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栗原康『大杉栄伝/永遠のアナキズム』

☆mediopos-2301  2021.3.5

アナーキズムという言葉は子どもの頃には知らなかったし
『唯一者とその所有』のシュティルナーのことを知ったのも
シュタイナーを知ってから後のことだけれど
大逆事件で処刑された幸徳秋水と同じ高知県中村で生まれたこともあり
その関係で大杉栄のことも小さい頃からわりと近しく感じていた

名前を知っていることとじぶんの信条とは無関係だし
とくにじぶんをアナーキストだとは思っていないものの
小さい頃から自由であることにはこだわってきたように思う

思うにアナーキズム的な思考が外向的にでると
社会運動化する方向にいきやすいけれど
内向的にでるとぼくのような
アンチ権威やアンチ組織などの傾向性をもった
非社会的人間を生み出すことにもなるのだろう

非社会的というのは
「物的成果とか、社会的承認とか、なにか見返り」への
欲求が低いということでもある
だからとくにあえて過激に権威や組織に抗うわけではないけれど
ことさらな評価など求めないのでそれらの価値観に左右されにくく
上昇志向やハングリー精神はもともと欠如している

こういう人間ばかりだと
今のような社会は成り立っていかないだろうが
さいわい世の中の多くの人たちをみていると
承認欲求や評価欲求などの豊富な人がたくさんいいるので
学校や会社・組織などもそれなりに
それらが効果的に働いて成り立っているように見える
とはいえそういうひとたちのなかにいると
息苦しくなることはたしかだ

そんなときこうして文庫化されたのをきっかけに
『大杉栄伝』などを読んでみたりすると
こういう人物がいたということだけで
世の中捨てたものでもなく面白いという気になる
大杉栄のような死に方をするのは面倒だから
できるだけ身を潜めて隠遁したままいようとは思うけれど

しかしあらためて思うのは
昨今のような過剰なまでの承認欲求は
じぶんから自由を放り出すようなものなのに
どうしてそんなことにこだわるのだろうということだ
現代は特に自我を課題とした時代だからかもしれない
自我にとってきわめて難しい練習問題なのだろう

■栗原康『大杉栄伝/永遠のアナキズム』(角川ソフィア文庫 令和3年2月)
■浅羽通明『アナーキズム/名著でたどる日本思想入門』(ちくま新書 2004.5)
■マックス・シュティルナー(片岡啓治 訳)『唯一者とその所有(上・下)』( 現代思潮新社 古典文庫 1977.11)

(栗原康『大杉栄伝』より)

「大杉は、思想と行動ばかりではなく、動機にも自由がなくてはならないと述べていた。意図していることはあきらかである。そのふるまいや考えかたが、いくら自分のものだとおもっていても、とんでもない他人のものであるということは多々あることだ。知らずしらずのうちに、全体の雰囲気を読んでしまって、みんなに気にいられるようなことばかりを語っていたり、そのとおりに考えてしまうことだってあるだろう。あるいは毎日、自分磨きに専念して、これが個性だとアピールしても、結局はまわりに評価されてなんぼのスキルでしかなかったりするのである。カネで買える自由がほしいのか、とりかえ可能な自由がほしいのか。大杉は、そんな自由は自由ではないという。自由とは、精神そのままの爆発である。あとさき考えずに、とにかくおもしろいことに夢中になる。もっとおもしろいことができるようになりたいから、友人の知恵を借りてみる。もっとおもしろいことを知ってもらいたいから、やってもらいたいから、友人に手を差しのべてみる。自律と相互扶助の力がどんどん高まっていく。物的成果とか、社会的承認とか、なにか見返りが欲しいわけではない。誰だって自分の力のたかまりを楽しみたい。とても単純でありふれたこと。「思想に自由あれ、しかしまた行為にも自由あれ、そしてさらにはまた動機にも自由あれ」。身を益なきものにおもいなす。自由だ。」

(栗原康『大杉栄伝』〜白井聡「解説/奴隷根性は道徳的腐敗と経済的破綻を生んだ」より)

