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鴻巣友季子・横尾忠則「BLOWIN' IN THE WIND」答えなんかほっておけ/風に吹かれて(鴻巣友季子『翻訳、一期一会』 翻訳問答シリーズ)

☆mediopos3488  2024.6.5

翻訳家の鴻巣友季子に
「翻訳問答シリーズ」がある

そのシリーズの「3」に横尾忠則が登場し
ボブ・ディランの『風に吹かれて(Blowin' In The Wind)』を
訳しあっている

鴻巣友季子の訳詞は比較的常識的な訳で
政治的社会的なものをその背景に感じさせるものだが
横尾忠則の訳詞は「横尾忠則芸術論」ともなっていて

これまでイメージされていた『風に吹かれて』の世界が
宇宙的芸術的宗教的な意味合いを帯び
実際の歌詞を読みとるなかで説得力をもって伝わってくる

じっさいにボブディランがそうした意図を
もっていたかどうかはわからないが
歌詞そのものに
横尾忠則のような解釈をも可能にする
多義的な意味が豊かに含まれている

たとえば歌詞の最初
How many roads must a man walk down
Before you call him a man?

一行目のmanと二行目のmanについてだが
鴻巣は最初のmanを「人」
後のmanを「一人前の男」」と訳しているが
横尾は最初のmanを「個人」
後のmanを「個」と訳している

「個人」と「個」はどう異なっているのだろうか

「個人」とは「われわれ」で
「エゴも欲望も執着も、
いろんな社会的な煩悩を抱きかかえた人々のこと」だが
「個」は「世俗的なものから離脱」した
「普遍的な個の存在」の存在

だから鴻巣は上記の二行を

いくつ道を歩けば
人は一人前になれるだろう?

と訳し

横尾は

われわれ人間はどれだけ歩けば
個人を超えて個になれるのか?

と訳し

「個人を突き抜けて個そのものになること」で
「be free(自由になる)」ことへと
向かうことが意味されているとする

歌詞の三番目にある「sky」に関しても
横尾はそこに「空」というよりも
「天」や「神」という意味を読む

そして“he can hear people cry?”にしても

その「he」を「天使みたいな存在」や
「死者の魂」かもしれないととらえている
そしてcryしているのも「天使」なのだ

なによりも独特なのがタイトルの訳である
横尾は「風に吹かれて」を
「答えなんかほっておけ」としている

「答えなんか存在しない。
その答えを手掴みするのは難しいし、
風に吹かれているのだから捉えようがない。
風に吹かれて答えがどこかに消えようが、
そんなことは放っておきなさい、という感じ。
ここにも個人を超えた大きな何かと
一体化したものを感じ」るという

「横尾忠則芸術論」の是非はともかくとして
「Blowin' In The Wind」を
「答えなんかほっておけ」とするのは
深く肯けるところである

■鴻巣友季子・横尾忠則「BLOWIN' IN THE WIND」
 答えなんかほっておけ/風に吹かれて
 (鴻巣友季子『翻訳、一期一会』 翻訳問答シリーズ 左右社 2022/9)

**(鴻巣友季子・横尾忠則「BLOWIN' IN THE WIND」〜「音として一人称を超えています」より)

*「鴨巣/今日はボブ・ディランの『Blowin' In The Wind』の歌詞を新しく訳詞ながら見ていきたいと思います。

 横尾/ニューヨークにいたときもディランはなんの歌をうたっているのか、言葉がわからないので当時全然わからなかったね。反戦っぽいことを言っている気はしていたけれど。なんだかしゃくり上げるようなダミ声で、犬の遠吠えみたいな感じで(笑)。これって音楽?って感じだった。ビートルズなんかは、言葉の量が多くてスピーディに音が踊っていましたので、体がついていくんですよね。

 鴨巣/ディランは歌詞が聴き取れてもどういう意味なのかわからないという人が多いですね。“How many roads must a man walk down”もわりと間延びしているというか、ゆったりしています。ロックだとたいていもっと言葉を詰め込みますよね。」

