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鎌田東二『悲嘆とケアの神話論/須佐之男と大国主』/「スサノヲの冒険」」(​ウェブマガジン「なぎさ」連載)/高橋巖『神秘学講義』

☆mediopos3184  2023.8.6

鎌田東二はウェブマガジン「なぎさ」に
二〇二二年五月から「スサノヲの冒険」を連載し
それらの内容を入れながら
『悲嘆とケアの神話論/須佐之男と大国主』を
二〇二三年五月に刊行している

十歳から座右の書として『古事記』を
読み続けて来た積年の思い
つまり神話に関する
いわば客観的な立場からの研究に対する
「抗議」の意味が込められており
しかも本書は「遺言」でもあるという

「抗議」であるというのは
おそらく鎌田氏にとっては
『古事記』を含む日本文学史を踏まえるということは
それそのものを生きてはじめて
それらを読んでいるといえるからなのだろう
言葉をかえていえば「神々の歌」を受け継ぎ
「詩と学術を切り結ぶ」ということ

「遺言」であるというのは
「これをまとめ、書き上げた時は、ガン宣告後二週間で、
手術前十日から一週間の間に
本書をまとめることになったから」であり
まさにみずからの「死」を前にした
渾身の書でもあるといえる

さて鎌田氏は
『古事記』のドラマの主役はスサノヲであるといい
みずからをスサノヲの「子分」であるとしている
そして出口王仁三郎もまた自分の霊性を
スサノヲと捉えていたことから
出口王仁三郎を「スサノヲ組の兄貴分」であるとしている

また鎌田氏は
スサノヲの中にディオニュソスを重ね
「ともに殺される神でありつつ殺す神」であり
「彼らは負の感情の渦巻く海に放り出され」
「その痛みと悲しみの中から、
それを救済するための歌と悲劇を生み出す」ととらえている

神秘学的にいえば
秘儀にはアポロン的秘儀とディオニュソス的秘儀があり
前者が「外なる世界に向かって存在の秘密を探求する」
顕教的な道であるのに対し
後者は「自分の内面への道を、
無意識の世界の奥底にまで降りていこうとする」
秘教的な道である

そしてその内面へ向かう道は
魂の危険を伴うことから
公開されることが禁じられていた

内面へ向かうということは
自己認識による自己変革であり
さらには「自己外化」を伴うものである

その意味でスサノヲ的な道は神話的に描かれると
悲劇や苦悩を運命づけられたものとなるのである

鎌田氏はガンの手術を前にして
キューブラー・ロスが『死ぬ瞬間』で示唆したような
「否認」から「受容」への葛藤の過程ではなく
むしろ「感謝」さえ感じるようになったという
そしてそれは「悉皆成仏」や
「鎮魂供養」にも通じるものではないかと

しかし昨今の日本を見渡すと至る処
「「悉皆地獄」や「金摑み合戦」のような状況」である
こんななかでも「感謝」や「鎮魂供養」が
これからも遺っていくかどうかはなはだ危うそうだ

鎌田氏はそうしたことを
「しかと見届けながらこれからを生き、
死んでいきたい。」という

同感だが
いままさにどんどん壊れている「日本」を
後世において「神話」で描くとしたら
どんな物語になるかも気になるところだ

■鎌田東二『悲嘆とケアの神話論/須佐之男と大国主』(春秋社 2023/5)
■鎌田東二「スサノヲの冒険」〜「第1回」「第5回」(2022年5月3日)
 (​ウェブマガジン「なぎさ」連載)
■高橋巖『神秘学講義』(角川ソフィア文庫  KADOKAWA 2023/3)

(鎌田東二『悲嘆とケアの神話論』より)

「十歳の時に『古事記』を読んで以来、座右の書として『古事記』を読み続けてきた。その六十三年の積年の思いが本書を成り立たせている。
 これはわが執念の書であり、神話について客観的な立場からの研究や解釈を主としてきた宗教学や人類学に対しての挑戦状であり、『古事記』を含む日本文学史を十分に踏まえることなく日本文学に従事してきた文学者たち、作家たちに対する抗議の書であり、「遺言」でもある

