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佐藤弘夫『日本人と神』

☆mediopos-2344  2021.4.17

神について考えるということは
人間ついて考えるということだ

人間が神をつくりだしたのだ
というような単純な発想というよりは
現代の神ともなっている科学もふくめて
人間と神との関係をどのようにとらえるかが
私たち人間の未来を
つくりだしていくことにつながるからだ

生と死がこれほどまでに
切り離されてしまったことは
近代以降のかなり特殊な現象だが
そのことによって
私たち人間の魂は
意識的であるか無意識であるかを超えて
そのなかでの救済を求めているのだろう

本書の趣旨とは少し外れてしまうが
人間は霊的世界から次第に
地上の物質的世界へといわば下降しながら
その魂を発達させてきた

初めは私たち人間のまわりには
霊的に高次の存在である神々がいて
それらの存在とともに私たちは生きていた
まだ人間の魂があまり個別化していなかった時代だ

人間が自我を発達させるようになり
個別化していくにともなって
霊的世界の存在が存在していることを
直接見ることができなくなってくるとともに
それらの存在とのつながりを確かめ
いわば信仰するために宗教は生まれた

さらにその頃私たちに
いってみれば私たちの魂の一部として
外から働きかけていた神々は
次第に内なる魂として働きはじめ
私たちは個別化し自我を育てていくようになった

そうしたプロセスのなかで
ある種の民族魂的な傾向性をもった
神々そして唯一神というものが
さまざまなかたちをとって現れ
それらを信仰する宗教が次々と生まれた

そしてやがて近代になると
人間の生は「この世だけで完結するもの」へと向かい
神は科学へと姿を変え
それへの信仰が生まれ
死はその居場所を失っていき
「現世と切り離された孤独と暗黒の世界」となったのだ

そうしたことへの反動として
霊的世界へと目を向ける動きも
近年生まれてきてはいるが
多くは前近代的な信仰の延長または逆行か
霊学的な意味を深化させることのない
自我の成長を錯誤したニューエイジ的な在り方だ

少なくとも魂にとっての喫緊の重要課題は
過去の信仰的な形態に戻ることなく
生と死を切り離さないですむ
霊的世界観をつくることだろう

その意味でも過去から現代まで
私たち日本人が「神」をどうとらえてきたか
それを辿ってみることは
これまでに培われてきた生のありようを深めながら
あらたな霊的世界観への認識へと向かう
重要なプロセスともなってくるのではないだろうか

■佐藤弘夫『日本人と神』(講談社現代新書 2021.4)

「人文科学の究極の目的は、「人間」というこの不可解な生物の本質を解き明かそうとするところにある。そのため、遠い過去から一貫して人間に寄り添い続けてきたカミは、この問題を考えるための格好の切り口と考えられた。中世の神学では、カミの存在証明が最重要の課題だった。近代のアカデミズムの世界でも、哲学・宗教学・歴史学など多くの分野において、カミに関する膨大な研究が蓄積されてきた。
 それは日本列島についても同様だった。日本におけるカミの研究はその多くが、高度な文明化を達成した今日もなお、この列島上に無数の足跡を残す「神」の解明に向けられてきた。」
「研究方法の多様性にもかかわらず、そこには一つの前提が共有されていた。それは神に「土着の」、あるいは「固有の」という形容詞を冠して捉える見方である。そては必然的に、神を解明することは「日本人の心性」を明らかにすることであり、時代が推移しても変化することのない「日本文化の本質を探り出すことであるという認識を生み出すことになった。
 それは日本の神をめぐる豊かな成果につながる一方、研究の著しい偏りを生じさせる原因となった。」

「人類が日本列島に住み始めてからの数万年の歴史のなかで、人々がイメージしてきた「聖なるもの」の内実が一貫して同じであったとは考えがたい、この列島に住み着いた人々は、なにをきっかけにして人間を超える聖なるもの=カミを発見したのであろうか。その聖なる存在の内実は、時代によってどのように変化していったのであろうか。
 そこから、どのようなプロセスを経て「神社」と「神道」が誕生したのだろうか。列島のカミの世界に仏教やキリスト教などの外来宗教が入り込んできたときに、両者の間でどのような化学反応が生じたのであろうか。原初の聖なるものが、いかなる変貌の果てに、いまわたしたちが目にする川倉地蔵尊や羽黒岩の信仰世界へと至りついたのであろうか。
 日本の思想や宗教についていえば、いまだに縄文文化の絶えることのない継承を論じるような基層文化論が盛んである。日本人の精神性の根底に、時代を経ても変わることのない「アニミズム」や「祖霊信仰」を見出そうとする立場もあいかわらず大きな影響力をもっている。
 本書が採用する聖なるものの発見と変貌という問題意識からの考察は、「神仏習合」だけに留まらず、日本列島の宗教現象を説明する際にしばしば用いられてきたこれらの視座や概念の有効性を、改めて問い直すものとなるはずである。それは同時に、「土着の」「固有の」という形容で語られてきた日本の神についても、その常識を根底から揺さぶるものとなるにちがいない。」
「「神」「仏」「神仏習合」などの既存のキーワードを必須のアイテムとして用いることあく、各時代の聖なるものに直接アプローチすることを試みる本書は、神道、仏教、キリスト教といった個々の信仰世界の存在を前提として、その集合体とした記述される既存の宗教史の序重油方法を革新しようとする、新たな精神史の試みでもある。
 日本列島における聖なるものの発見というテーマを追求しようとするとき、避けて通れないものが日本の神をどう位置づけるかという問題である。神道こそは、外来の宗教の影響を受ける前から存在した日本固有の信仰の形であるという言説に疑問を抱く人は、ほとんどいないに違いない。神信仰が有史以前の古態を留めているとすれば、それは日本列島における聖性の覚醒という問題とどのように関わってくるのであろうか。」