「横尾/さて、『Blowin' In The Wind』を鴨巣さんはどう訳されたのですか。

 鴨巣/一文目から難渋しました。“How many roads must a man walk down/Before you call him a man?”のcall him a manのmanが何を指しているのかがよくわからないのです。「いくつ道を歩けばmanはmanになれるだろう?」という意味ですが、最初のmanと後のmanがそれぞれどういう意味なのか・・・・・・。はじめから「manが歩いている」と言っているのに、「どれだけ歩いたらmanと呼んでもらえるようになるんだろう?」なんて謎かけのようです。

 横尾/揚げ足をとらないほうがいいんでしょうね(笑)。でも、とりたくなりますね。

 鴨巣/仕方なく最初のmanは「人」。後のmanは「一人前の男」と訳してみました。「いくつ道を歩けば/人は一人前になれるだろう?」です。

 横尾/これ、him a manを耳で聴いた瞬間、僕はなんだかhumanと聞こえましたね。

 鴨巣/あ!

 横尾/とすると人類というか、本質的な人間のことを言っているのではないでしょうか。

 鴨巣/なんと、him a manが「ヒューマン」に聞こえると。耳からの翻訳というのは、「翻訳問答」史上初めてです(笑)。

(・・・)

 横尾/僕は『不思議の国のアリス』はマルセル・デュシャンの言葉遊びが好きで、絵も絵遊び的です。ところでヒューマノイドhumanoidという言葉がありますね。「人間ふう」といったらいいのかな。

 鴨巣/アンドロイドの-oidと同じですね。ギリシア語のandroが人とか男性の意味で、そこに-oid(のようなもの)という接尾語が付いています。

 横尾/人類「のようなもの」というニュアンス。とすると、ここでは文字としては一人称的な個人のmanかもしれないけれど、音としてはそれを超えています。もっと大きい存在なのです。ただしhumanとはっきり言ってしまうと面白みがないから、それをあえて誤解させるというのか、暗示させている気がします。謎めかしています。

 鴨巣/個人や一人称を超えて人類を指すという横尾さんの見方は、いきなり大きな宇宙的視点になっていてびっくりしました。ディランは公民権運動をしていたので、どういう社会派寄りの人たちは「どれだけ道をけば、まともな人間として扱われるのか」という意味のmanと捉えていた人が多いと思います。

 横尾/いや、ここはやはりもう少し普遍的な意味合いだと思うなあ。何かもっと大きい、宇宙とつながっている感覚ですよ。最初のmanは個人を感じるんだけど、二つ目は個になっている。

 鴨巣/個というのは個人の個ですね、「個人」と「個」というのは、どのように違うのでしょうか?

 横尾/ええ。個人とはわれわれです。つまり、エゴも欲望も執着も、いろんな社会的な煩悩を抱きかかえた人々のことです。それが個になってしまえば、そういう世俗的なものから離脱している世界にいるのだと思うのです。

 鴨巣/いま、横尾さんの解釈で詩がものすごい広がりをもったので、鳥肌が立っています。

 横尾/アートもまず最初は個人から入ります。個人から入り、やがて個人を突き抜けて普遍的な個の存在になっていく、というのがいちばん理想的な芸術行為だと思うのです。レンブラントの自画像が次第に自我を超越していくように。」

**(鴻巣友季子・横尾忠則「BLOWIN' IN THE WIND」〜「音として一人称を超えています」より)

*「鴻巣/「個人から個になる」ということを、もう少しくわしく教えてもらえますか・

 横尾/個人とは物質的な環境の中にある人間です。人間というのは欲望もあれば煩悩もある、そういう一般的なわれわれです。でも「個人」から「人」を取るだけで、もっと宇宙的広がりをもつというか、物質的、現象的な世界の足かせが取れてしまった非存在の人間を感じます。うまく言えないのですが。

 鴨巣/私の無難な解釈では、一回目のmanは「人:で、二回目のmanが「一人前の男」ですが、横尾さんはそれをはるかに超える、宇宙的読み解きを提示されています。

 横尾/レンブラントが僕にはヒントになります。

 鴨巣/なるほど、レンブラントの自画像の手法は「トローニー」と言われていて、個が抜け落ちたような、だけどアイデンティティが抽出されていてどんな人だかわかる、みたいな十七世紀に流行った手法ですね。もともと宗教的、神話的、寓話的な情景を描くもので、歴史画と肖像画のミックスというか、特定のモデルがいるわけではないけれど、衣装とか装身具とか佇まいから、どんな説話のだれなのか、なんとなくわかるという。個人を特定せずにプロトタイプとして描く画法ですね。この手法で自画像を描く、フェルメールの『真珠の耳飾りの少女』なども有名ですが。