 「遺言」であるという意味は、これをまとめ、書き上げた時は、ガン宣告後二週間で、手術前十日から一週間の間に本書をまとめることになったからである。」

「私が研究領域としている「身心変容」あるいは「身心変容技法」とう観点からすると、病がもたらす「身心変容」はフィジカル面では不可抗力と言えるが、同時にメンタル面やスピリチュアル面ではそれを一つの警告とか啓示とかメッセージとして受け止めて、違う生き方や在り方に変容させる可能性を持っている。
 キューブラー・ロスは、たとえば、癌を宣告された患者が、死を運命として受け入れられず、検査結果を疑い、否定し、どうして自分がどんな病に罹ったのかと怒りを感じ、死の恐怖から逃れようと神仏に祈ったりすがったり、諸種の代替治療を試したり、普段しないような慈善行為の寄附をしてみたりして取引を重ね、それも役に立たないことを知ると抑うつ状態に陥って絶望的な気持ちになって何事にも無気力になるが、終には、死を避けられなぬ運命として受け入れて安らぎを得る過程を鮮やかに描いて見せた。
 これは、死の臨床人間学的研究に大きな寄与よ前進を与えるものだった。

 だが、ガンを告知されて思ったのは、まず、キューブラー・ロスの言う五段階を順序だてて辿ることのない、いきなりの「受容」もあるのではないかとという実感と、「怒り」ではなくて「感謝」と言うべき感情の生起もあるのではないかという気づきである。異論というほどではないが、違う見方や状況もあり得るのではないかということだ。
 むしろ、告知後もっとも難しく、悩ましかったのは、医師からの告知を自分自身で受容することよりも、このことを周りの他者、家族や友人にどのように伝えるかであった。」

「昨年四月に逝去した社会学者の見田宗介(一九三七〜二〇二二)は、『現代日本の精神構造』(弘文堂、一九六五年)「第二部 現代日本の精神状況」の仲野「八 死者との対話————日本文化の前提とその可能性」において、日本人には「原恩」ないし「天地の恩」の思想があると指摘している。
 「世界における道徳意識の根底にあって、〈原罪〉の意識に代わるべき地位を占めるのは、いわば〈原恩〉の意識であろう。」(・・・)
 どうも、私にも、見田宗介が言うような、「原恩」とか「天地の恩」感覚がどこかにセットされているようなのだ。
 見田は、日本文化に見られる「汎心論」においては、「日常的な生活や「ありのままの自然」がそのまま価値の彩りをもっていて、罪悪はむしろ局地的・一時的・表面的な「よごれ」にすぎない。真空のなぁに物体がある古典力学の世界ではなく、空間そのものが無数の粒子の散乱によって充たされている現代物理学の世界である。賢治や白秋の宇宙感覚、小津安二郎や木下恵介の抒情性、スナップ写真や日記への嗜好などをもち出すまでもなく、日本文化論のレギュラー・メンバーとなっている俳句や私小説はつねに、生活における「地の部分」としての、日常性をいとおしみ、「さりげない」ことをよろこび、「なんでもないもの」に価値を見いだす————「奥の細道」の旅路そのものが問題であって、到達点としての松島自体は、実はどうでもよかったのではなかろうか」と述べている。

「私がそのふもとで住まいする比叡山には、平安時代に「一仏成道見法界。草木国土悉皆成仏」と命題化される天台日本本覚思想が発達した。そのような観点からすれば、ガンも便もすべてが「成仏」ということになるだろう。
 じっさい、比叡山の麓にある天台五大門跡寺院の一つの万寿陰門跡には「菌塚」がある。発行職員の開発などに使われてきた菌に対して、そのおかげを感謝し、何億何兆という数の実験に使われてきた「多種多様な菌様」に対して鎮魂供養をする「塚」である。そこでは、毎年五月に、欠かさず供養の儀式(法要」が行なわれている。これこそ、原恩教とも「ありがた教」(すべてが有難く思える)とも言える日本の〈感謝教文化〉の発露ではないだろうか。
 だがしかし、ウクライナ戦争や国内外のクリスマス期の大雪吹雪災害などなどを見ても、てんだい本覚思想の「悉皆成仏」や「菌塚」どころか、「悉皆地獄」や「金摑み合戦」のような状況である。それでもなお、「悉皆成仏」と言える「原恩思想」や「ありがた教」の「複雑性感謝」は成り立つのか、しかと見届けながらこれからを生き、死んでいきたい。」

