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古田 徹也『このゲームにはゴールがない/ひとの心の哲学』

☆mediopos2894  2022.10.20

ひとの心を知ろうとする
その「ゲームにはゴールがない」

わたしたちは切に
ひとの心を知りたいと思うことがある
けれど確実に知ることはできない
どこまでいっても不確実性とともにあるのだが

懐疑論者がひとの心に到達しえないにもかかわらず
それを求めてしまう「ゴール」そのものが
そこには存在していない

ひとの痛みを知ろうして
「神経を直結して、痛みをすべて自分の痛み」
「にすることが仮にできたとしても」
それはおそらくひとの痛みを
確実に知ることにはならない

わたしたちは
ひとの心を知りたいと思い
知るためにさまざまな言語「ゲーム」や
言語を超えた「ゲーム」を試みるが
そのなかでの終わらない果てのない試みそのものが
「ゲーム」にほかならないといえる

わたしたちは
じぶんの心を知りたいと思い
知っていると思っていたりもするが
それそのものもまた
じぶんの心を知ろうとする「ゲーム」であり
その「ゲームにはゴールがない」

じっさいのところ
じぶんの心ほど不確実なものはない
そのことをだれもが日々痛感しているはずだ

ひとの心を知りえないということを
「悲劇」だということもできるだろうが
それは同時に「喜劇」でもある
もちろんじぶんの心についても同じである

わたしたちはよくわからないままに
「心」という舞台のうえで
さまざまな「ゲーム」を繰り広げている

■古田 徹也『このゲームにはゴールがない/ひとの心の哲学』
 (筑摩書房 2022/10)

「人間が誰かほかの人間を求めること、とりわけその他者を理解しようとすること、それは本来、他者の心中を完全に理解しようとすることではない。むしろ、そのような試みは、ある種の自然科学が夢見るように、他者の心から不確実性を奪い去り、透明な機械仕掛けの存在としてのロボットに変えることだ。つまり、近づき過ぎると、かえって他者の心を見失ってしまう。我々は何よりもそのこよを怖れる。我々はたとえば、皆で神経を直結して、痛みをすべて自分の痛み(自分たちの痛み)にすることが仮にできたとしても、それを求めないだろう。他者の痛みを感じることを求めつつも、「他者の痛み」がそれとして存在すること、痛みの概念が不確かさを含むことを同時に求めるだろう。
 かといって、他者から遠ざかり過ぎても——すなわち、他者を他者として受け入れず、どこまでも不透明な存在として拒絶しても——、他者の心はそのまま見失われてしまう。全く理解不可能な存在に対しても、我々は心を見出すことができない。つまり、他者の行動を予見することの完全な可能性も不可能性も、心という概念とそもそも相容れないないのだ。むしろ、〈しばしば予見できるが、完全には予見できない〉という意味での予見不可能性にこそ、心的なものに不可欠な特徴を見出すことができる。言い換えれば、他者の透明性と不透明性、その両端の付かず離れずの揺らぎの運動それ自体にこそ、この「心的なもの」という概念の住処があるということだ。

私は、予見不可能性が、心的なもののひとつの本質的な性質に違いないと思う。および、表現の果てしない多様性も。(LW-2.65/365)

それはまた、言語ゲームというものの不可欠な特徴としてウィトゲンシュタインが最晩年に挙げたものでもある。

言語ゲームは予見不可能なものであるということを、君はよく考えなければならない。私が言わんとしているのは次のようなことだ。それには根拠がない。それは理性的ではない(また非理性的でもない)。それはそこにある——我々の生活と同様に。(OC:559)

我々の言語ゲームには、理性によって見出せるような確たる根拠が存在するわけではない。それゆえ、規則のパラドックスのような事態は原理的に排除できない。我々のゲームは、むしろそうした、他者が次に何をするか完全には予見できないという点にこそ本質的な特徴がある。たとえば、気まぐれな振る舞いをし、果てしない表現の多様性を有し、我々と言語ゲームができる機械——我々はそれを、もはや自動機械とは呼ばないだろう。映画『2001年宇宙の旅』(一九六八年)の中盤、宇宙船の乗組員に対して嘘をつき、役に立たなくなった機械HAL−9000に、我々が自然と「心的なもの」を帰属させるように。
 懐疑論者であれば、他者の心中を確実に知ること——他者の存在を完全に透明にすること——こそが我々のゲームのゴールだと言うだろう。そして、このゴールには絶対に到達しえないから、〈推測する〉ことで我慢せざるをえない、と言うだろう。しかし、それは間違っている。そもそも「このゲームにはゴールがない」(BB:54/126)のだ。敢えて、このゲームのゴールないし目的を挙げるとすれば、それは、ゲームを終わらせないことそれ自体である。概念の揺らぎが保たれること、他者が透明性と不透明性の間で揺らぎ続けること、その意味で、他者が半透明であり続けることを、我々は求めているのである。」

【目次】

第一章 他者の心についての懐疑論
  第一節 「秘密の部屋」としての心
第二節 外界についての懐疑論
「なんで分かるの?」という問いが通常意味すること ほか
第三節 日常の生活に息づく懐疑論
「秘密の部屋」として心を捉える懐疑論 ほか

第二章 懐疑論の急所 
第一節 懐疑論の不明瞭さ、異常さ、不真面目さ
「知っている」という概念は通常、知らない可能性がある場合にのみ用いられる ほか
第二節 規準
「規準」と「定義」はイコールではない ほか
第三節 文法
「文法」とは、我々が概念を用いる際に自ずと了解している前提のことである ほか
第四節 懐疑論は混乱した思考の産物なのか
「規準」と「文法」による再整理①―外界についての懐疑論の問題 ほか

第三章 懐疑論が示すもの 
第一節 懐疑論の真実、あるいはその教訓 基礎的な概念の一般的な側面に焦点を合わせたウィトゲンシュタインの議論 ほか
第二節 生活形式への「ただ乗り」としての懐疑論
懐疑論へと取り込まれる筋道①―反懐疑論者は論敵と同じ土俵に乗っている ほか
第三節 懐疑論への「自然」な道行き
「通常性の問題とは、実践の限界の問題である」 ほか
第四節 「人間的なもの」の発露としての懐疑論
ネーゲルの「不条理」論①―人間がもたざるをえない二重の視点 ほか
第五節 悲劇としての、他者の心についての懐疑論
他者の心についての懐疑論から回帰すべき日常とは、どのような世界か ほか
第六節 「他者を受け入れる」とは何をすることか
他者とのすれ違いや相互不信の典型例―物事の見方のずれと、その発覚 ほか

第四章 心の住処 
第一節 演技の習得
子どもが「痛み」という概念を習得するプロセスほか
第二節 子どもが言語ゲームを始めるとき
言語ゲームの習得と心の発達は軌を一にする ほか
第三節 「このゲームにはゴールがない」
規準の不確実性が心的概念に組み込まれていることが、他者をときに不透明にさせる ほか
第四節 他者とともにあることの苦痛と救い
他者が遠い存在になることで近い存在になる、ということの内実 ほか

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