋哲学の論理の枠組みを踏み越えていきます。そこに思惟の新たな可能性があります。先にも言いましたが、現象学とは可能性なのです。それは常に新たな現象を発見してゆかねばななりません。
 この新たな可能性を探究するものとして、私は第二の著書で「〈精神的〉東洋哲学」と言っているのです。ここで言う「東洋」とは、この言い方も誤解を招きやすいのですが。必ずしも地理的な意味ではなく、「顕現しないもの」が現れる場所としての中間界を意味しています。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「「実在そのもの」と「共に動く」こととしれの「顕現しないものの現象学」」より)

「・・・・・・レヴィナスの「顔」に対峙することもそうですが、ユダヤ教の神に対峙することも。非常に「怖い」体験だと思います。恐怖そのものであり、恐怖そのものとして体験する、というような・・・・・・。

 そうです。それはまさに、宗教学者ルドルフ・オットーが言う「ヌミノーゼ」の経験ですね。あまりの恐ろしさに身の毛がよだつ、震えあがるような経験。これは宗教、少なくとも一神教には欠かすことのできない要素ですが。西洋哲学はこの、理性を絶対的に超えた次元を避けてきました。神学も同様です。いずれも概念を媒介することで、理性を破壊するほどの強度をもったこの体験を合理化し、避けてきたわけです。しかし、概念化されない直接経験、つまり事象そのものに即する現象学では、この経験がまさに「ヌミノーゼ」として経験され、記述されねばならないはずです。」

「レヴィナスは、後期の作品『存在することとは別の仕方で、あるいは存在することの彼方へ』(一九七四)では、工夫してこの体験を現象学的に記述しようとしています。それは自ら還元を遂行しながら書かれた驚くべきテクストですが、これを読むことで、他者そのものに向かう動きのなかに読者もある程度入っていくことができるように書かれています。彼は、自身が「他者そのもの」の「身代わり」になる、その動きそのものを何とか書こうとしているのですが、その文体は凄まじいものです。レヴィナスは自らが語る他者経験を「狂気」だとさえ言っているのです。それでも読者は、このテクストを読むことでレヴィナスの極言の体験をある程度追体験できる。これこそが「語り得ないもの」を語る、一つの優れた例だと思います。

・・・・・・今回タイトルにさせていただいた先生の言葉、「動きのなかに入り、共に動くこと」とは、まさにそういうことですね。」

「レヴィナスの「言い換え」もデリダの「脱構築」も、さらにはテクストを介さないベルクソンの「エラン・ヴィタール」も、まさに「動きの経験」だということができるでしょう。カバラーの「共に動く」とはそういうことで、そこから新しい意味を生み出すことは、それを読む自己自身が新しくなることです。意識の抑圧から生命を解き放つことで、自己が想像的に、まったく新たに変わっていく。これは自己がその自己同一性を破壊して新しくなっていく経験ですから、自己同一性を前提とする西洋哲学にはない考え方です。そして重要なことは、このような創造的な「動き」の経験が、「〈精神的〉東洋」の経験であり、そしてそれが「顕現しないものの現象学」の一つのかたちだということです。」

*(永井晋「動きのなかに入り、共に動くこと」
      〜「動きのなかに入り、共に働くことで生まれる創造」より)

「レヴナスでは、「命令」するのは「他者」、つまり神でしたが。それは「存在」と同じで、まったく限定できないものです。そして「命令」されているのも、いわゆる自我としての「私」ではありません。いわゆる『旧約聖書』(正確には『タナハ』)の「出エジプト記」で神に名前を呼ばれたモーセが、「ヒネーニ(はい、ここにいます)」と答える時、答えたのは「私」という主格ではなく、呼びかけられた対格としての「私」です。「私」という主格が最初からいて誰かの声を聞くのではなく。最初に神の呼びかけ、あるいは命令があって、それに答えることで初めて「私」が成立するのです。そしてそれはまた「覚醒」することでもあります。普通の主格としての「自己」が、神=他者に呼びかけられ、命令されて初めて本来の受動的な「自己」に覚醒する。

