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吉田 健一『文学の楽しみ』

☆mediopos-2466  2021.8.17

文学に
「学」がついているのが
どこか誤解のもとかもしれない
「学」に閉じ込められたとき
文学は自由を奪われてしまう

文学とは
書かれたものであり
一般にイメージされる「文学作品」に
閉じ込めてしまう必要はないだろう

視点を拡大すれば
話すこともふくめて
言葉が使われているすべてのものを
「文学」と呼ぶことができる
「文学」は「言葉」なのだ

学校で教えられるように
言葉で書かれているものを
ジャンル分けする必要はない
数学にしても言葉であり
それもまた「文学」でもある

ジャンルを分けて
読むことも読み方のひとつだが
どれも言葉で書かれていること
言葉で話されている
すべて言葉という源から出ている

「言葉は言葉でなければならないので、
それは人間に与へられた各種の能力、
或は可能性の中で、
言葉は最も多くを約束するもの」なのだ

そのことを忘れて
言葉を狭い場所に閉じ込めたとき
どんなジャンルの言葉もすでに窒息してしまう

言葉は思想を伝えることもできるが
言葉は思想を超えている
思想を深めるためには
思想を超えた言葉を持たねばならない

言葉は論理を伝えることもできるが
言葉は論理を超えている
論理を深めるためには
論理を超えた言葉をもたねばならない

言葉は感情を伝えることもできるが
言葉は感情を超えている
感情を深めるためには
感情を超えた言葉をもたねばならない

このようにどんなものにも
言葉を使うことはできるけれど
言葉を閉じ込めてしまってはならない
精神を育てない言葉は
いのちをもたない言葉となって枯れてゆくからだ

本書の解説を書いている長谷川郁夫は
吉田健一の「文学の楽しみ」は
「読者を精神の自由へと導く」という

吉田健一いわく
「我々の精神は言葉とともに洗練されて行く」
「精神はそれを養った言葉で出来ている」という

言葉を育てていくこと
それこそが「人間が人間である」ための
いや人間が人間になるための大切な導きとなるのだ

■吉田 健一『文学の楽しみ』
 (講談社文芸文庫 2010/5)

「文学というのは、要するに、本のことである。」

「一冊の本に書いてあることが何だろうと、それが実在したことが解っている人間の生涯であっても、或は架空の人物の行動でも、或は又、人間ではなくて一つの思想上の体系であっても、それがその本で確たる空間を占めて現実の姿を与えられるのがその本を書いたものがその為に使った言葉の働きであることが一度呑み込めたならば、その結果が取った文学上の形式に本を読む自由を拘束されるということもなくなる。その時に、読書ということが漸くその正統な意味を持つことになって、我々は本をその作者に自分を託して読み、それがイエイツが編み出した独自の形而上学だったり、コン・ティキ号の航海記だったり、或は孔子の言葉だったり、或はこれも本には違いないから、スタンダアルの「パルムの僧院」だったりりする。その所謂、内容による制約というものは全くなくて、ヴィットゲンシュタインの哲学も、それが読めなければ本ではないし、猥本の定義はそれが読めたものではないということに尽きる。」

「幾何学は図形と式ですむ筈のものであり、又当然、それを目指すものであるが、点とか線、或は円などの基本的な観念を定義する言葉が如何に的確なものであるかということも、ここでは参考になる。その定義の対象になるのがそういう性質のものだからという説明は単にその的確な言葉の力をもの語るものに過ぎなくて、寧ろそうした観念を人間が得たということであって、そのことを言った序(つい)でに、こういう言葉は常にこれと同じ精神の閃きを伴うものであるということを付け加えて置いていいかも知れない。そうすると、的確な言葉が我々を楽しませるというのは、この精神の閃きによってなのだろうか。兎に角、幾何学で用いられている言葉には、言葉が指すものをその言葉が必ずそこに浮かび上がらせるという言葉による表現の規範があり、それは我々を楽しませるものであって、スタンダアルが文章の書き方を学ぶ為にナポレオン法典を繰り返し読んだというのは、それが単に勉強の為だったとは思えない。」