 横尾/はい。最初はレンブラント自身なのですが、そのうちに自分を通して他者としての乞食になったり、王様になったり、死刑執行人になたtりしているうちに、レンブラントではなくなっていく。これは、個人から入り、モチーフとしての個人は手放さないでそれを突き詰めたところで、個的な世界に行っている気がします。

 鴨巣/宦官になったり、聖人になったり、いろいろありますね、レンブラントの自画像って。Self-portrait as a Young Man of 何々みたいなタイトルがついています。

 横尾/芸術では、個人というわたくし意識を持ち続けているものは「程度が低い」と僕は見るんですね。そういうものから離脱した境地に行かないと芸術として成立しない。でもそれでもダメで、そのげいじゅつさえ手放さなきゃなかなか悟性を得られないと思うんですよね。禅の境地に近いかもしれません。でも悟った、悟れないといっている間はダメでしょう。そんなものを超えた排中律の境地、例えば寒山拾得のあのヘラヘラした世界に入らなきゃ個人が個にならないと思いますね。

 鴨巣/レンブラントの例でだいぶ理解できたような気がします。ジェイムズ・ジョイスという二十世紀を代表する作家が書いた『若い芸術家の肖像』という小説が、このレンブラントの自画像と同じトローニーの手法で書かれています。若者というものの像を抽出しているんです。そこにジョイス自身を重ねて、一種の自画像のようにしている。これを看破したのは私ではなく、翻訳を手がけられた丸谷才一さんです。レンブラントでなくなったレンブラントは、個人ではなく個なんですね。

 横尾.そうですね。レンブラントでありながらレンブラントではない————そこまで行かずに芸術、芸術というのは野暮ですね。新聞や本を読んでいると、個人と言わなきゃおかしいのにわざわざ個という言い方をしているのをよく見掛けるけれど、僕はちょっとちがうなといつも思っているんです。(・・・)

 鴨巣/ボブ・ディランの歌詞もそういうことなのでしょうか。だから、みんな、歌詞を理解しがたいことがあるのかもしれません。個人のことを歌った恋愛や失恋の歌は共感を持てるけれど、個人を突き抜けるところまではいけない。」

「横尾/僕は以前、禅を習ったことがあるのですが、座禅の最中に次から次へと雑念が去来するのです。すると、お坊さんが「雑念にこだわっていたらいつまでたっても自己への執着から離れられません。雑念が浮かんでもけっして追いかけずにやり過ごしなさい。そのうちに私や個人といった、日常生活の中での煩悩が消えていく」と諭すのです。私が消え、自分の名前も消えていったときに個のような普遍的な存在になる。僕は座禅をしてそういう感覚を覚えました。

 鴨巣/それがこの二回目のmanなんですね。この解釈は、たぶん史上初だと思います。」

**(鴻巣友季子・横尾忠則「BLOWIN' IN THE WIND」〜「自由な人はmustを使わない」より)

*「鴨巣/いまのお話を伺ったあとにディランの歌詞を読むと、まったく新たな解釈が生まれてきます。二番の三文目と四文目、“how many years can some people exist/Before they're allowed to be free?”機械的に訳すと、「ある種の人たちはいつまで存在できるだろう?/自由になることを許されるまでに」です。もうちょっとわかりやすく後ろから訳せば、「自由を許されないまま、いつまで人間らしく生きていられるだろう」という問いかけかな、と。わたしはそのように解釈しました。

 横尾/ああ、僕が言わんとしているのはまさにこのことだ。そう、結局「自由」なのです。自由というのは物質世界で欲しいものは手に入るといった、単に肉体的欲望ではない。人間の五欲を超越してレベルでの欲望でし。現世では得られない欲望です。

 鴨巣/個人を突き抜けて個そのものになることが、be free(自由になる)ということなんですね。」

*「鴨巣/歌詞の一番の一文目に戻って、“How many roads must a man walk down”はmustなのに、二番の三文目では“Yes,‘n’how many years can some people existとcanになっています。初めここはどうしてmustではなくcanなのかなと考えました。最初は文脈からすると、一番と同じでmustのほうが意味が通るような気がしたんです。でも、(how many years)must people waitとかmust peopel endureとかではなく、existなんですね。だから、canなのだなと。いつまでやっていけるだろう、いつまで生き続けられるだろう、自由を得ないままに、という。いまの横尾さんの話を聞くと、よけいにここはcanになるはずと思いました。