「人類が初めて人間を超える存在(カミ)を感知したのは、人知の及ばない自然現象に対してだったと推察される、それは、やがて土偶などの像として具体的な形を与えられて、人々に共有されるに至る。しかし、超越者観念の抽象化の進展と冥界の拡大に伴ってカミはいったん姿を消し、祭りのたびに祭場に迎えられる不可視なるものへと変化を遂げた。」
「都城を抱えもつ古代国家が形を整えると、天皇と国家の守護を委任された神は、寺院にいる仏と同様に、特定の地に留まって常時監視の目を光らせることを求められた。古代において神・仏といったジャンルを超えて超越者に求められたものは強力な霊験であり、山中修行者が目指した到達点も神の清浄性に接近することでえられる験力の獲得だった。」
「平安時代の後期から、この世とは次元を異にする不可視の他界のイメージが拡大する。そこに棲むカミが救済者とされるとともに、その聖性が被救済者にも内在することが強調される、カミは、人間の外部にあって霊異を引き起こすものから、人々を生死を越えた彼岸に送り出すものへと、大きく変貌を遂げた。」
「近世社会では、中世人が共有していた遠い他界のリアリティが失われ、この世とあの世に振り分けられていた人・カミ・死者が、再び一つの世界で共生する事態が生じた。死者のケアはもっぱら遺族の役割となり、神仏は生死を超えた救済に代わって、こまごまとした現世利益の要望に応えることを主要な任務とするようになった。」
「だれもがカミになれるという理念は幕末には社会に定着し、列島には無数の小さき神々が満ち溢れた。霊場に祀られた人々は幸せな死後を保証され、カミとなることを約束された。カミの叢生は、身分制度を窮屈に感じた江戸時代の庶民が抱く秩序からの逸脱傾向の反映であり、同時に彼らがヤスクニの思想に取り込まれていく原因ともなった。」

「人間を包み込むカミの実在を前提とする前近代の世界観は、そこに生きる人々の死生観をも基底していた。
 わたしたち現代人は、生と死のあいだに明確な一線を引くことができると考えている。ある一瞬を境にして、生者が死者の世界に移行するというイメージをもっている。だがわたしたちにとって常識となっているこうした死生観は、人類の長い歴史のなかでみれば。近現代にだけみられる特殊な感覚だった。」
「前近代の社会では、生と死が交わる領域は呼吸が停止してからの限られた期間だけではなかった。生前から、死後の世界へ向かう助走ともいうべきさまざまな儀礼が営まれた。死が確定して以降も、長期にわたって追善供養が続けられた。生と死のあいだに一定の幅があるだけではない。その前後に生者の世界と死者の世界が重なり合う長い期間があるという認識が、前近代の人々の一般的な感覚だった。
 生者と死者は、交流を続けながら同じ空間を共有していた。生と死そのものが、決して本質的に異なる状態とは考えられていなかったのである。
 こうした前近代の死生観と対比したとき、近代が生と死のあいだに往還不可能な一線を引くことによって、生者の世界から死を完全に排除しようとした時代であることが理解できるであろう。」
「死者との日常的な交流を失った現代社会では、人間の生はこの世だけで完結するものとなった。死後世界はだれも足を踏み入れたことのない闇の風景と化した。ひとたび死の世界に踏み込んでしまえば、二度とわが家に帰ることはできない。親しい人、愛する人にも、もはや会うことは叶わないのである。」
「近代人にとって、死は現世と切り離された孤独と暗黒の世界だった。死がまったく道標のない道の道行であるゆえに。人は生死の一線を越えることを極度に恐れるようになった。どのような状態であっても、患者を一分一秒でも長くこちら側の世界に留めることが近代医学の使命となった。いま多くの日本人が生の質を問うことなく、延命を至上視する背景には、生と死を峻別する現代固有の死生観があるのである。」

「息の詰まるような人間関係の緩衝剤として、新たに小さなカミを生み出そうとする動きも盛んである。一九九〇年代から始まるスピリチュアリズムや精神世界の探求のブームは、そうした指向性の先に生まれたものだった。ペットブームもまた人間関係の緩衝剤を求める人々の無意識の反映と考えられる。
 もう一つ、わたしがいまの日本社会で注目したい現象は、列島のあらゆる場所で増殖を続けるゆるキャラである。(・・・)その数と活動量において、日本のキャラクターは群を抜いている。これほど密度の濃いキャラクター、ゆるキャラの群生地は地球上の他の地域には存在しない。
 大量のゆるキャラが誕生しているということは、それを求める社会的需要があるからにほかならない。それはなにか。わたしは現代社会の息の詰まるような人間関係のクッションであり、ストレスの重圧に折れそうになる心の癒やしだと考えている。」
「現代社会におけるゆるキャラは、小さなカミを創生しようとする試みであるとわたしは考えている。この社会からカミを締め出した現代人は、みずからを取り巻く無機質な光景におののいて、その隙間を埋める新たなカミを求めた。その先に生まれてきたものが、無数のキャラクターたちだった。」

「人類が直面している危機を直視しながら、人類は千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化によって失われたものも含めて発掘していくこと。それこそがいまわたしたちに与えられている大切な課題なのではないだろうか。」

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