審判
昨夜。夢を見た。
辺りは真っ暗。息の詰まるような闇の中に僕はいた。姿は見えないが、耳の尖った狡猾なコウモリが、天井にぶら下がって、じっと僕を睨んでいるような気がした。
黒光りする大きなマントを、胸の前で交差して姿を隠し、息を潜めている。僕が油断した隙に、一気に襲いかかるつもりだ。尖った爪をもつ脚はしっかりと天井の僅かな凹凸を掴み、準備を整え、ギラギラした目で僕を狙っている。
カタン。何かが動き、物が落ちる音がした。コウモリは舌打ちしながら、耳をそば立てた。僕は音のした方に目を向ける。
明かりがないから何も見えない。でも気配はした。白いワンピースを来て、白い麦わら帽子を被った女性がいる気がした。
ゆっくり近づいてくる。僕のパーソナルスペースを侵しながら、ゆっくり。僕の意識はギリギリと縛り上げられていった。
考える余地はなかった。身動きすら上手くできない。固唾をのんだ。
すると女性はそっと僕の両手を取った。そして、両手を取りながら僕の周りをクルクル回り始めた。握られた手には白い手袋がされているのが見えた。
笑っているようだった。でも、声は聞こえないし、見えるのは手袋だけ。手袋越しに華奢な手の感触を感じた。
少し怖くなって手を振り切ろうかとも考えたのだけれども、そう思うと、察したかのように物凄い力で握り返してきた。
クルクルと回されるうちに、コウモリのことを考えた。コウモリはどうしたんだろう。たぶん、目を大きく開いて、マントの下の裂けた口で嗤っているのだろう。
気がつくと、暗闇ではあるが、そこがどこだか分かった気がした。そうだ、父親の書斎の前の廊下だ。僕らはその扉の前で回っているんだ。
そこで目が覚めた。
雨が降っていた。風が強く、雨粒が窓を打っている。外は白みがかっていて、夜は明けていた。
眠れそうになかったから、部屋でタバコを吸ってやり過ごすことにした。青みがかった部屋の中で紫煙が立ち昇った。あの夢は何だったのか考えたのだけれど、よく分からなかった。
着替えて、洗面台に立って身支度をした。何も変わらない日常が目の前にはあった。でもずっと夢のことが頭から離れなかった。
彼女が起きてきて、「おはよう」と僕に微笑んだ。前髪を真後ろに上げて、メガネの右下の縁を、右の人差し指の第二間接の背で押し上げた。とってもキュートだ。
僕はその仕草がとても好きだった。思わず僕も微笑む。彼女は僕の胸に飛び込んできた。
しばらくそうしていた。僕は彼女の背に手を回した。彼女が何をしているのか僕には分かっていた。
「あなたの心臓の音。わたし好き。とっても落ち着くの」
白い手袋をしていたのは彼女かもしれない。ふと思った。でも確信がなかった。そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
彼女に夢に話をしようか迷ったが、全然違う話をした。
「昨日、部屋の掃除をしていたら、写真が出てきたんだ」
「なんの写真?」
「ほら、僕と君が出逢った時の、ショップの送別会で撮った集合写真。あの時は、僕と君がこうなるとは思ってもみなかった」
「でも私は気にしていたのよ、あなたのこと」
「僕も…女の子がとっても多い職場だったけど、休憩時間に君と話すことしか考えていなかった」
「あれからずいぶん私は我慢したのよ。何年も。でもこうして2人でいられて…今はとっても幸せ」
「僕も、君に愛されて、君を愛して、すごく幸せ」
その夜。
僕は再びコウモリに遭った。
森の中。巨大なコウモリは木製の野球バットに金網を巻きつけて、僕を待ち伏せしていた。走って逃げたが、コウモリは、口笛を吹きながら、行く先々で待ち伏せしていた。
そのうち、僕は逃げ疲れて、コウモリの前でひざまづき、頭を垂れた。
すると、コウモリはバットを肩に担ぎながらゆっくり近づいてきた。僕は、汗が滴り、目を開けていられなかった。目を閉じて、コウモリの審判を待った。
コウモリは片足ずつ大きく上げて回るように歩き、じわりじわりと、場を弄ぶかのように、近づいてくる。
カチリと砂利を踏みしめる音がした。
スゥと息を吸い上げる音がした。僕は目を開きながら、コウモリを見上げようとした。コウモリの不気味に盛り上がった隆々とした脚が見えた。
その時。大きく振りかぶって、一気にまっすぐ打ち下ろした。頭頂部は陥没し、骨が砕け散り、脳が破裂した固く鈍い大きな音が耳元で聞こえた。
次にバットの先端が逆側の肩に届くほど体を捻り、もう一撃。フルスイングの2撃目。こめかみから鼻下にクリーンヒットして、グヂャリと音がして、血飛沫とともに左の奥歯と前歯が吹き飛んだ。
僕は横殴りのまま倒れた。意識は酷い喘息の人の呼吸音のように途切れそうだった。自分のどす黒い血だまりの中で、もう指一本動かなかった。
僕はここまで何か致命的な間違いを犯したのだろうか。途切れゆく意識の中で考えた。…確かに間違いはたくさんしてきた。
…そういえば…彼女はどうしているんだろう…
ビュンと空気が金属の隙間を鋭く通る音がした。
前頭葉と顎が一気に砕かれて、完全に顔を潰された。
僕はそこで途絶えた。
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