 横尾/mustというのは「ねばならない」という意味ですね。

 鴨巣/はい、外部状況からして「せざるを得ない」と判断するhave toと違って、自ら律する、言い換えれば、自らを縛る意味合いがあると思います。

 横尾/「ねばならない」という、目的のための大義名分ではだめなのです。完全に自由な人間はmustなんて言葉は使いません。ねばならない、なんとかしなければならない、ではなく「なるようになる世界」です。「なるようになる」というのは、宇宙的な法則に乗っかり、自分が舵を取らなくても他力が舵を取るのに身を任せようというおおらかな境地です。逆にmustはすごく狭い世界に感じるなあ。目的が持てない世界があることを知らなければならないと思います。

 鴨巣/“some people exist”「ある種の人々はいつまで存在していられるのだろう」。横尾さんのお考えだと、本当の意味でbe freeになれば、そこから先はようするにpeopleではなくなるわけですよね。

 横尾/そのとおりです。こうしてみると、翻訳っておもしろいね。mustとcanの対比で作者の意図まで見えちゃう。このbe freeの「自由」というのは、政治的な、経済的な自由とは全然違うことを言っていますね。

 鴨巣/なるほど。政治的・社会的な自由や解放だったらリベレーションliberationとかリバティlibertyとかになりそうですね。libertyはなんらかの不自由や制限を解かれる、なにかから解放されることで、「もたらされた自由」と言えるかもしれません。フリーダムfreedomは政治的な意味合いを超えた、人間本来がもつ、「外部の力にコントロールされずにものごとを判断、決断できる状態」ではないでしょうか。

 横尾/芸術家は創造行為それ自体がプロパガンダです。わざわざプロパガンダ的行為をすることはないと思います。」

**(鴻巣友季子・横尾忠則「BLOWIN' IN THE WIND」〜「skyは神の住んでいるところ」より)

*「横尾/“The answer, my friend is blowin' in the wind”のthe windは曲者です。

 鴨巣/そうですね。風はどこから来るんでしょうか。横尾さんはどんな風に感じられますか?

 横尾/普通の風でないことは確かです。」

「鴨巣/答えは自分の中にしかないということでしょうか?

 横尾/というよりむしろ答えなんか存在しない。その答えを手掴みするのは難しいし、風に吹かれているのだから捉えようがない。風に吹かれて答えがどこかに消えようが、そんなことは放っておきなさい、という感じ。ここにも個人を超えた大きな何かと一体化したものを感じます。

 鴨巣/答えを手掴みするとはつまり自分が答えを所有することで、やはり個人があるということになりますか。

 横尾/そう、自分の欲望の範囲から一歩も出ていない。

 鴨巣/答えに手を伸ばすな、答えは風に吹かせておけ。いや、吹かされておけ、と。」

*「鴨巣/さて、歌詞の三番の一文目“Yes,‘n’how many times must a man look up/Before he can see the sky?”「そう、人は何度、上を見上げれば/その目に空が見えるのだろう?」。「空」とは何を意味するのでしょうか? 次は“Yes,‘n’how many ears must one man have/Before he can hear people cry?”「そう、人はいくつ耳があれば、ひとびとの泣き声が聞こえるのか?」と続きます。

 横尾/「目」や「耳」など肉体のことが増えますね。このskyは「空」意外に「天」という意味はないですか。このskyはひょっとすると「天」や「神」という意味かもしれません。「その目に神が見えるのだろうか」という「その目」とは、肉体的な五感の機能です。それをいくら使っても五感を超えた天や神は見えっこない。

(・・・)

 鴨巣/私は、the skyはディランにとって限りない自由とチャンスの象徴だったのではないかと思いました。人種、性別、社会的階層に関係なく、人は夢を追い求め、成功する機会が平等にある。それが彼にとってのアメリカン・ドリームのヴィジョンだったのではと。
 四文目の“he can hear people cry?”「ひとびとの泣き声」とは何でしょう。公民権を得られない人たちの声でしょうか、反戦の声でしょうか。

