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川村悠人『ことばと呪力 ヴェーダ神話を解く』/井筒 俊彦『言語と呪術』

☆mediopos2761  2022.6.9

「光あれ」という神のコトバが
光を生んだように
初めにコトバがあり
コトバは神とともにあったように
コトバは世界を創造するが
また破壊もする

そして
神とともにあったコトバは
やがて人間の使う「ことば」となる

その「ことば」は
かつてのコトバではないだろうが
その力のなにがしかを持ち
それが「呪文」となって力を発揮する

川村悠人『ことばと呪力』では
ヴェーダ神話に記されている
「ことば」の持つ呪力について考察されている

「真の名」が秘されるのも
その「ことば」が発されることによって
力が行使されてしまうからだ

ヴェーダ神話では
呪文を唱え火を操り敵の部族や悪魔を倒し
呪文を唱えることで神が洞窟の壁を打ち砕き
またことばを間違えてしまい
取り返しのつかない失敗をする魔神の話など
「ことばと呪力」にまつわるさまざまな物語が語られる

そんな神々や呪術師の物語ほど
ドラマチックではないとしても
「私たちは知らず知らずのうちに
多くの呪術を実践してい」る

わたしたちは「ことば」によって
意識するしないにかかわらず
現実を創造しようとしているからだ

井筒俊彦は
「言語は、論理であるとともに呪術である」というが
「ことば」はその論理によって世界を秩序づけるとともに
世界を創造しあるいは破壊する力さえもっている

その「ことば」の力をどのように使えば
力を行使できるかを探求してきたのが「呪術師」である

もちろんそんな「ことば」
あるいは内化した「ことば」としての「思考」は
わたしたちがふつう使っている仕方では
神のように現実をつくりだすことはできない

古代においてはその「ことば」は
物質や生命に対しても働き得たのだろうが
現代においては
「思考は現実化する」とはいっても
ふつうの仕方で思考が直接働きかけることができるのは
物質でも生命に対してでもなく
わたしたちの心的なものに対してである

しかし少なくとも心的なものに働きかけることによって
心的なものが関わっているものに対して
間接的に働きかけることはできる
「論理」という言語の働きも
その「論理」を行使することで
その行使されたものに対して働きかけることができる

しかし「ことば」が実際に音として発せられることで
ある種の呪力を持ちえることもありそうである

どちらにせよ
わたしたちは「ことば」を使うとき
「ことば」とも深く関わっている思考も含め
じぶんの発しているそれらを
意識して使っていく必要があるのは確かである
できれば黒魔術的にではなく白魔術的に

■川村悠人『ことばと呪力 ヴェーダ神話を解く (神話叢書) 』
 (晶文社 2022/5)
■井筒 俊彦『言語と呪術 (井筒俊彦英文著作翻訳コレクション) 』
 (安藤 礼二 監訳・小野 純一 訳)
 (慶應義塾大学出版会 2018/9)

(川村悠人『ことばと呪力』より)

「呪術にはどのような種類があるのでしょうか。分類の仕方にはいろいろあると思います。一つの分類方法は、呪術が相手に悪しき結果をもたらそうとするものか、それとも良き結果をもたらそうとするものかという、呪術を実践する術者の意図の点から、それを二種類に分類するものです。具体的に言えば、前者は相手に危害を加えようとする呪術であり、黒呪術または黒魔術と言われます。後者は、病気の治癒などといった好ましい結果をもたらそうとするもので、白呪術または白魔術と呼ばれます。
(…)
 もう一つ、よく知られた呪術の分類方法があります。それは呪術の実践の仕方を基準にした分類方法で、イギリスの高名な人類学者ジェームズ・フレイザーが主著『金枝篇』の中で論じたものです。この分類方法のもとでも、やはり呪術は二種類に分けられます。一つは類感呪術または模倣呪術と呼ばれるもので、もう一つは感染魔術と呼ばれるものです。
(…)
 呪術と聞くと、現代の私たちには遠い存在のように感じるかもしれませんが、(…)私たちは知らず知らずのうちに多くの呪術を実践しています。」

「頭の中でつぶやかれることば、文字として書き出されることば、声に出して発せられることばは、かたい言い方をすれば、それぞれ心的言語、文字言語、音声言語と言われます。
 これら三種のことばを利用した呪術行為が、実は今世の中にもあふれているのです。願望の実現を念じながら心中であるいは実際に発する形でことばを使用して何らかの事柄を表白する行為は、意志呪術と呼ばれることがあります。」

「ことばと対象の関係を習得した段階に至っては、ことば無くして何らかの内容を思考することは困難と思われます。あらゆる思考にはことばが伴うからです。また逆に言えば、あらゆる言葉には思考が伴います。ことば無くして思考することはできません。それと同時に、思考を欠く形でことばを表彰することもできません。

