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鹿島 茂ほか『多様性の時代を生きるための哲学』

☆mediopos2850  2022.9.6

鹿島茂が千葉雅也との対話でも
ドミニク・チェンとの対話でも
中学一年生で初めて英語を習ったとき
英語のbrotherが兄でも弟でもないということに
大ショックを受けたという同じ話をしている
よほど印象に残っているのだろう

ドミニク・チェンの娘が
公立保育園に通っていたので先に日本語を覚え
フランス語を喋るとき
主語が抜けるという興味深い話もあるが

現代はグーグルの自動翻訳などもあり
「どんな言語でも情報はすべて
等価に変換可能だという思想が増えている」とのこと

言うまでもなく
他言語を学ぶ際に重要なのは
言語と言語のあいだには
翻訳できないところがあること
言語にはそれが使用される背景に
異なった文化や慣習や思考方法などの違いがあること
そうした問題意識をもつことだろう

他言語というほどではなくても
同じ日本語でも方言の違いから
なまじ日本語であるために
それが小さな違いであるにもかかわらず
ずいぶんとカルチャーショックを受けたりもする
たんに言語の意味というだけではなく
表現の仕方の違いにもずいぶんと驚かされる

個人的な経験でいえば
比較的穏やかな言葉の使われる環境に育ったのが
小学校のとき転校していったさきで
伝わらない言葉があるのはもちろんのこと
話されている言葉が
いつも喧嘩をしているように恐ろしく聞こえ
うなされるほどだったことをいまでもよく覚えている

言葉そのものの違い
言葉の意味の違い
言葉の表現のされ方の違い
そうしたさまざまな違いを意識することで
「言語と言語のあいだの空間で思考するような感覚」を
もつということは非常に重要である

そうすることで
言語そのものの深層にあるだろう言語への感覚と同時に
現実に使われている言語への
感受性を深めることができるからだ

■鹿島 茂ほか
 『多様性の時代を生きるための哲学 』
 (祥伝社 2022/9)

(第3章 千葉雅也×鹿島 茂「私はプロセスの途中にいる時間的存在/ドゥルーズ「切断の哲学」より)

「千葉/いまは外国語学習のモチベーションがすごく下がっていると思うんです。他言語体系の中にいかにイディオマティックな特有の思考があるかということも、なかなか理解されません。日本語にもフランス語にも特有の思考や文脈があり、そこには翻訳不可能なものもあることまで考えて、どうやって外国思想とつき合っていくか。これは本当に難しいことで、概念は一対一対応にできるわけではないので、そこをどう考えるかという問題意識が少なくとも僕の世代まではありました。とくにデリダはそういうことをよく言いましたし、現代思想の文脈でも翻訳は大きなテーマでした。だから複数の外国語をやって、言語と言語のあいだの空間で思考するような感覚が大事だとは思うんですが、やはり英語帝国主義というか、英語化が大きく進んでいるという面もありますし。
 あと、人間の言語的思考が全面的に情報化しているという気がします。言語というのは物質的存在を持っていて、その言語の物質性と思考がくっついているわけですが、そこから切り離されて、どんな言語でも情報はすべて等価に変換可能だという思想が増えていると思うんですよね。グーグルの自動翻訳などが精度を高めていることも、そういう幻想を肥大させているのでしょうけど。しかし本来、言語はたんに情報なのではない。それはいま改めて言う必要があるし、そういう意味での語学の修練を伴う研究の必要性は言いつづけなきゃいけないと思っていますね。

鹿島/僕は中学一年生で初めて英語を習ったときに、大ショックを受けたんです。“I have a brother. ”という文について、「先生、このブラザーじゃお兄さんですか、弟ですか」と質問したら、「どっちでもいいんです」と言うので「え? え? 何それ?」と動揺したんです。兄と弟を区別しない言語が存在することに衝撃を受けた。日本人は「兄、弟」という日本語の概念がすでに頭に刷り込まれているので、その「兄、弟」という言葉そのものによって支配されてしまう・実はウラル・アルタイ語でも、兄、妹を区別するのは中国周辺の一定の文化圏だけらしいんだけど。」

(第6章 ドミニク・チェン×鹿島 茂「わかりあえなさをつなぐということ/ベイトソンと接続、情報、コモンズについて」より)

「鹿島/人間の考え方などは言語によって違ってくるという「サピア=ウォーフ仮説というものがありますが、コンピュータは、すべての言語が普遍言語に還元できるという態度で臨まないかぎり作れないですね。つまり、前提として普遍言語は存在する。でもサピア=ウォーフ仮説では、物の見方はそれぞれの言語で違ってしまう。
 
チェン/そうですね。世界を認識する仕方は言語の数だけであるというのが、サピア=ウォーフ仮説ですす。

鹿島/そういうことですね。僕には原則的な体験があって、英語を中学校で習い始めたとき、“I have a brother. ”の訳がすごく引っかかったんです。兄と弟を区別しない言語が存在することを知ってビックリしたんですよ。これひとつ取っても、言語によって世界の認識が違うことは十分にあり得ますよね。

チェン/うちの娘は、最初は日本の公立保育園に通っていたので先に日本語を覚えたんですが、あるときから僕と同じフランス語を喋るときに、主語が抜けるんです。たとえば「パンを食べたい」なら、本来は“je veax manger de pain”ですが、主語を含む“je veax”を抜いて“manger du pain”と言う。日本語だと主語を抜かしても大丈夫だから、フランス語でも同じ構造でいけるとこの子は踏んだんだと思うと、面白くて、自分自身も、日本語とフランスを切り替えるときに主語を入れるか入れないかという違いをすごく感じますね、
 たとえば仕事や研究の会議では、英語やフランス語を使うと「私はこう思う」「あなたはこういった」という感じで、役割や責任が明確になるので気持ちがいいんです。日本語の会議では誰が何をいったかがどんどん曖昧になって、なんとなく「じゃあ、この案でみんないいですか」みたいに物事が決まる。これはいまだにどうしても慣れなくて、モヤモヤするんですよ。
 他方、主語がはっきりしたフランス語や英語では。衝突も増えます。いきなり喧嘩が始まったりもするんですが、日本語の会議は紛争が起こりづらい。そういう副作用もあるような気がして、面白いですね。」

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