「文学は学問ではない。ここの所が大事である。」

「先日、エリオットに就いてどうしても書かなければならなくなって、エリオットのことでその一派がこの何十年か言って来たことの大部分は嘘だということに気が付き、非常に驚いた。これはエリオットのことだけではないかも知れないし、エリオットの一派の傾向はこの一派に限られたものではないが、問題は、文学を恐ろしく真面目に取れば、どういうことになるかということなのである。たとえば、「荒地」であって、この詩が褒められ、今でも褒められているのは、そこに神があるとか、ないとか、現代人の絶望がそこに窺えるとか、現代そのものの姿がそこにあるかという点でである。つまり、ここでもこの詩の対象、或は材料が議論の中心になっている訳であるが、もし神がいるから、或はいないから、或は現代人の絶望が窺えるからこの詩が特異であるのならば、やはりそういうことが言える別な作者の作品が他に幾らでもあり、その名かには「荒地」と正反対の性格のものもあって、そうすると「荒地」という作比そのものはどういうことになるのか。
 こういう具合に一般的な問題に個別的な作品を結び付けて何かと意見を述べるのは、文学とは別なものの材料にその作品を使うのならば、例えば、神学、或は考現学の立場からの、或は要するにただこの詩が読みたくて読むものには、第一、そうした意見が自分が「荒地」を読んで受ける印象と余りに違っていて話にならない。その一行が次の一行に続いて生じる響きとそれが伴う影像の法が、神がいるか、いないかということよりはこの場合は大事であって、更に厳密に言えば、神がいることに証明が欲しいのならば、「荒地」を読むなどという廻りくどいことをするのは止めて自分で信仰を得る他ないのである。」

「ここに、一般に言われている知識とは違ったものがある。それが普通の知識ならば、これは事実の形を取り、それだけで独立して存在してこれを足すことも、引くことも許し、それが人間の外にあって何かの口誦が生じるのが人間の思惟による点では物質の性格を持っている。併し知識の中には、その対象が人間に内在し、そこから出発しているのか、或はそこまでどこか他所から伝わって来ているのか解らず、その何れだろうと実際には人間がそれなくして人間として生きて行けないものがあって、これを求めるものが言葉であり、この知識がなければならないものであることから推せば、先ず文学はそれを得る為にある。こうして言葉を使って求めるのが文学だからであって、そう考えるべき根拠に、そのようなものを求めないで言葉を使っているのであっても、求めなければ言葉が生きて来ないということがある。如何に身過ぎ世過ぎの為に書いているのであっても、このことに変わりはない。
 それならば、この何ものかを叡智と呼んで差し支えない。それは我々に生きることを教えるのであるよりは、生きることそのものの言葉を通しての現れであり、それは我々に浸透して我々を凡て生きているものと結び、過去に遡ってそこにも我々に生きているものを見出させる。支那人が金言の形で古人の言葉を引くのは、この過去との繋がりを生きたものに感じるからで、こうして流れるものに歴史があり、伝統があり、人間であることの自覚もそこから発している。その流れを言葉が伝え、言葉にその流れがあって、そうである時に文学は役に立つも、立たないもなくて、そこになければならないものであり、人間は言葉を得た時に人間になった。言って見れば、ただそれだけのことである。これは文学というものの性質をそれがそういうものであるままに取り上げて見たまでのことで、文学が生命の表現であるということが既に言い古された真実である。併しそれが忘れられれば、それを繰り返さなければならない。
 今までと何も変わりはしないのである。実に変わりはしなくて、道徳も今までのままである。例えば、叡智を得るにも我々には勇気がなければならない。」

(解説 長谷川郁夫「言葉、という思想」より)

「「文学の楽しみ」は「文芸」に昭和四十一年新年号から十二月号まで連載され、翌四十二年二月に河出書房新社から出版された。この一書が、吉田健一の早すぎた晩年十年の驚嘆すべき穣りの季節の到来を約束する結節点となる。
 人間が人間であるために、という今やすっかり有名になったこの同義反復の一句のうちに吉田健一の思想は集約されている。本を読むことは。人間がその生命を自覚することだった。
 文学は言葉だけで築かれた世界である。このほかに定義はない。そして、「言葉は言葉でなければならないので、それは人間に与へられた各種の能力、或は可能性の中で、言葉は最も多くを約束するもの」(「文学概論」)であり、「我々の精神は言葉とともに洗練されて行く」。もとより、「精神はそれを養った言葉で出来ている」のだから(「文学が文学でなくなる時」)。−−−−「言葉を使うというのは言葉を生かすことであり、生きた言葉は喜びを覚えさせないではいない」(「文学の楽しみ」)。
 文学とは、つまりは言葉の可能性を極限まで生かす技術であった。
 「文学の楽しみ」のなかには、言葉について、文学について、いくつもの美しい章句が随所に鏤められていて、そのどれもが文学で読ませるというのは、シベリアの平原がそこまでも続くと書けば、そこにシベリアの平原がどこまでも続く」、また。「涙がないものが泣こうと思ってじたばたするのが感傷である」などという箇所に、頷きながら傍線を引いていけばきりがない。」

「言葉、言葉、言葉、と言葉のもつ本来のはたらきとその可能性を信じて、著者は文学のあるべき姿を描いて自在の境地に遊んだ。「文学の楽しみ」一書は、読者を精神の自由へと導くのである。「心をその常態に戻す」ことが文学の目的だった、と。至福の哲学。それが文学論の垣根を超えて、独自の人間論となったのは当然の帰結だった。」

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