 ことばと思考、一体どちらが先なのか。両者には一体どのような関係があるのか。ヴェーダ祭儀文献に伝わる、ことばと思考が優劣を競った物語によれば、少なくともその物語の作者(たち)は思考がまず先にあり、それをことばが伝えると考えていたようです。」

「『リグ・ヴェーダ』一〇・一二五・四では「[それを]考えること無しに 彼ら(神々や人々)はわれ(ことば)のそばで安住する」と言われていました。それを意識しようとしまいと、私たちは常にことばと共にあります。ことばから逃れることはなかなかできません。

(…)

 どうやら私たちはことばから逃れることはできないようです。思考やそれに基づく判断や行動のすべてをことばが支配していると言っても過言ではないでしょう。そのようなことばは、私たちの日々の生活を、そしてある場合には私たちの一生を左右します。

(…)

 一度発せられたことばは取り消すことができません。芸能人や政治家の失言は、後で必死になって撤回しても、本人の地位を失墜へと追い込むことが多々あります。ヴェーダ神話においても、誤った言葉を発した魔神たちは滅んでしまいました。そのような失言は、儀礼的な公式の場でなされればなされるほど重いものになります。ことばが外的に高められた状態にあるからです。

(…)

 ことばの否定的な側面ばかり述べてきましたが。ことばにはこれほどの力が備わっているのですから、使い方次第では人に良い効果をもたらすこともできるはずです。鬱々とした生活を送っていた人や地獄のどん底にいた人が、たった一言、何かしらのことばをかけられただけで救われることはありえるでしょう。何らかのことばが、それまでとはまったく違う新たな生を導いてくれることになった事例は少なくないと思います。」

(井筒 俊彦『言語と呪術』〜安藤礼二「解説 井筒俊彦の隠された秘密」より)

「井筒俊彦が『言語と呪術』で試みたのは、原初の共同体、古代的で「未開」な社会、すなわち呪術的な社会を生きる人々が使っている呪術的な言語のなかに、言語の根源的な機能を見出す、ということであった。井筒は、言語の発生と呪術の発生は等しいとさえ述べていた。あるいは、人類の言語の起源は呪術的な思考方法の発生と同時であるとさえも。もちろん、言語には、数学を生み出すようなきわめて論理的な働きも存在する。しかし、論理の基盤、論理に潜在しているものは、なによりも呪術なのである。

 言語には「呪術」と「論理」が、あたかも闇と光のように存在している。しかしながら、光を生むのは闇であり、論理を生むのは呪術なのである。呪術は、原初の共同体にのみ見出されている現象ではない。原初の共同体とパラレルである原初の人間、つまり幼児の言語獲得のプロセスこそ、呪術的な思考発生のプロセスそのものなのだ。井筒は文化人類学(および民俗学)と発達心理学を、「呪術」を介して一つに結び合わせようとする。そのような試みは荒唐無稽なものだったのであろうか。おそらく、そうではあるまい。」

◎川村悠人『ことばと呪力』【目次】

序章 ことばの呪術と古代インドの言語文化
1:呪術について 2:高められたことば 3:古代インドの言語文化
第1章 ヴェーダ神話集その一――内容通りの事柄を引き起こすことば
1:導入 2:部族長ヴァーマデーヴァの火の呪文
3:首席祭官ヴリシャ・ジャーナの悪魔祓いの歌
4:首席祭官ウシャナス・カーヴィヤと戦神インドラの二重奏
第2章 ヴェーダ神話集その二――打ちのめし破壊することば
1:導入 2:戦神インドラの魔女殺しの歌
3:戦神インドラの歌と呪術師たちの合唱
4:魔神アスラたちの失言
第3章 ヴェーダ神話集その三――運命を引きよせる名前
1:導入 2:火神アグニの名づけ要求
3:造形神トヴァシュトリの発音間違い
4:国王ダルバの改名儀礼
終章 ことばと共に生きるということ

◎井筒 俊彦『言語と呪術』【目次】

まえがき
第一章 呪術(マジック)と論理(ロジック)のあいだ――予備的考察
第二章 神話的な観点からみた言語
第三章 聖なる気息
第四章 近代文明のさなかの言語呪術
第五章 「意味」という根源的な呪術
第六章 内包の実体化
第七章 言葉のもつ喚起力
第八章 構造的な喚起
第九章 自発的な儀礼と言語の起源
第十章 呪術の環(サークル)のなかの言語
第十一章 高められた言語

解説「井筒俊彦の隠された起源」(安藤礼二)
訳者あとがき(小野純一)
主要参考文献
人名・著者名索引
事項索引

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