「今回、本書を読み返してあらためて気づかされたのは、大杉を取り巻く人物たちの魅力だった。幸徳秋水や堺利彦、荒畑寒村といった著名な人物に関しては多くのことが語られ、書かれてきたし、彼らは自ら語る言葉を持っていたから、それぞれの魅力についてはここで言及するまでもない。私が心を惹かれたのは、いまはもうほとんど忘れられてしまった、より無名で、自ら語る言葉をあまり持たなかった人々である。
(・・・)彼らの多くは、特に高い教育を受けたわけではない、普通の労働者、市井の人であった。見たところごく平凡な人間が、社会的矛盾を感じ、その構造に関する幾ばくかの知識を得て、そして瞬く間に社会主義者・無政府主義者となってゆく。当時、「主義者」というレッテルがどれほど呪われたものであったかを忘れてはなるまい。それは、社会=村からの永久追放、村八分を意味した。何の躊躇いもないかのように突っ走って行った彼らの道行きは、「直情径行」という言葉では言い尽くせないほど、異様なまでに激しいものに見える。
 だが、栗原の生き生きとした叙述は大切な事実を浮かび上がらせる。すなわち、彼らは、本当に異様なのだろうか。彼らが異様に見えるとすれば、異様なのは本当は私たちの方ではないのか。彼らはただ、人間として、いや生き物として当然味わわれるべき生命の喜びを享受するために、それを妨げるものを壊そうと体当たりして行っただけではないのか。「なぜそんな真っ直ぐで大胆な生き方ができたのか」、と問うことにおそらく意味はないだろう。人間とは、生命とはそういうものだ。生命とは「永遠のアナキズム」なのだとしか言いようがあるまい。彼らは自らの死を全く恐れなかったように見えるが、権力・社会が生メインも本文を妨げているとき、すなわち生命を現に殺しているとき。殺されることを恐れる道理はなかったのであろう。彼らが社会の拒絶と死を恐れなかったことは即、生命の論理への忠実であり、生命の本来の喜びを譲らないことにほかならなかった。」

(浅羽通明『アナーキズム』より)

「アナーキズムが本来的にはらんでいた矛盾は、近代そのものの矛盾だった。
 個人に至上の価値を置きながら、結局は強大な集権国家権力による個人の支配を肯定するしかなかった近代。社会契約だとか、民主的に選ばれた権力だとか、対話による正統性だとか、さまざまな理屈は生まれたものの、要するに、至上なはずの個人に、服従を強いざるをえない事実を正統化する方便ではなかったか。
 個人が利己的で主観的なものであるかぎり、公的で客観的な秩序とはどこかで相反する。個人の至上を妥協なく貫こうとした原理主義アナーキズム。公的で客観的な秩序が権力(個の抑圧)により実現するのをあくまで拒否しようとしたアナーキズム。(・・・)そのかんばしくない帰結は、(・・・)近代自体の帰結でもある。
 そもそもアナーキズムが至上の価値をおく「自由な個人」とはどういうものだろう。
 この点をめぐる哲学的考察としては、わずかにM・シュティルナーの思索があるに過ぎない。(・・・)「移ろいゆく自我」「自我を解体する自我」「思考と行為の全体性が絶えざる若返りを続ける人間」を、シュティルナーはそのアナーキズムの中心においた。
 二十世紀では、サルトルが「脱自」という概念で表現したものに近い、どこまでもたゆまず自己を刷新してゆくダイナミックな自我・・・・・・。
 「何に、駄目な事があるものか、やって見ろ、背一ぱい推してみろ、物事は半分どころまで見当がつけばそれで沢山だ。やつて見ろ!「ぶつかつみろ!」。
 いつもこう同志を激励し、暇になると白紙に「無為」の字をひたすら書いたという大杉栄(・・・)は正しくこうし自我を生きた。彼が依拠したベルグソンの自我観は、右のシュティルナーと近い。バクーニンも、似た自我観を『神と国家』に書き残し、そのままを生きた。」

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