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M・R・オコナー『道を見つける力』

☆mediopos-2255  2021.1.18

車にナビはつけていない
スマホでGPSを使うのは
雨雲レーダーを見て
自転車に乗るときなどに
雨具などの必要を確認するときくらいだ
しかもその情報は半分信じないようにしている

「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」と
高村光太郎の詩にあるように
教えられた道はすでに道ではない
道はじぶん歩むことで
はじめて得られる経験なのだから

「環境中の感覚情報を使用および整理し、
その導きにしたがうこと」を
ウェイファインディング(道探し)」という

そしてそのウェイファインディングを行うことで
脳のなかの海馬は体積を増していくという
逆に決められた目的地に案内してくれる
GPSの使用は海馬の活動を鈍らせる

GPSは人を迷わせない
GPSが認識する
「けっして変化しない空間のなかに
固定された場所や座標」に導くだけだ

「人は努力するかぎり迷うものだ」
とゲーテのいうごとく
迷う可能性を奪われた人間は
人から自由な生きた思考を奪ってしまう

GPSとネットの検索エンジンもよく似ている
どちらも大変便利なツールであることは間違いないが
GPSは決められたところに決められたように人を導き
検索エンジンはプロセスをなくした解答ツールだ

いつも迷いつづけるわけにはいかないが
ひとは許されるかぎり「さまよい歩く」ことを
楽しむようになるのがいいのではないか
それは死んだ答えを得るのではなく
生きた問いを生みだすプロセスを与えてくれる

道は未知であるからこそ生きた道となり
思考は自由であるからこそ生きた思考となるからだ

■M・R・オコナー(梅田智世 訳)
 『道を見つける力/人類はナビゲーションで進化した』
 (インターシフト 2021.1)

「私たち人類は、現在位置と行くべき場所を動物に教える生物学的ハードウェアと遺伝的プログラミングに頼るのをやめた霊長類の一種だ。そのかわりに人類は知覚と注意力をもとに認知能力を発達させ、どこへでも行ける自由を手に入れた。わたしたち人類にとって、ナビゲーションは純然たる直覚ではなく、ひとつのプロセスだ。空間を移動するとき、わたしたちは環境を知覚し、その特徴に注意を向け、情報を集める。別の言い方をすれば、空間の内的表象もしくは内的地図を構築し、記憶の「しかるべき場所」に置くということだ。わたしたちは移動により生じる情報の流れから、始点、つながり、進路、ルート、目的地を引き出し、その情報から出発地点、中間地点、到着地点を含む物語を構成する。道路を整理して記憶するこの能力のおかげで、わたしたちは帰り道を見つけることができる。さらに、道中で発見したものを洞察と知識という形に変える。それが次の探索でわたしたちを導き、方向を教えてくれる。
 ヒトのナビゲーションを成功させるための鍵は、過去を記録し、現在に注意を払い、未来を−−−−つまり到達したい目標や場所を想像する能力にある。その意味では、ナビゲーションには、空間を通過する文字どおりの移動だけでなく、時間を通過する精神的な移動も関係している。そうした精神的移動は、「想起(オートノエティック)意識」とも呼ばれる。「ノエティック」は、「わたしは知覚する」もしくは「わたしは理解する」を意味する古代ギリシャ語の<ノエオー>を語源としている。現在では、想起という用語は、時間のなかの自律的主体として心のうちでみずからを表現し、内省と自己認識を可能にする能力を説明するために使われている。
 いったいどのような脳の解剖学的構造が、この魔法のような意識を成り立たせているのだろうか?
 空間記憶には、頭頂葉と前頭葉を含む複数の脳領域が関係している。だが、ヒトの脳でナビゲーション、方向定位、地図作成を担う主要領域は海馬であることを神経学者たちは突き止めている。海馬は側頭葉の奥深くにある灰白質の領域で、ヒツジの角のように湾曲した特徴的な形をしている。爆竹さながらに発火する海馬の種々の細胞が活動を止めたら、人間は道を見つけたり、行ったことのある場所を認識したりする能力を失ってしまう。海馬の損傷や摘出を経験した人は、覚醒時の自分の他県を夢のような状態と表現する。場所の記憶やその場で起きた出来事の記憶が消え、すべての場所、すべての体験がつねに新しいものと認識されるのだ。そうした人たちはエピソード記憶、つまり過去の出来事を呼び起こす能力を喪失していて、自己意識の構築になくてはならない新たな記憶を定式化することができない。
 海馬は哺乳類の長期記憶の「何が」「どこで」「いつ」の記録には欠かせない。」
「海馬はときにヒトのGPSとも言われるが、その比喩は単純化しすぎだろう。GPSが認識するのは、けっして変化しない空間のなかに固定された場所や座標だ。それに対して、海馬の活動はひとりひとりに固有のものであり、わたしたちの観点、経験、記憶、欲求をもとに場所の表象を構築していると神経学者たちは考えている。つまり、わたしたちの個性に応じたインフラを提供しているということだ。」