 横尾/この泣き声は、空にいる人の声でしょう。僕はなんとあく天使かなと思いました。

 鴨巣/私は訳文ではcryを「泣き声」と訳しましたが、「叫び声」かもしれませんね。

 横尾/「泣き声」にしたほうがきれいかな、ここは。

 鴨巣/「叫ぶ」だと雄叫びを上げているような、ややノイジーな印象かな。

 横尾/「叫び声」と「雄叫び」、何やらターザンが叫んでいるような。天空からターザンが(笑)。なんだか、これ天使っぽい感じするね。でも救済など求めていないし。
 “Before he can see the sky?”の前のlook up「上を見る」という行為は信仰的ですね。とくに西洋人は祈るときに手を組んで仰ぎ見ますね。(・・・)だから、英語でskyとくればやはり「神」とか「天使」とかそういう超自然的なものを感じますね。

 鴨巣/それは腑に落ちます。(・・・)

 横尾/そう簡単に「天使」とか「天国」とかい言葉を使わないで、それを感じさせる。彼は根っからの詩人ですね。」

「横尾/次の“Yes,‘n’how many deaths will it take till he knows/That too many people have died?”この「彼(he)」とはだれだろう。もしかしたら人類なのか、天使みたいな存在なのか。あるいは、大空で大声で泣いている天使かもしれない。または死者の魂かもしれない。鴨巣さんは「そう、どれだけの人は死ねば、気づくのか?」と訳されています。「どれだけの人が死ねば」とは、ふつうに考えると戦争で人が殺されるという意味になりますが。「何度死ねば気づくのか」というとまた少し転生的なものも感じます。

 鴨巣/そうか! 何人ではなく何度?

 横尾/(・・・)「どれだけの人」とは、もしかしたら転生した自分の回数だと思います。

 鴨巣/(・・・)“how many deaths will it take”ですもの、“how many people will die”ではなく。直訳すれば「いくつの死をもって人々は気づくのか」ですね。会社買うに幅がありますね。

 横尾/あ、もうこれは完全に転生のことを言っています。

 鴨巣/うわ。そうですか(笑)。

 横尾/うん。何度も死を繰り返して、この回数にまだ気がつかないのかって怒っているわけですね。あるいは、自分に対して。

 鴨巣/「何べん死ねばわかるねん」と。

 横尾/そうです。「どれだけの人が死ねば(how many deaths)」というと、戦争で兵隊がどんどん送り込まれ、大量の戦死者が出ているのにそれでも気がつかんのかと訳したくなるけど、僕は「ひとrの人が何度も何度も死ぬ」ととらえたほうが、ここは納得できる気がしますね。

 鴨巣/なんだか、どんどんこの歌詞の固定観念が覆されていきます。」

**(鴻巣友季子・横尾忠則「BLOWIN' IN THE WIND」〜「ディランの歌詞は横尾忠則芸術論」より)

*「横尾/“The answer is blowin' in the wind”「答えは風の中にある」とは、風なんか一カ所に留まっていないわけです。あっちに流れ、こっちに流れして、方向性を持っていないのが風ですよね。追いかける必要もないし別に探し求めなくてもいい。結局、その答えはおまえの魂の中にあるんだよ、と。耳で何か聞こうとしたり、上を見たり肉体感覚や五感を解放しても、なかなか風を、答えをつかめない。もっといえば問いさえないんだと。問いがないかた答えがあるはずがない。彼の歌はヒューマニズム的に考えるよりもニヒリズム的に考えた方がわかりやすいですね。

 鴨巣/いくつ耳があっても聞こえない人には聞こえない。目の目にあっても、見えない人には見えない。」

*「横尾/ほんとうの自由とは、目的かた解放されて快楽そのものと一体化したものです。目的を以てしまった以上、快楽とは縁遠いものになる。「快楽=遊び」と言ってもいい。エロスとも結びついているけれども、そこに欲望や執着が入り込むとやはりそれは穢れたものになってしまう。だから、レンブラントのように透明感のある。「わたくし意識」から離れてしまったものは何か天上の創作物のような神々しい感じがするのです。地上に属する人間なのか、天に属する人間なのかとなったとき、やはり天に属する人間でないと真の芸術はつくれないということです。ボブ・ディランは、その入口にいるのか、それがわかっているのか、あるいはなんとなく感じているのか。

 鴨巣/ディランの歌詞は横尾忠則芸術論として読み解ける。それだけ普遍性があるというのか、読み手によって違う世界が広がる面白さがある。

 横尾/ものごとはその人間の霊格によってさまざまな読み方をされます。それでいいのです。

 鴨巣/霊格といいますと?

