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■河合俊雄・内田由紀子 編 『「ひきこもり」考』

☆mediopos2763  2022.6.11

ひきこもりは
イニシエーションの三つの段階
「分離」「過渡」「統合」の
「分離」に似ているようにも思われるが

イニシエーションの場合は
そのプロセスによって「真の知識」など
なんらかの「意味」がそこには見出されるのに対し
ひきこもりの場合は
そのことをつうじて得ることのできるような
「意味」がそこで見出されることはない

イニシエーションの「分離」は「危機」であり
その「危機」を通ることで「統合」へと向かうが
ひきこもりの「分離」は「病理」でしかない
「意味」が見出されればおそらく
それはすでにひきこもりとはいえなくなるだろう

現代におけるひきこもりは
社会のなかに「イニシエーションにおける」ような
「知恵や知識」失われていることによって
現象化しているところがあるようだ

つまり「分離」した後
そこからあらたな「統合」へ向かって
導いてくれる「意味」を見出すことができない
できることは外的なありようを
「拒否」することでしかなくなっているのだ

それはかつてあったような共同体が
すでに失われつつあるということでもある

ある意味で「意味」は共同体によって与えられるか
共同体からの束縛からの分離・自立によって
みずから見出すものだともいえるが
そのどちらもが成立し得ないとき
「分離」したままどこへも行けなくなってしまう

じぶんの生きている世界のなかで
いかにじぶんが「承認」されているかが
最近ではとりわけ過剰になっている感があるが
その世界もかつての比較的広い「共同体」から
SNSの閉じた世界のように
「狭い人間関係中での個人レベル」になってきている

かつては宗教をふくむ共同体が
なんらかの「承認」を与えてくれていたが
現代ではそうした「権威」や「知恵」が
ますます見出せなくなってきている

「権威」にしがみつき
そこに「意味」を見出すのは
過去からよくなされてきたことだが
ほんらいのイニシエーションのように
なんらかの「知恵」を求めることに
「意味」を見出すことはむずかしい

現代ではそれは共同体によって与えられるのではなく
個の自由において求める必要があるからだ
共同体は与えられるのではなく
ある意味みずからの自由によって
いわば内在的な超越のようなかたちでしか
成立しえないといってもいいかもしれない

■河合俊雄・内田由紀子 編
 『「ひきこもり」考』
 (こころの未来選書 創元社 2013/3)

(「第五章 日本における若者の病理の変化————ひきこもりと行動化」より)

「日本には「おこもり」ということがあり、それは河合隼雄も明恵の例などをひきながら指摘しているように、移行としてこもるということがある。ファン・ヘネップは、イニシエーションの三つの段階として、まず「分離」(separation)があり、その後に「過渡」(transition)があり、最期に「統合」(integration)があると分析している。その最初の「分離」というのは、まさにこの世の中から離れてひきこもることであると考えられるのである。」

「イニシエーションは始まると、若者は共同体から分離されて小屋などにこもる。これが分離の過程である。するとひきこもりもプロセスの中で理解すると意味があるのではなかろうか。こもっているときに、祖先とか神についての知識を教えられるということが、本来のイニシエーションなわけである。」

「ユング派の分析家であるギーゲリッヒは、危機と病理を区別している。危機とは、人間が成長していくなかで一時的に陥るもので、それはむしろ成長に必要なものかもしれない。思春期は危機の代表的なものと言えよう。しかし危機が恒常化すると病理になり、たとえば統合失調症の一つであるヘベフレニー(破瓜型、妄想などが目立たず、思考障害など陰性症状が中心)が思春期に好発するように、精神病にさえなってしまう。同じようにして、一時的なひきこもりは危機とかイニシエーションのプロセスとしてとらえることができるけれども、それが恒常化すると病理になってしまう。恒常化する理由は、もちろん個別のものが存在するであろうけれども、社会的、時代的な視点から考察すると、ひきこもりから出ていく社会に意味がなくなってきている、あるいは将来の社会について下り坂のイメージが支配的であることが大きいと考えられる。ジーレジンガーの章でも、これからますます日本は下り坂で、ますます社会に出て行く意味がなくなっていくかもしれないという指摘がなされている。そうすると、こもりのプロセスから出ていくことのできない人が増えていくのではなかろうか。また出ていくほうではなくて、こもるほうを考えると、イニシエーションにおいて、こもることによって得られる真の知識とか内容がなくなってきているということが考えられる。」