「ここ数十年で、人類のナビゲーション・システムの驚くべき幅広さに目を留めた人類学者や心理言語学者が、その年代記の作成に着手している。欧州の都会人、北極圏のハンター、カヌーで海を渡る船乗り、砂漠の遊牧民。それぞれが独自の習慣とスキルを駆使して、自分の現在位置を知り、方向を見定めている。」

「道に迷うという体験さえも、文化次第で変わるとしたら? たとえば、GPSが特定の文化的条件に対応するためのガジェットであり、場所の直接的な体験や世代ごとの知識から個人を切り離すものだとしたら? たしかに、GPSはおそろしく多様な目的に使えるし、実際に使われている。」
「だが、重要なポイントは、ナビゲーション装置を使うとき、わたしたちは自分の記憶のなかに、過去のナビゲーションの成功者たちが否応なくそうしてきたような形で情報を蓄える必要がないということだ。」

「人類のさまざまなナビゲーションのプロセスやシステムのすべてを一語で包括できる用語は存在しない。わたしたちの行動やその方法に関わるプロセスをめぐっては、人類学でも神経科学でも心理学でも意見の相違があり、いまも論争が続いている。(・・・)でもわたしが思うに、ひとつだけ、いい線を行っている言葉がある−−−−「ウェイファインディング(道探し)」だ。ごくごく簡単に言えば、ウェイファインディングとは、環境中の感覚情報を使用および整理し、その導きにしたがうことを意味する。地理学者のレジナルド・ゴリッジは「ルートを決定して学習し、環境知識の獲得をつうじて、記憶をもとにそのルートをたどりなおす、もしくは引き返す能力」と定義している。突きつめて考えれば、ウェイファインディングとは、自分と世界とのつながりをめぐる新たな思考方法を提供する概念と言える。」

「社会変化と生態系破壊の時代にあって、人間と周囲の世界との関わりを再構築するウェイファインディングの可能性は、途方もなく重要なのではないだろうか。そして、もっと実利的な重要性もあるかもしれない。神経科学の研究により、人間の生活に対する海馬の複雑かつ美しい影響が解明されていくのに伴い、進路を逐一教えてくれる技術を見境なく使って海馬の活動を鈍らせたらいったい何が起きるのか、その可能性も時代に明らかになっている。空間認知、記憶、老化をめぐる研究の着々と増える知見は総じて、海馬をはたらかせないと重大な神経学的影響が生じることを示唆している。海馬の体積が時とともに縮小し、空間的問題の解決方法に悪影響を与えるおそれがあるというのだ。」
「GPSの機能は、長期的に見て、人間の幸福に微妙な、知らぬまに蓄積するおそれのある影響を及ぼすのか? その直接的な関係を調べた研究はまだないが、これまでの科学文献では、GPS技術に完全に頼り切ると、長期的には神経変性疾患になるリスクが高まる可能性が示唆されている。」

「わたしたちが人生の数分、数時間、あるいは数年を費やす日々の通勤、散歩、探索、遠出、移動、旅、そして冒険に重大な意味があると考えるのは、想像上の昔の日々や過ぎ去った遊牧の時代、徒歩旅行や巡礼をめぐる郷愁に満ちた、ロマン主義的な妄想にすぎないのかもしれない。
 あるいは、ウェイファインディングとは、この世界に存在するという奇跡のような事実をわたしたちに突きつけ、荒野にいようが都市にいようが、顔を上げて注意を払い、認知的にも感情的にも周囲の世界と関わりを持つことを求める営みなのではないだろうか。ひょっとするとそれは、自由と探検、そして場所との親密な関係を取り戻せとわたしたち人類に訴えかけてさえいるのかもしれない。」

「スティルゴーは『景色とは何か?(What Is Landscape?)』のなかで、次のように書いている。「景色の分析は、人に力を与える。注目する−−−−いかなる種類の記録もつけずに、視覚的であれほかの方法であれ、何かに注目する−−−−という行為は、ものごとを明らかにし、人の心を引きつける。日々に雑事で足早に歩きまわりながら目にする光景をつなぎあわせるときには、意志と習慣した必要とされない・・・・・・景色の探索は、たとえ何気ないものであっても、それ自体がセラピーであり、魔法である。だが、それは好奇心と注意深い観察にかかっている」。(・・・)
 いま、スティルゴーがとりわけ心配しているのが、わたしの世代やこれから生まれてくる世代のことだ。そうした世代では、GPSはごく自然なウェイファインディングの手段になっている。GPSを使うためには、自分がどこへ行きたいかをあらかじめ知っておかなければならない。したがって、GPSは「さまよい歩く」という行為の天敵だ。スティルゴーによれば、探索−−−−徒歩が好ましいが、自転車やカヌー、馬、スキーでもいい−−−−は。発見を促すという点で、頭の体操にはもってこいの行動だという。そして、探索を人類が知恵を得るための最重要手段と見なし、心と頭をさまよわせることのできる一種の歩行訓練として礼賛する人からすれば、人類が単なる効率と引き換えにその稀有な能力を手放す未来ほどおそろしいディストピアはない。スティルゴーに言わせれば、道に迷うことは発見のチャンスだ。それはあらゆる感覚を研ぎ澄ますことを求め、観察力と可能性を高める最高の注意力を引き出す。」

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