・・・・・・それは意識的に、というより、非常にオートマティカル(自動的)に覚醒する、ということに近いように思われます。

 そうですね。「自我」が行為しているのではない、という意味で、それは自動性に近い。とはいえやっぱりそこには「自己」もあって。レヴナスはそれを「対格の受動的自己」と呼んでいます。この「受動性」ということが問題で、フッサールの受動的志向性から、レヴィナスの言う、他者から呼びかけられたり命令されたりして覚醒する「自己」まで、さまざまな「受動性」があります。(・・・)
 しかし経験の質としては、本当に、今、新たに「覚醒」するというような経験です。もう否応なくそこに巻き込まれていくような・・・・・・。
 この経験がユダヤ教では先に言ったように聖典解釈学として行われますが、カバラーの解釈学はまさに自動性です。それを現象学のギリギリの言葉であえて表現するとしたら、「媒体になる」といえるかもしれません。神の内部で、神の媒体になって神を経験する。つまり神の痕跡のテクストを新たに解釈する。先ほどのコルバンの「創造的想像力」も、一般的な想像力とは違って、それは神の想像力であるわけです。神が私の想像力をとおして、それを媒体として自己自身を振り返って自らを像化、あるいはイメージする。それが創造的想像力であり、「実在そのもの」をその内部から見ることなんですね。」

「イスラーム神秘主義のスーフィズムではこの創造的想像力の働きを、「神のなかに入って、神の器官になる」と表現します。人間が主観性や自我で動くのではなく、神の想像力が人間を通して動く。それは、「魂」と訳される「ヒンマ」であり、それをとおして神と二元が神の内部において協働する、「共に動く」ということです。つまり、神のなかに入って私が想像することは、結局神が自分で自分を見ていることだ、と。コルバンの「ヒンマの現象学」は、ここまで「実在そのもの」に迫ることができる。私はそこに現象学の一つの可能性があるのだと考えています。」

*((永井晋『〈精神的〉東洋哲学/顕現しないものの現象学』より)

「「顕現しないものの現象学」としての「〈精神的東洋哲学〉」は、あくまでも、徹底して事象そのものに従うことによって現象学の範囲を拡大し、それ以前の現象学では目立たず、隠れたままに留まっていた諸々の経験を発見し、主題化する作業を意味する。そこでは、「東洋」とはそのような「顕現しない/目立たない」、あるいは「形なきもの」の現象次元を指すのであり、それに対して「西洋」は、地平に媒介されて表象され、顕わになった形の世界を指す。」

「井筒(俊彦)はその後期の代表作『意識と本質----精神的東洋を索めて』において、自らの「精神的東洋哲学」の目的を「その多様さゆえに統一性をもたない「東洋」の諸伝統にある統一を与えること」だとしている。それは一見単なる比較哲学のように見えながら、「顕現しないものの現象学」から見るなら、東洋の経験的多様性を一者の内なる元型に還元して「一の多様性」として捉え直す、形而上学的な構想なのである。」

「「顕現しないものの現象学」とは、いわゆる後期のハイデガーが「ツェーリンゲンのゼミナール」(一九七三年)で使用した用語である。それは、彼が「存在と時間」以来初めて、それまで封印していた「現象学」に、「転回」を経て根本的に変容した新たな意味を込めて言及したものとして極めて重要なものである。つまり、「顕現しないもの」とは、転回以前のハイデガーの現象概念につきまとっていた制限を脱して最も徹底した意味で現れる次元なのである。しかし、ハイデガーの試みが真にそのような究極の現象性にまで至っていたのかが問題となる。

 ハイデガーが主にパルメニデスを参照しつつ使用する意味での「顕現しない/目立たない」ものとは、「存在者の存在」における存在者(顕現する/目立つもの)へのあらゆる限定から解放されたギリシャ的な意味での「存在することそのこと」、端的な「存在そのもの(存在としての存在(Sein als solches)」の生起を指す。この定式は、存在そのものは、形而上学的な停止した実体でないのはもちろん、フッサール、さらには転回以前のハイデガーにおけるような、それと気づかれない仕方ではあれ地平的に現れ、それによって動きを止めるものでもなく、als(として)を通して垂直方向に自己差異化しかつ自己媒介することによって生起する徹底的に動的な「出来事」である、ということを示している。その自己媒介という特性が「同語反復(Tautologie)」によって評言されているが、そこでは、als で媒介されるのが同じ「存在」であるため、存在者として、つまり地平方向には何ら現れることはないが、垂直方向の自己差異化/自己媒介が生じており、それによって「存在する」という根本的な出来事が顕現しない、目立たない仕方で出来するのである。別の表現をすれば、この次元では、「存在することそのこと」とは(alsによる、ではなく)alsという、何ら「動くもの」なきラディカルな「動き」そのもの、あるいは「動きつつある」ことなのだと言ってもよい。さらにハイデガーは、alsを介入させることで失われかねないその出来事のラディカルな動性と顕現しない性格をより正確に示すために、alsを省いて(つまり現象学的還元をさらに吊り上げて)「現前しつつある:現前することそのこと(Anwesend:anwesen selblt)と表現する。