「筆者は心理療法をしているけれども、その中で個々人の語りや物語につきあうことは非常に大事なことで、物語は本当にそれぞれユニークで、人によって違う。けれども同時に歴史的な課題への視点、イニシエーションにおける知恵や知識がある意味失われていっているのではないか、そしてそれがないことの確認などを意識している視点も大切ではないかと考えている。」

(「河合俊雄「おわりに————こころの自己矛盾とつなぐもの」より)

「日本人の典型的な神経症と言われた対人恐怖は激減している。しかし岩宮(恵子)は、それが別の形で表現されているというのである。そもそも対人恐怖とは共同体との葛藤に基づいているものである。近所の人が自分の噂をしているように思ったり、クラスの人の視線が気になったりするのは、共同体に含まれている束縛から分離し、自立しようとするときに生じてくる葛藤に他ならず、噂や視線は生まれつつある自意識の外部への投影である。相互協調的な自己と相互独立的な自己との間の葛藤と呼んでもよいかもしれない。しかし岩宮は、そのような共同体の自明性が最近の学校ではなくなってきていることを指摘している。つまり休んでいる子どもにクラスの近所の子どもがプリントを届けるように頼むことができなくなってきていたり、頼むと負担に感じられたりするように、同じクラスであったり、班であったりする場合に何かを分担したり助けたりするのが当然であったのが当たり前でなくなってきているのである。これは共同体の感覚の喪失である。しかし共同体の喪失によって子どもたちは自立した個人になって、自己責任を引き受けるのではなくて、自己責任を拒否する、あるいは自己責任で人間関係をつくっているように見えることを拒否し、怖がる方向に進んでいるのである。まさに相互独立的な自己を新たにうち立てることをせずに、すでに弱くなってしまい、機能していない相互強調的な自己にしがみついているかのようである。これはまさに社会心理学的実験で、ひきこもりのリスクが高い人が相互協調的でないけれども、かといって相互独立性が高いわけではないというのに相応していると考えられる。ある種のこころの自己矛盾が露呈してきているのである。」

「岩宮が取り上げている一人になる恐怖においても、ますます狭い人間関係中での個人レベルでの承認を求めているのが興味深い。そして一緒に講義に出てくれる人がいないと、孤独だと思われるのが怖くて講義に出られない学生がいるのと同じように、個人レベルでの承認を得られなかったり、得ることに消耗したりした人は、ひきこもってしまうリスクがあるのではないかと推測している。

 このように考えていくと、ひきこもりの人が出てくる背景には、日本人の生きている世界が心理学的に非常に狭くなり、したがって自己意識が狭くなっていることが関係しれているのではなかろうか。木村敏に、ドイツと日本のうつ病を比較した精神病理的な文化論がある。それによるとうつ病が自分を責めてしまうという罪悪感を中心にしているところは変わらないものの、ドイツのうつ病における罪悪感は神に対するものであるのに対して、日本でのうつ病の罪悪感は「世間」に対してのものであるのが異なるという。興味深い違いであるけれども、両方とも、神や世間というある種の抽象的で普遍的なレベルの他者に対して罪悪感を抱き、そこから自己感が生まれてくるところでは共通していると考えられる。それに対して現代の日本における他者というのはどうであろうか。そもそも今世紀に入って、「明るいうつ病」などと言われるように、罪悪感があまり前面に出ていないうつ病が多くなっているところも興味深いことであるけれども、他者は以前のような超越性をなくしているのは間違いないと思われる。岩宮が『フツーの子の思春期』で指摘しているように、自分の親しいグループの子には異常なまでの細かい気遣いを見せるものの、それ意外のクラスメートに対してはまったく気に掛けないというあり方が広まっているようである。対人恐怖に見られるように、日本人の自意識は共同体の中での自分への視線によって成立しているけれども、それはもはや世間一般というような共同体への広がりをもったものではなくて、ごく少数の親しいグループからだけのものなのである。自分の世界は非常に狭い範囲に限られてしまっている。

 同じようなことはネットについても言えるかも思われる。自分のSNSなど、狭い範囲で自分の場所が見つかると、そこから出て行って、他の世界にふれる必要がなくなる。もちろん「リア充」を求めて現実に出て行く必要もない。多くの人は狭い自分のサイトやSNSで何が発言さっれているかのチェックに一生懸命になっているけれども、その外の世界のことにはあまり関心をもっていないという状態に陥っているようである。

 岩宮の論文からすると、どうも元々の日本的な共同体というのは失われてしまったのではないかと思われる。しかし自分を支える場や他者が存在しないことには耐えられないので、狭い範囲の他者やネットなどにしがみついていると考えられる。ひきこもりもそのようなしがみつきの極端な形と考えられないであろうか。」

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