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靴下ってどうして片方なくなるの?


1.洗濯している時にふと思うこと


 洗濯していると子供の靴下は必ず片方が無くなる。もう片方が行き場を無くして途方にくれるという事象。どうして片方だけなくなるのか?そんなことをふと思ったことはないだろうか。
 答えは簡単で「両方無くなったら気づかないから」だという事実。靴下の洗った数やどれが何足あるかなんて、生活の中で把握する暇もなく家事に追われる主婦(夫)にとって、無くなるなら両方無くなった方がストレスがなくて良いと思ってしまうくらい納得させられるお話。
 片方だけの靴下の行き場に困り、結局片方は見つからない。そんな事を考えているくらいなら、無いものとした方が時間の効率が良いとさえ思う。靴下は両方あってこそ靴下であるという当たり前の定義が存在するから


2.リップクリームの替え時とか


 リップクリームや学校で使っていた消しゴム、最後まで使い切ることが数えるくらいしかない。無いと困るのにそこまで大事にされないもの、そんな存在の2つなんじゃないかと思う。だからと言って予備を用意するほどでもないし、リップクリームについては冬が終わると次の冬まで存在が忘れられてしまったりもする。
 どこでも買えるし、なければ買えばいい。そんな心理も働いているのだと思うし、人の消しゴムやリップクリームを使うこともないからという考え方もある。モノが飽和して便利になりすぎているっていう事も言える。


3.全部が丁度いいなんてことはない


 貧乏性を否定するつもりもない。全部を買い揃えることもあれば、全てが急に不要になることだってある。無駄なく使い切ることも困難なことならば、どこかで無駄にする覚悟ってのも必要なこと。
 靴下は穴があくまで履くのがいいのか、片方が無くなるのを理由に買い替えるのが妥当なのか。買い替えてしまえば、片方無くなったことも忘れられてしまうくらいの価値のものだってこと。便利すぎる世の中だからこその贅沢な悩みなのかもしれない。


4.でもモノは大切にしていきたい


 アルゼンチンに来て以来、日本の便利さが異常なのかと思えることがたくさんある。100円ショップやUNIQLO・マツモトキヨシがないってだけでこんなに不便さを感じるとは思ってもいなかった。コンビニに行けばモノを買うだけでなく、宅急便の手配ができて公共料金が支払える。そんな生活に慣れてしまって、モノを大事にする感覚が麻痺していたんだって思うことが多くなってきた。
 「買えばいいや」という選択肢がない生活。日本の高度経済成長の頃に戻ったような感覚。使えるうちはまだ大丈夫っていう考え方も、生活の知恵として重要なことだってあるということ。人が捨てるものにも、利用価値のあるものがあるかもしれないって、アルゼンチンの生活に根付いたものを感じる毎日。


同じ行き先のバスが連なって走る光景


5.無駄なことの先にあるもの


 便利さ故に日本人は合理的に考えることに長けている。合理的すぎて無駄だと思うことへの興味を持たないという習慣。特に若者たちがそんな傾向にあるのかもしれない。人の無駄な話をする時間、一瞬無駄かなと思うような行動の先にこそ見えるものがあって、それが自分の経験に変わることだってある。
 何にでも興味を持つことが自分の視野や見聞を広げていくことに繋がる。ネットの普及で必要な情報は得ることができる。興味ないことの情報は、興味のないところにしかないし、出来ない経験ができる場所なのかもしれない。海外で生活してみて、取捨選択だけが全てじゃないって思うことが多くなってきた気がする。


6.一番は他人の時間を無駄にしないこと


 日本人の良いところは時間を守るということ。そこにルーズな人に人が集まらないのが日本の文化。アルゼンチンでもそうありたいと思うし、人の時間を取り上げてしまうことだけはしない生活を送りたい。
「空気を読む」ってなかなか海外で伝えることが難しいと思うし、日本に移住する海外の人の悩みはコレだと聞いたことがある。けれど、人に気遣いのできる人であってほしいと思うし、そういうデリカシーがなくなってしまっては日本人の良さを消してしまうことになる。
 思いやりの部分では、アルゼンチンでもバスや電車での女性や子供(もちろんご年配にも)への配慮は素晴らしいと思う。でも、マナーや配慮に欠ける部分も多く見かけてしまうこともある。お互いの良い部分を残していければ良いなと思いながら、アルゼンチン生活を堪能していく。


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