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愛について

愛について考える夜がたまにやってくる。
考えても答えの出ないことについては考えないこと、と私の恩師は言う。
しかし答えの出ないことこそ考えてしまう癖がある私は、考え出すと止まらない。

十分な愛を受けずに育ったわけではない、と思う。
それなりに愛してもらったとは思う。わからない。

あること(ここでは愛)について強く考えながら過去を思い返すと、それについて記憶を勝手に改竄してしまう。
だからあまり過去を思い返さないように、感情を軸に思い返さないようにしている。
そもそもあまり記憶が良い方ではない。

無償の愛なるものは存在するのだと思う。
それを受けてきたかどうかまではわからない。
それを受けている人間がこの世に存在するのかもわからない。
どうやっても愛というものは証明できないものだから。
何かを持って愛と定義するのであればできるかも知れない。
例えば、プレゼントを送ってくれる人はそれを持って愛を証明しようとしているのかも知れない。
またある人は、献身的な身の回りの世話をして証明しようとするのかも知れない。
それとも、言葉を駆使して伝えようとするかも知れない。
でもそれは、どうやっても愛を伝える側にしか正確なものはわからなくて、
受け取る側は、正しく受け取れるとは限らない。
目に見えないものを証明しようとするのは難しい。

私が愛についてこんなに考えてしまうのは、愛を受けてこなかったからではないか、と考えてしまうことがある。
そんなことはないだろうし、きっと親から兄弟からの愛は受けてきたのだろうと思う。
でももしかしたら愛を受けていなかったかも知れない。
今の私が、親は愛してくれていただろうと思うのは、虐待されたことはなかったし、飢餓を感じることもなく育ったからだと思っている。
そう思い込んでいるだけかも知れない。
それが幸せとは限らないし、何不自由なく育ったように見えても、愛に飢えていたということだってあるはず。


ではなぜそこまで愛に飢えているように感じてしまうのだろう。
私が望む形での、欲しい形での愛を受け取れなかったからではないかと考えることもある。
多分それが今の私には一番近い答えなのかも知れない。

愛とはなんだろう。

欲しがるものなのか、与えられるものなのか。
与えるものなのか、育むものなのか。
実体はない。
人それぞれ考え方も違う。
こればっかりは、模索しながら生きていくしかないのだろうか。

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