 横尾/魂のレベルと言ってもいい。「こころ」ではないことは確かです。「こころの赴くまま」なんて言い方をしますが、僕は「こころ」ほど信用ならない嘘つきなものはないと思う。こころは脳の属性だから。一方で魂や肉体は嘘をつきません。体のほうが真実を知っています。こころにしたがっていたらロクなことはありません。

 鴨巣/こころと魂は大いに違うのですね。

 横尾/魂はむしろ肉体に近い。こころは頭が代行しています。

 鴨巣/こころ=頭という意味では英語のmindに近いですが、ところで、五感(五欲)にも近いのでしょうか、こころは。

 横尾/ええ。五感は肉体感覚ですよね。それが時には邪魔になることがある。見る、聞く、味わうなどの五欲につながりますからね。こころは脳だとか言われます。魂の住み処もこころの在り処も本当のところはわからないけれど、「心=魂」ではないことは確かですね。」

〈Blowin' Tn The Wind〉

How many roads must a man walk down
Before you call him a man?
How many seas must the white dove sail
Before she sleeps in the sand?
Yes,‘n’how many times must the cannonballs fly
Before they're forever banned?
The answer, my friend
Is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

Yes,‘n’how many years can a mountain exist
Before it is washed to the sea?
Yes,‘n’how many years can some people exist
Before they're allowed to be free?
Yes,‘n’how many times can a man turn his head
And pretend that he just doesn't see?
The answer, my friend
Is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

Yes,‘n’how many times must a man look up
Before he can see the sky?
Yes,‘n’how many ears must one man have
Before he can hear people cry?
Yes,‘n’how many deaths will it take till he knows
That too many people have died?
The answer, my friend
Is blowin' in the wind
The answer is blowin' in the wind

『答えなんか
ほっておけ』

横尾忠則・訳

われわれ人間はどれだけ歩けば
個人を超えて個になれるのか?
いくつの海を越えれば
白鳩は砂の中で眠りにつけるのか?
そう、どれくらい弾丸が飛び交うのか
すべてが焼き尽くされるまでに
マイフレンド、答えなんかほっておけ
答えは風の吹くままに

そう、山はあとどれくらい存在できるのか
海へと消えてゆくまでに
そう、われわれはどれだけ経てば
欲望から自由になれるのか?
そう、われわれはどれだけ
気づかないふりをつづけるのか?
マイフレンド、答えなんかほっておけ
答えは風の吹くままに

そう、人は何度天を仰げば
その目に神が見えるのだろう?
そう、人はいくつ耳があれば
天使の鳴き声が聞こえるのだろう?
そう、人は何べん死んだら、気がつくのか
あまりに多くの人々を亡くしたことに
マイフレンド、答えなんかほっておけ
答えは風の吹くままに

『風に吹かれて』

鴨巣友希子・訳

いくつ道を歩けば
人は一人前になれるだろう?
いくつ海を渡れば、
白鳩は砂浜で眠れる?
そう、何発弾が飛べば
爆撃をこの先、禁じられるのか?
友よ、答えは風に吹かれてる
答えは風に吹かれてる

そう、山はいつまで山でいられるだろう?
海へ流されゆくまでに
そう、彼らは自由を許されないまま
いつまで人間らしくいられるだろう?
そう、人は幾度、顔をそむけ、
見て見ないふりができるのか?
友よ、答えは風に吹かれてる
答えは風に吹かれてる

そう、人は何度、上を身上がれば、
その目に空が見えるのだろう?
そう、人はいくつ耳があれば、
ひとびとの泣き声が聞こえるのか?
そう、どれだけの人が死ねば、気づくのか?
気づくころには取り返しがつかない
友よ、答えは風に吹かれてる
答えは風に吹かれてる


◎Bob Dylan - Blowin' in the Wind (Official Audio)


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