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中島岳志『思いがけず利他』

☆mediopos-2535  2021.10.25

道徳とされるものは
あまり好きにはなれない

それは多くの場合
外からの「べき」で規定され
「評価」「承認」を満たすために存在する

それに対する「アンチ」もまた
その「べき」から自由にはなれない
それも「アンチ」としての「評価」「承認」だからだ

本書では「利他」がテーマとなっている

「「利他」と「利己」は対立しているように見え」て
「メビウスの輪のようにつながっている」という

利他をする!というのは
そのことによって
みずからをも利しているからでもある

与える人がいれば
それを受け取る人がいて
そこには「与える」ことで生まれる
「支配」や「統御」の関係が成立してしまう
たとえまったくそんな意識などないのだとしても

「与えきり」である場合
そういう関係性は生まれがたいが
そのときそこに「与える人」という
行為の主体が存在していないことが前提となる

「利他」が本来的に成立するためには
「利他の主体はどこまでも、受け手の側にあ」り
「私たち」が主体的に利他的なことを
行うことはできないからだ

そして発信者が「主体」となるとき
「利他は未来からやって来る」のに対し
受信者にとって「利他」は「過去からやって来る」

しかも「偶然」のような「必然」として

その意味において
利他と利己も
偶然と必然も
時空を超えて「思いがけず」
メビウスの輪のようにつながっているのだといえる

本書には書かれてはいないが
それらの捉え方をさらに展開させるとすれば
「与えるものが与えられる
偶然のような必然を生きる自由」
ということにもなるだろうか

そこに「べき」はなくあるのは「自由」だけ
「与える自由」と「与えられる自由」の相即
もちろんそこには「支配」「評価」「承認」へと
傾斜していく低次の自我による「道徳性」は存在しない

■中島岳志『思いがけず利他』
 (ミシマ社 2021/10)

「若者を中心に、利他的な行為への関心が高まっているというのは、世界的に確かな傾向のようです。医療従事者や様々なエッセンシャルワーカーへの感謝の伝達行為も広がりました。寄付やクラウドファンディングなどに参加した人も多いでしょう。これは大変重要な潮流だと思います。
 しかし、一方で、「利他」には独特の「うさん臭さ」がつきまとうことも事実です。利他的行為に積極的な人に対して、「意識高い系」という言葉が揶揄を込めて使われたり、「偽善者」というレッテルが貼られたりすることがあります。結局のところ、利他的な振る舞いをすることで「善い人」というセルフイメージを獲得しようとする利他的行為なのではないかという疑念が、そこには沸き起こってしまうのです。
 しかも利他行為の「押し付けがましさ」は、時に暴力的な側面を露わにします。誰かから贈与を受けたとき、私たちは「うれしい」という思いと共に、「お返しをしなければならない」という「負債感」を抱きます。うれしいんだけれども、プレッシャーがかかるというのが贈与の特徴です。もし、返礼をする余裕がない場合、二人の場合のは、次第に「あげる人」「もらう人」という上下関係が構築されていきます。「私はあの人を援助している」/「あの人からは一方的にもらってばかりだ」という双方の思いが蓄積していくと、ここに支配−被支配の関係が自ずとできあがっていきます。これが、利他的な贈与の怖いところです。」

「「利他」の反対語は「利己」とされています。「あの人は利己的だ」というと、自分のことばかり考えて、他者のことは顧みない人を批判する言葉ですよね。これに対して、「あの人は利他的だ」というと、自分の利益を放棄して、他者のために尽くす人を称賛する言葉になります。なので「利他」の反対語は「利己」。そう認識されています。
 確かに、表面的には「利他」と「利己」は対立しているように見えます。両者は真逆の観念で、一方は称賛され、一方は非難されます。
 しかし、どうでしょうか。
 例えば、ある人が「評価を得たい」「名誉を得たい」と考えて、利他的なことを行っていたとすると、その行為は純粋に「利他的」と言えるでしょうか? 行為自体は「利他的」だけれども、動機づけが「利他的」な場合、私たちはどのような思いを抱くでしょうか?
 おそらく、そのような行為は、利己的だと見なされるでしょう。」
「−−−−「利他」と「利己」。
 この両者は、反対語というよりも、どうもメビウスの輪のようにつながっているもののようです。
 利他的なことを行っていても、動機が利己的であれば、「利己的」と見なされますし、逆に自分のために行っていたことが、自然と相手をケアすることにつながっていれば、それは「利他的」とみなされます。
 「利他」と「利己」の複雑な関係を認識すると、途端に「利他」とは何かが、わからなくなってきます。」