(鎌田東二「スサノヲの冒険 第1回」より)

「『古事記』という神話的物語のなかで、最大の闘争と危機をもたらし、同時にその危機打開のトリガーとなっているのは、須佐之男命(本連載において最頻繁に登場してくる固有神名であるので以下敬愛を込めてスサノヲと表記する)である。その意味で、スサノヲは『古事記』を面白くしている神の筆頭をなしている。
 スサノヲがいなければ、『古事記』の面白さは半減する。ドラマチックな筋立ても生まれない。葛藤も、対立も、争いも生まれない。スサノヲは、『古事記』ドラマの主役である。」

(鎌田東二「スサノヲの冒険 第5回 スサノヲとディオニュソス」より)

「出口王仁三郎は自分の霊性をスサノヲと捉えた。そしてスサノヲの霊性のこの今の発現こそ自分に他ならないと自覚し、スサノヲの道を貫いた。
 この出口王仁三郎のスサノヲ観の根幹には、「贖罪するスサノヲ」がいる。それが、痛みと悲しみに暮れながら暴れまくり、終には八岐大蛇と対峙する「救済者としてのスサノヲ」となり、そしてその際に「歌うスサノヲ」が顕現し、その後、大国主神に神威を委譲する時に「祝福するスサノヲ」の貌が現れ出る。それらとひっくるめ、束ねて、出口王仁三郎は「歌祭りとしてのスサノヲの道」を提示した。
 及ばずながら、私もその道を辿る者である。私の場合は、出口王仁三郎の自覚のように、スサノヲの化身などではなく、何十年も前から(たぶん45年前くらいから)「スサノヲの子分」と自称し、公言してきた。「子分」であるからには、「親分」の言うことを聞かねばならない。紆余曲折の多い我が人生はそのようなスサノヲの「子分」の道の曲折であった。その「子分」であり、大本共感者ではあっても大本信徒ではない私からすると、出口王仁三郎は「スサノヲ組の兄貴分」であり、「スサノヲ組代貸」のような先駆者・先達である。もちろん、「スサノヲ組」の組長であり貸元は、スサノヲ自身である。」

「私は10歳の時に『古事記』を読み、その後すぐに「ギリシャ神話」を読んで、日本神話とギリシャ神話を貫く共通点・相似性に驚き、興味を抱いてきた。そして、スサノヲの中に、ディオニュソスやポセイドンやヘルメスやペルセウスに重なる神話素を見出してきた。
 そこで、今回、ここでは、その中からスサノヲとディオニュソスとの重合性・相似点を中心に検討してみたい。」

「スサノヲとディオニュソスはともに殺される神でありつつ殺す神である。彼らは負の感情の渦巻く海に放り出されている。そしてその痛みと悲しみの中から、それを救済するための歌と悲劇を生み出すのである。
 歌は悲哀の中から生まれる。どのような喜びの歌の中にも悲哀が宿っている。そんなアンビバレントな緊張と運命的な絡まりがあり、そのようなアンビバレンツをスサノヲとディオニュソスは体現した神なのである。」

(高橋巖『神秘学講義』〜「第四章 秘儀とその行法/アポロン的とディオニュソス的」より)