 この出来事は、それを経験する人間の側からするなら、『存在と時間』の時期の現存在が、己の「死への存在」から脱し、さらに深いところで存在そのものに巻き込まれて、言わばその現象化原理としてのalsに成り切る(「動くもの」なき「動くこと」そのこと)によって初めて「存在そのもの」がまさしく現象学的な意味で現前することである。あるいは、この純然たる「動きつつある」ことが「存在そのもの」なのである。

 フランスの「神学的」現象学における「顕現しないもの」の「存在」から「神/一者」への移行もしくは転換は、現象学的に見るなら----そして少なくとも彼らの理解に従うなら----還元のさらなる深化によって、この「として/:」がその身分と機能を変えることに他ならない。それによれば、「神としての神」もしくは「一者としての一者」は、単なる同語反復ではなく、コルバンにおけるその最終形態においては、無限が自ずから顕わになったもの(épiphanie,théophanie)として、「存在そのもの」とはまったく逆に、最も豊かな、潜在的現象性の出現である。そしてそれは、この新たな〈として〉が、神/一者をその内側からそのまま映す鏡であることによって可能になる。

 未だまったく現象していない一なる神が、人間を媒介として、すなわち人間の魂=創造的想像力という鏡に自らを映すことによって、実体なき映像(元型イマージュ)として、その無限の潜在性を解き放つ。ここでは、「顕現しないもの/目立たないもの」とはこのような映像(元型イマージュ)として現れた一者そのもののことである。その映像は即一者自身であり、それ以外の何ものでもないのだから。それを、その自己自身でないもの、すなわちその外部から現れさせる地平や存在に媒介されて現れることはない。その意味でそれは「顕現しない/目立たない」のである。しかしそれは全く現れないのではなく、むしろいかなる外的な制限にもその動きを妨げられることなく無礙に炸裂するという仕方で、そして地平的な隠れの一切ない微細な超現前として、徹底した意味で現れるのである。

 そしてそのような「顕現しない神/一者」の徹底して内在的な現象様態の典型が、ユダヤ神秘主義カバラーやイスラーム神秘主義における文学や神名、セフィロート、あるいは密教におけるマンダラなどに代表される「元型的象徴」である。それは「象徴という現れにおいて象徴されるものが隠れる」という、「現れ=隠れ」の論理の一形態によって構造化されるが、ここでも地平や存在を構造化する「隠れ」とは異なって、元型の次元で「現れ」と「隠れ」がラディカルに同じものであるために、本書でも多用した仏教用語を用いるなら「一即多」というべき事態である。ここでは“als”が徹底しら現象学的還元を経て「即」に変容している。“als”が、地平的に働く場合はもっぱら存在者の世界を現象させ、これに対して垂直方向では「同じもの」の反復として「存在そのもの」を顕現しない(何も現れない」仕方で顕わにするのに対し、「一即多」の「即」は一をそのまま無限の多様性へと自己展開させる。というよりもむしろ、より正確には、この無限の多様性以外にはラディカルに何もないという、否定が肯定に一挙に旋回する事態こそが即であり、空である。そしてその無限の現象は「存在者の世界」でも「存在そのもの」でもなく、この二元対立的思惟にとってはまさしく顕現せず、目立たないがゆえに見過ごされてしまうそれらの手前の、最も具体的な現前の世界なのである。それは密教においてはまさしく元型的象徴として、禅においてはあらゆる実体性から解放されて端的に、生き生きと現前している世界として経験される。

 この地点から再びハイデガーを振り返るなら、この「神/一者(もしくは空)」は、ハイデガーの「存在の現象学」が、それをラディカルな動性として思惟するにしても「存在者の存在」という或る区別(存在論的差異=無/否定)から出発するのに対し、「神/一者」として現れたるイマジナル界の「間」には初めからいかなる区別(無/否定)もないため、「神/一者」の全き肯定的内在の中で転回するものであり、その意味でハイデガーよりもむしろスピノザからベルクソンを経てドゥルーズに至る内在哲学の系譜に繋がるものである。
 このように、「顕現しないもの」の現れの論理としての「イマジナルの現象学」、あるいはその器官としての「魂(創造的想像力)の現象学」は、世界を知覚されたものや思惟されたもの、あるいは存在するものとしてではなく、魂(創造像的想像力)を通して、無限の潜在的深みを秘めた元型的象徴として見直してゆくものである。そしてその象徴の無限の深みとは、決して計り知れない深淵に隠れてゆくものではなく、むしろあらゆる桎梏を超えた全く新たなものの無礙な創造として経験される。そしてそれこそが、「〈精神的〉東洋」の哲学的内実なのである。」

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