「いくら他者のことを思って行ったことでも、その受け手にとって「ありがたくないこと」だったり、「迷惑なこと」だったりすることは、十分ありえます。」
「まず考えなければならないのは、「支配」という問題です。「利他」行為の中には、多くの場合、相手をコントロールしたいという欲望が含まれています。(・・・)相手に共感を求める行為は、思ったような反応が得られない場合、自分の思いに服従させたいという欲望へと容易に転化することがあります。これが「利他」の中に含まれる「コントロール」や「支配」の欲望です。」
「このような「支配」や「統御」の問題は、利他と深くかかわるケアの場面で先鋭化するように思います。」
「認知症と診断されると、周りの人や介護従事者は、認知症の人たちに「何もしないこと」を強要してしまいがちです。仕事をすることから遠ざけ、掃除や洗濯、食事など日常生活にかかわることも、何でもやってあげる。それが「ケア」だと思われてきた側面があります。これに対して「ちはる食堂」では。間違いに寛容な社会を形成することで、認知症の人たちを尊厳をもって働くことができる環境を整えようとしています。そのことで、当事者が持っているポテンシャル(潜在能力)を引き出す。その人の特質やあり方に「沿う」ことで、「介護しない介護」が成立する場所を作ろうとしています。」
「利他は時に目立たないものです。しかし、誰かが活躍し、個性が輝いているときには、必ずその輝きを引き出した人がいます。利他において重要なのは、「支配」や「統御」から距離を取りつつ、相手の個性に「沿う」ことで、主体性や潜在能力を引き出すあり方なのではないかと思います。
 これは自然との付き合い方も、同様なのではないかと思います。」

「私たちは、与えることによって利他を生み出すのではなく、受け取ることで利他を生み出します。そして、利他となる種は、すでに過去に発信されています。私たちは、そのことに気づいていません。しかし、何かをきっかけに「あのときの一言」「あのときの行為」の利他性に気づくことがあります。私たちは、ここで発信されていたものを受信します。そのときこそ、利他が起動する瞬間です。発信と受信の間には、時間的な隔たりが存在します。」
「利他の構造においては、「発すること」よりも「受け取ること」のほうが、積極的な意味を持つのです。
 −−−−自己が受け手になること。そのことによって、利他を生み出すこと。
 これが(・・・)「与格」の構造と通じています。受け手にとって大切なのは、「気づく」ことです。私たちには、過去から多くの言葉や行為がやって来ます。しかし、残念ながら、そのほとんどを見逃し、つかみ損ねています。しかし、何かがきっかけで、ふと「あのときの一言」に気づかされたとき、言葉や行為が受信され、利他が起動します。」

「自分の行為は利他的であるかどうかは、不確かな未来によって規定されています。自分の行為の結果を所有することはできず。利他は事後的なものとして起動します。
 つまり、発信者にとって、利他は未来からやって来るものです。行為をなした時点では、それが利他なのか否かは、まだわかりません。大切なことは、その行為がポジティブに受け取られることであり、発信者を主体にするのは、どこまでも、受け手の側であるということです。この意味において、私たちは利他的なことを行うことができません。
 一方受け手にとっては、時制は反転します。「あのときの一言」のように、利他は過去からやって来ます。当然ですよね。現代は。過去の未来だからです。
 発信者にとって、利他は未来からやって来るものであり、受信者にとっては、過去からやって来るもの。これが利他の時制です。」
「私たちは縁起的な偶然を、のちに因果的な必然へと読みかえ、経験し直します。偶然とは、過去と現在が物語化されていない状態であり、「この現在」が未来から物語化されるとき、偶然が必然へと変化します。
 この時間のあり方は、ここまで述べてきた「利他の時間」と深くかかわっています。利他とは、「とっさに」「ふいに」「つい」「思いがけず」行ったことが他者に受け取られ、利他と認識されるときに起動するものです。その行為が利他的であるか否かは、行為者本人の決めるところではありません。利他はあくまでも受け取られたときに発生するものであり、事後的なものです。「利他」という現象は、「この現在」の行為が受け手によって「利他」として意味づけられた未来において、起動するのです。これは、偶然・必然と々構造です。」
「私は「今」の意味を、未来から贈られるのです。そのためには、「今」を精一杯、生きなければなりません。偶然の邂逅の驚き、その偶然を受け止め、未来に投企していく。その無限の連続性が、私たちが生きていることそのものであり、世界の有機的な連関を生み出す起点なのです。」
「私たちは、未来によって今という瞬間を生きています。」

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