「神秘学における意識の統合化の具体的な道は、古来、二つの道として伝えられてきました。つまり、エジプトやギリシアの時代から現代に到るこの新ピゲ句的な道を「秘儀」という言葉で表現するなら、秘儀には二つの秘儀があったのです。第一の秘儀はどういうことかというと、われわれが外に向かって感覚を働かせる場合、その外の世界がヴェールにおおわれているので、そのヴェールをかかげる行為が、この秘儀の行き方になるわけで、それをわれわれはアポロン的秘儀と名づけようと思います。
 それに対して第二に、人間には自分の内部に感情とか、意志とか、表象とか、さまざまの精神の世界があるわけですけれども、その内面の世界にもヴェールがかけられている。そのヴェールをかかげる道をわれわれはディオニュソス的秘儀と名づけます。したがって、アポロン的秘儀は、外なる世界に向かって存在の秘密を探求する道であり、ディオニュソス的秘儀は、自分の内面への道を、無意識の世界の奥底にまで降りていこうとする、そういう道であるとも言えるわけです。
 昔からこの二つの道ははっきりわかれていました。外部の世界で出会う神を、明らかなるカミという意味で、顕神、内部の世界で出会う神を幽神と呼ぶことで、顕界の神々と幽界の神々とを区別してきたのです。また、アポロン的秘儀の方を秘儀における大道、ディオニュソス的秘儀の方を秘儀における小道、という言い方もしてきました。
 この二つの道のうち、ディオニュソス的秘儀である、内部に向かう秘儀は非常に危険な道なので、この秘儀は、一般に非常にきびしくかくされていました。それを公開することはゆるされていなかったのです。むしろより安全な、アポロン的な、外への「大いなる秘儀」の方が、一般的に知られていたのです。」

「ディオニュソス的秘儀の最初は、夢なのです。なぜなら夢は、われわれが経験している超感覚的体験の中の、一番身近なあらわれですから、自分自身の内部で、ディオニュソス的秘儀を日常生活の中で体験しようと思ったら、夜眠っているときに体験する夢をあらためて意識化する行為からはじめるのが、一番簡単であると同時に、第一歩として必要でもあるわけです。」

「ディオニュソス的秘儀にとって非常に必要な第二の行為は、(・・・)自己変革ということです。(・・・)スパルタ的位置が、非常に簡潔な言葉で語る真理の中の真理と言われているものは二つあって、一つは「人間よ、汝自身を知れ」、もう一つは「極端にはしるな、中庸を大事にしろ」という言葉だったわけですけれども、その「汝自身を知れ」という自己認識が、ディオニュソス的秘儀の場合、特に重要になってくるのです。シュタイナーは、自己認識に二つの種類の自己認識があることを非常に強調します。第一の自己認識は、自己反省です。(・・・)反省を重ねることによって、自己を認識する場合の自己認識を、自己反省とか自己内省と言うのですけれども、じつはオカルティズムで問題になってくる自己認識は。そのような自己認識だけではなくて、第二の自己認識、つまりシュタイナーの言う自己外化です。(・・・)
 自己外化(Selbstentäusserung)というのは、(・・・)いったん自分が自分にとって大事な、身近な、必要な存在になってきた時点で、つまり自己同一性というのでしょうか、自分の存在が自分によって充分確認できる大切な存在になり、したがって自分が非常にいとおしく、大切に思える状態のときに、その自分をもう一度完全に自分の外に追い出してしまうことが自己外化なのです。そしてそれがオカルティズムにとっての自己認識なのです。」

◎鎌田東二
1951年、徳島県生れ。宗教学・哲学。武蔵丘短期大学助教授、京都造形芸術大学教授、京都大学こころの未来研究センター教授、上智大学大学院実践宗教学研究科・グリーフケア研究所特任教授を経て、京都大学名誉教授、NPO法人東京自由大学名誉理事長、天理大学客員教授。石笛・横笛・法螺貝奏者。神道ソングライター。フリーランス神主(神仏習合諸宗共働)。
主著に『神界のフィールドワーク――霊学と民俗学の生成』(青弓社、初版は創林社)、『翁童論――子どもと老人の精神誌』(新曜社)、『宗教と霊性』(角川選書)、『神と仏の精神史――神神習合論序説』(春秋社)、『霊性の文学誌』(作品社)、『神と仏の出逢う国』(角川選書)、『言霊の思想』(青土社)、『南方熊楠と宮沢賢治――日本的スピリチュアリティの系譜』(平凡社新書)、『「負の感情」とのつき合い方』(淡交社)ほか。

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